2-4 貴族の嗜み
月に二度ほど、ミアには休日ではない休日があった。
学院の授業がない日に、サンティエ家から家庭教師がやってくる。貴族の子供なら学院へ入る前には身につけているはずの礼儀作法や手習を、十五歳になってから貴族になったミアは大急ぎで覚えなければならなかった。
午前十時から正午までは、所作の稽古だった。
「もう一度お願いいたします、フェリシアンヌ様」
「……はい」
背筋を伸ばす。右足を後ろへ引き、膝を曲げる。
「右肩が下がっております」
「はい」
「目線を落としすぎないように」
「はい……」
身体を起こせば、今度は顎の角度を直された。
孤児院にいた頃だって、礼儀を知らなかったわけではない。食事の前には手を洗う。人のものを勝手に取らない。年長者の話はちゃんと聞く。何かをしてもらったらお礼を言う。
けれど、貴族の礼儀は何かが違う。
立つ位置、歩幅、視線、手の置き方。相手の身分によって挨拶の仕方が変わり、同じカーテシーでも相手と場所と状況によって深さが違う。
そんなものをいちいち考えていたら歩くことすらできない。
初めて習ったときにそう思ったし、今でも時々そう思う。
「では、もう一度」
「はい」
右足を引く。
膝を曲げる。
背筋を伸ばしたまま身体を落とす。
――違う。
なんとなく、そう思った。
何が違うのかは分からない。
けれど、もっと綺麗にできる人を、ミアは毎日のように見ていた。
『殿下』
ふいに思い出したのは、資料室から出てきたセレスティーナだった。
真っ白な顔をしていた。
壁に手をつかなければ立っていることも難しそうだったのに、アレクサンダーに声をかけるときには、いつも通り綺麗に礼をした。
右足は、どこまで引いていただろう。
背中は。
手は。
視線は。
記憶の中のセレスティーナをなぞるように、もう一度足を引いた。
身体を落とす。
頭から下げるのではなく、背筋を伸ばしたまま。
顔を上げるところまで、ゆっくりと。
教師が何も言わなかった。
また間違えたのだろうかと恐る恐る見れば、意外にも少し微笑んでいる。
「今のは、大変よろしゅうございました」
「……ほんとですか?」
「はい。これまでで一番自然です。何か掴まれましたか?」
「ええと……上手な人を、思い出して」
「それはよいことです。美しい所作は、よく観察し、真似るところから始まります」
褒められた。
嬉しくないわけではなかった。
けれど、ミアの頭に残ったのは自分のカーテシーより、記憶の中のセレスティーナの顔だった。
白かった。
本当に、白かった。
『少し、足がうまく動かなかっただけです』
そう言っていた。
それでもあんなに綺麗に立っていた。
あの人は、いつもああなのだろうか。
「フェリシアンヌ様?」
「あ、はい」
「もう一度お願いいたします」
慌てて姿勢を整えた。
もう一度。
今度もセレスティーナを思い出して、その動きをなぞった。
「ええ。大変よろしいですよ」
また褒められた。
なのに、やっぱり嬉しさよりも、胸の奥に引っかかるものの方が大きかった。
正午になって、ようやく昼食になった。
二時間立ったり座ったり歩いたりしただけで、ミアはもう疲れていた。
椅子に座り、温かいスープを飲む。パンを食べ、肉料理にも手をつける。
食べながら、ふと思う。
セレスティーナは今日、ちゃんと昼食を食べているだろうか。
今日はアレクサンダーに何も言いつけられていないはずだ。
だったら、食べている。
たぶん。
昨日はどうだっただろう。
一昨日は。
焼き菓子を渡した日は、昼食を食べられなかった。
その前もそうだった。
朝と夜に食べられれば幸せだと、本人は言っていたけれど。
「……ほんとに?」
誰に聞くでもなく呟いた。
返事はなかった。
午後一時からは、手習の時間だった。
裁縫なら、ミアもまったくできないわけではない。
孤児院では、服に穴が開けば自分たちで繕った。年下の子供の服を直すこともあったし、ボタンくらいなら簡単につけられる。
だから最初に刺繍を習ったときには、少なくとも礼儀作法よりはましだと思った。
すぐに、間違いだったと知った。
「糸を引きすぎです。布が歪んでおりますよ」
「……はい」
「こちらは間隔が不揃いですね」
「はい……」
「裏側も美しく仕上げるよう心がけましょう」
見えないのに。
裏なのに。
そう思いながら、もちろん口には出さず針を動かす。
繕い物とは全然違う。
穴を塞げばいいわけではない。丈夫ならいいわけでもない。
綺麗でなければならない。
しかも表だけではなく、裏まで。
どうして貴族は、見えないところまで綺麗にしたがるのだろう。
しかも、ちゃんとした品物は、針痕を少しでも間違えたらひどく目立つ、緻密な布に刺すらしい。
そんなの、どう考えても今の自分では無理だ。
「フェリシアンヌ様。針が止まっておりますよ」
「あっ。すみません」
また考え事をしていた。
セレスティーナのことだ。
昨日見たときも、いつも通りだった。
綺麗に髪を結って、制服を着て、授業を受けていた。
けれど。
少し白くなかっただろうか。
元から白い人だから、よく分からない。
目の下も、少し暗かったような。
あの人は、いつ寝ているんだろう。
ちゃんと食べているのだろうか。
そんなことばかりが気になる。
「……フェリシアンヌ様?」
「はい!」
また注意された。
いけない。
今は自分の課題だ。
ミアは慌てて布へ視線を戻した。
一針刺す。
糸を引く。
もう一針。
しばらくすると、ようやく小さな花が一つできた。
「こちらは、先ほどより綺麗にできましたね」
「……ほんとですか?」
「ええ。糸の引き方もよくなっております」
少しだけ嬉しくなった。
貴族の常識には、いまだに泣きたくなる。
けれど、できなかったことができるようになるのは悪くない。
それからも何度か直されながら、針を動かして、やっと四時になった。
「本日はここまでにいたしましょう」
「ありがとうございました……」
終わった。
ミアは思わず肩の力を抜いた。
午前に二時間。
一時間きちんと昼食を食べて休んで。
午後に三時間。
それだけで、まあまあ疲れた。
「あ、先生」
帰り支度を始めた教師を呼び止めた。
「少し、見ていただきたいものがあるんですけど」
「何でしょう?」
「私が作ったものじゃないんですけど……」
引き出しから包みを取り出した。
皺に気をつけて丁寧に畳み、布で包んだ上から、汚すのが怖すぎてさらに紙で包んである。
部屋に戻ってから一度よく見たが、一度も使っていない。
というより、使えるわけがなかった。
見れば見るほど綺麗すぎて、汚したらどうすればいいのか分からない。
貴族がこれをハンカチとして使うんだなんて信じられない。
「これです」
包みを開いた。
白い絹地に、細かな花と蔓草。
中央には、自分でもまだ書くときに少し緊張する長い名前が、美しい文字で刺されている。
教師の目が止まった。
「まあ……」
「やっぱり、すごいものですか?」
教師はすぐには答えなかった。
包みごとハンカチを両手で持ち、全体を眺める。
縁を見る。
丁寧に裏返す。
また戻して、中央の文字を確かめた。
それから、感嘆したように息を吐いた。
「これは、素晴らしいですね」
「そんなに?」
「ええ。どちらの工房へ注文されたのですか?」
「工房?」
ミアは瞬いた。
「これ、手作りです」
「まあ。どなたが?」
「セレスティーナ様です」
「レーヴェン公爵令嬢が?」
「はい」
教師は改めてハンカチを見た。
「大変な腕前ですね」
「……どれくらい?」
「そうですね。熟練した職人に依頼しても、これだけのものを一枚仕上げるなら十日ほどは見ていただくことになるでしょう」
「十日」
「図案もこちらのお名前に合わせて起こしたのでしょう。既製のものではありませんね。高位貴族のご令嬢がお持ちになっても見劣りいたしませんし、嫁入り道具として揃える品の一つに加えてもよいほどです」
ミアは黙った。
十日。
「……十日?」
「ええ。もちろん職人によっても違いますが」
待って。
ミアは教師を見た。
ハンカチを見る。
もう一度、教師を見る。
「先生」
「はい?」
「これ、三日で作れます?」
「三日?」
「はい」
「……三日でございますか?」
教師が怪訝な顔をした。
「普通に学院へ通いながらです。授業も受けて、ほかにも用事とかして」
「それは……」
教師は困ったようにハンカチを見た。
「不可能とまでは申しませんが、少なくとも三日で仕上げるような品ではございませんね」
三日。
焼き菓子を二度目にあげたのは、これを受け取る三日前だ。
『でも、さしあげます』
『わたくしに、くださるのですか?』
『はい』
『本当に?』
あのとき。
まだ、このハンカチはなかった。
少なくともセレスティーナは、一度目のお返しもできていないと言っていた。
その翌日から。
三日。
あの人、三日で。
「……待って」
「フェリシアンヌ様?」
「待ってください」
何を待ってもらうのか、自分でも分からなかった。
学院にも来ていた。
授業にも出ていた。
アレクサンダーに頼まれた用事も、いつも通り片づけていた。
では。
いつ、これを作った?
「……夜?」
口から出た。
教師が首を傾げた。
混乱する頭でなんとか教師に挨拶をして見送った。
扉が閉まると、ミアは力が抜けたように椅子へ座り込んだ。
手元には、白いハンカチが残っている。
今日、自分は五時間の稽古をした。
間に一時間、きちんと食事をして休んだ。
それでも疲れた。
学院へ行く日だって、まだ慣れないことばかりで、夜になればすぐに眠くなる。多分、毎晩八時間近く寝ている。
セレスティーナは?
三日間、学院へ来ていた。
授業を受けていた。
アレクサンダーに頼まれた仕事もしていた。
その上で、これを作った。
『四時間もお休みできました』
ふいに、あの声が蘇った。
『四時間も、ですよ?』
嬉しそうだった。
本当に、嬉しそうだった。
四時間しか、ではなく。
四時間も。
「……まさか」
胸の奥がざわざわした。
もう一度ハンカチを見る。
見るからに目の詰まった、高級そうな白い絹。
艶のある鮮やかな糸で施された、細かな刺繍。
中央には、フェリシアンヌ・サンティエ。
あまり好きではなかった、自分の新しい名前。
一針一針。
セレスティーナが刺した。
いつ寝たのかも分からない三日間に。
しかも、本人は。
『わたくしの手習いで作ったものですのに?』
大したものではないように言っていた。
ミアはハンカチを大切に包み直した。
どうして、そこまでしたのだろう。
焼き菓子だ。
たった二回。
町で、庶民でも買える、普通の焼き菓子。
なのに、あの人は。
『二度もいただいてしまいましたので』
そう言っていた。
「……二度くらい」
思わず呟いた。
そんなの。
二度くらい。
焼き菓子くらい。
欲しいなら何度だってあげる。
いつでもあげる。
こんなものを三日かけて作って返さなければならないほど、大したものではない。
そう思ったところで。
ミアは、ふと気づいた。
自分はもう、次にセレスティーナへ焼き菓子を渡す理由を探していなかった。
昼食を食べ損ねたからでも。
アレクサンダーが無茶を言うからでもない。
焼き菓子くらい。
あの人があんなに喜ぶのなら、いつでもあげなければ申し訳ないような気がした。




