2-3 夢の続き
夢は、まだ覚めなかった。
反省室で目を覚ましてから、もうずいぶん日が経った気がする。それでも朝になれば同じ部屋で目を覚まし、身支度を整えて学院へ行けば、昨日と同じ人たちがいる。
食事も毎日出てくる。夜になれば、六時間も休ませてもらえる。
そして何より、この身体は今日もちゃんと動いた。
セレスティーナは、それが嬉しくて仕方がなかった。
この身体は、とても丈夫だった。
朝から授業を受けても、文字を書いても、歩き回っても、手足は思った通りに動く。少しくらい動きが鈍くなることはあっても、以前のように腕一本持ち上げるのに苦労することも、頭が動くようになるまでじっと待たなければならないこともほとんどない。
それだけではない。
いろいろなことを知っていた。
難しい文字が読める。知らないはずの歴史も分かる。礼儀作法も、魔法も、貴族の家名も、食事の作法も、頭の中を探せばちゃんと出てくる。
刺繍もできる。
楽器も弾ける。
魔法は練習すればするほど上手になるし、勉強したことは、勉強した分だけ増えていく。
夢とは、願望が叶うものなのかもしれない。
そんなことを、セレスティーナは最近よく考えるようになった。
前に見た夢がどんなものだったかは、もうあまり覚えていない。けれど、これほど長くて、これほど幸せな夢は初めてだった。
だから、いつか目が覚めるとしても。
できればもう少しだけ、この夢を見ていたかった。
アレクサンダーには、申し訳ないと思っている。
物語の中でも、セレスティーナはアレクサンダーにずいぶん嫌な思いをさせていた。
実際にこの身体に残る記憶を辿ってみても、それは間違いではないらしい。
何度も言い争った。
嫌味を言った。
フェリシアンヌに親しくするアレクサンダーへ腹を立てて、余計なこともたくさん言った。
だから嫌われているのは当然なのだろう。
それなのに、アレクサンダーは最近、よく声をかけてくれる。
資料を調べる仕事。
書類を届ける仕事。
演習場の確認。
ほかにも、細々とした仕事をいくつも与えてくれた。
王太子になる方というのは、すごい。
あれだけ嫌な思いをさせた相手にも、こうして仕事を与えてくださるのだから。
少しでも役に立てているのだと思うと、それも嬉しかった。
もっと上手にできるようになれば、アレクサンダーも少しは嫌な思いをしなくて済むようになるかもしれない。
けれど。
最近あったことの中で、一番嬉しかったのは。
やはり、フェリシアンヌのことだった。
物語の主人公。
聖女フェリシアンヌ・サンティエ。
きっと、今まで出会ってきた中で一番優しい方だ。
この身体を自分が動かせるようになる前、セレスティーナはフェリシアンヌにずいぶん意地の悪いことを言っていた。
食事の作法。
歩き方。
アレクサンダーの呼び方。
貴族としての振る舞い。
何度も何度も間違いを指摘して、嫌な思いをさせていた。
それなのに。
フェリシアンヌは、焼き菓子をくれた。
一度だけではない。
二度も。
同じ人から、同じように食べ物を二度ももらった記憶を、セレスティーナは持っていなかった。
一度目だけなら、たまたま余っていたのかもしれない。
気まぐれだったのかもしれない。
けれど二度目は、違った。
フェリシアンヌはわざわざ自分のために持ってきたのだと言った。
思い返すだけで、笑みが込み上げてくる。
「……美味しかったですね」
小さく呟いて、セレスティーナは針を刺した。
細い糸を引く。
布の上に、小さな花弁が一枚増えた。
二度目の焼き菓子を渡されたとき、さすがに受け取れないと思った。
まだ一度目のお返しさえできていなかったからだ。
それなのにフェリシアンヌは、何もいらないと言った。
自分があげたいから、と。
それだけで二度目までくれた。
ここまでしていただいて、何も求めないなんて。
聖女というより、女神なのではないだろうか。
セレスティーナはかなり真剣にそう思っていた。
せめて、自分にお返しできるものはないだろうか。
そう考えながら、先ほどから動かしていた自分の手元を見る。
白い絹地。
細い針。
色とりどりの刺繍糸。
貴族女性の嗜みとして、セレスティーナが幼い頃から習ってきたものだった。
お母様からは、まだまだ修練が足りないと言われている。
今でも毎週のように課題が届き、決められた図案を仕上げて送り返している。
この夢の中では、大した腕前ではないらしい。
毎回手厳しい批評と共に、新たな課題が返ってくる。
けれど。
「……綺麗、ですよね」
改めて見る。
少なくとも、現実のどこかで見たものと思い比べれば、とても綺麗に思えた。
揃った縫い目。
細かな花。
葉の一枚一枚まで違う色で陰影をつけることもできる。
今の自分が差し出せるものの中では、これが一番いいかもしれない。
そう思いついた瞬間。
嬉しくてたまらなくなった。
誰かに何かをもらうだけではない。
自分も、何かを返せる。
しかもこの夢の中の自分には、時間も材料もたくさんあった。
刺繍糸も布も、課題に必要なものはいつもふんだんに用意されていた。少しくらい多めに使っても問題ないことを、セレスティーナの記憶は知っている。
何を刺そう。
どんな図案にしよう。
フェリシアンヌは、どんなものがふさわしいだろう。
考えるだけで楽しかった。
生まれて初めて。
少なくとも、覚えている限りでは初めて。
同じ人から二度も食べ物をもらった。
そして、生まれて初めて。
誰かのために、贈り物を用意することができる。
その時間と材料が、この夢の中にはある。
セレスティーナは夢中になって針を動かした。
花を一つ。
その隣に葉を。
蔓草を伸ばし、縁を飾る。
中央には、フェリシアンヌの名前を入れることにした。
長くて、美しい名前だった。
できる限り丁寧に。
一針でも綺麗になるように。
そう思って手を動かしていると、時間はいくらあっても足りなかった。
ふと。
昔のことを思い出した。
現実で、幼かった頃。
いつだっただろう。
母の日というものがあると、学校で教わった。
折り紙だったと思う。
何かを作った。
花だったのか。
手紙だったのか。
そのあたりは、もうよく覚えていない。
ただ、母に渡したことだけは覚えていた。
破られた。
『こんなゴミ作ってる暇があったら、少しは役に立ちなさいよ』
そんなことを言われた気がする。
何度か、似たようなことがあったような気もする。
けれど、それももう曖昧だった。
当然のことだったのだと思う。
産んでいただいただけでもありがたい。
家に置いていただいて、食べるものまでいただいていた。
それなのに、自分が作ったものを受け取ってほしいなどと考える方が間違っていた。
自分ごときが、誰かに何かを差し上げる。
まして、受け取ってもらおうだなどと。
烏滸がましいことこの上ない。
だから。
きっと、今回も受け取ってはもらえないだろう。
それでもよかった。
針を刺す。
糸を引く。
もう一針。
また一針。
焼き菓子の味を思い出した。
甘かった。
さくりとしていた。
美味しかった。
フェリシアンヌが「私があげたいんです」と言ってくれた声まで思い出す。
また笑みが込み上げた。
気づけば、窓の外が明るくなっていた。
「あら」
朝だった。
けれど手は動く。
頭も、まだちゃんと働いている。
なら、問題はない。
昼は授業へ行き、放課後にアレクサンダーから頼まれた用事を済ませた。
夜になれば、また続きを刺した。
二日目も。
三日目も。
少し目を閉じれば、また手は動くようになった。
この身体は本当に丈夫だ。
以前なら、もっと早くに指が思うように動かなくなったはずなのに。
細かな刺繍を三晩続けても、まだ針を持てる。
まだ綺麗に刺せる。
練習しただけ、昨日より少し上手にできる。
夢というのは、本当に素晴らしい。
三度目の夜。
最後の糸を始末して、セレスティーナは出来上がったハンカチを両手で持ち上げた。
白い絹地を、細かな花と蔓草が縁取っている。
中央には、流麗な文字で。
フェリシアンヌ・サンティエ。
この身体の描く文字は美しいと思う。けれど、下書きには細心の注意を払った。
まだお母様に見せれば、直すところをいくつも指摘されるだろう。
それでも、今の自分にできる精一杯だった。
「……受け取って、くださるでしょうか」
口にして。
すぐに、それは望みすぎだと思い直した。
受け取ってもらえなくてもいい。
自分が作ったものなど、いらないと言われても当然なのだから。
それでも。
誰かのために何を作ろうかと考えて。
刺し直しのできない緻密な布地に、少しでも綺麗になるよう、できる限り丁寧に針を刺して。
焼き菓子の味と、あの優しい声を思い出しながら針を刺した。
その三度の夜は。
何度思い返しても。
生まれてから一番、幸せな夜だった。




