2-2 お返し
それから一週間ほど、アレクサンダーの要求は続いた。
毎日ではない。
二、三日に一度くらいの頻度で、思い出したようにセレスティーナを呼び止める。
「図書室でこれとこれを調べて、今日中にまとめておけ」
「演習場の備品一覧に間違いがあるらしい。確認してこい」
「教師棟にこれを届けて、そのついでに次の実習について聞いてこい」
どれも不可能な仕事ではなかった。
できないと言えば、それで終わる程度のものでもあった。
少なくともアレクサンダーは、そのつもりらしい。
けれどセレスティーナは、一度も断らなかった。
「承知いたしました」
いつも同じように微笑んで、引き受ける。
そして本当にやってくる。
それを見ているうちに、ミアの鞄には焼き菓子が常備されるようになった。
一度目は、先日の焼き菓子だった。
二度目は、その二日後。
またアレクサンダーの言いつけで昼休みの半分以上が潰れそうになっているのを見て、ミアは前と同じようにこっそりセレスティーナを追いかけた。
「セレスティーナ様」
「フェリシアンヌ様?」
「これ」
小さな紙包みを差し出す。
ところが今度は、セレスティーナの顔が曇った。
「……申し訳ございません」
「え?」
「こちらは、いただけません」
予想外の言葉に、ミアは瞬いた。
前回はあんなに嬉しそうに食べていたのに。
「嫌いでした?」
「いいえ!」
珍しく、すぐに強い声が返ってきた。
「とても美味しゅうございました」
「じゃあ、どうして?」
セレスティーナは困ったように手を重ねた。
「先日もいただいてしまいましたので」
「はい」
「ですが、わたくしはまだ、フェリシアンヌ様に何もお返しできておりません」
「……お返し?」
「はい」
セレスティーナは真剣だった。
「これ以上いただいてしまっても、わたくしにはお返しできるものがございません」
ミアは手の中の紙包みを見た。
焼き菓子だ。
一個である。
町で普通に買った。
「そんなの、いいですから」
「ですが」
「いいです」
「けれど――」
「私があげたいんです」
そう言って、セレスティーナの手へ押しつけた。
セレスティーナはしばらく困った顔をしていた。
けれど、紙包みを見下ろして。
「……本当に、よろしいのですか?」
「いいです」
「二度もいただいてしまいますが」
「いいですってば」
ようやく受け取った。
そして、やっぱり。
「ありがとうございます」
ぱっと顔を綻ばせた。
ミアは、どうして焼き菓子一つでそんな顔ができるのだろうと思った。
それでも前回ほどは驚かなかった。
少しだけ、慣れてきたのかもしれない。
問題が起きたのは、その三日後だった。
「フェリシアンヌ様」
休み時間に呼び止められて、ミアは反射的に背筋を伸ばした。
まだ自分から話しかけるのはともかく、向こうから呼ばれると身構える。
以前の記憶が、そう簡単に消えるわけではない。
「な、なんでしょう」
「あの……」
珍しくセレスティーナが言い淀んだ。
両手で何かを持っている。
「先日は、ありがとうございました」
「焼き菓子ですか?」
「はい。二度もいただいてしまって」
「いや、あれは別に――」
「このようなものしかございませんが」
差し出された。
ミアは見た。
ハンカチだった。
白い絹地に、細かな刺繍がびっしりと施されている。
縁には繊細な蔓草が巡り、その間に小さな花がいくつも咲いていた。糸の濃淡まで使い分けられ、一目見ただけでも相当な手間がかかっていることが分かる。
「昨日のお気持ちが、とても嬉しかったので」
セレスティーナは少し照れたように微笑んだ。
「お礼になればと思いまして」
ミアはハンカチを見る。
セレスティーナを見る。
もう一度ハンカチを見る。
「……これ、焼き菓子のお返しですか?」
「はい。二度もいただいてしまいましたので」
いやいやいやいや。
ミアは心の中で叫んだ。
こんなハンカチ、そうそう作れない。
値段なんて分からないけれど、少なくとも自分が買った焼き菓子二つとは釣り合わない。
こんなものを買うお金があったら、あの焼き菓子なんて百個でも二百個でも買えるのではないか。
「……いくらですか?」
思わず聞いた。
「はい?」
「これ。いくらしたんですか?」
セレスティーナが不思議そうに瞬いた。
「お金はかかっておりませんよ」
「え?」
「わたくしの手習いで作ったものですので」
ミアは卒倒しそうになった。
「作った!?」
声がひっくり返った。
近くにいたアレクサンダーたちがこちらを見る。
けれど、それどころではない。
「セレスティーナ様が?」
「はい」
「これを?」
「はい」
「全部?」
「……はい?」
なぜそこを確認されるのか分からない、という顔をされた。
ミアは改めてハンカチを見た。
細かな刺繍。
揃った縫い目。
花弁の一枚一枚まで違う色の糸を使い、縁取りまで綺麗に仕上げてある。
貴族って。
こんなことまでできないと駄目なの?
ここ数日で何度目か分からない疑問が、また頭を埋め尽くした。
「む、無理です」
「はい?」
「こんなの受け取れません!」
反射的に押し返した。
セレスティーナの手が止まった。
そして、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……そう、ですよね」
「え?」
「わたくしの作ったものをさしあげようだなんて、烏滸がましいことを申し上げました」
「えっ」
「申し訳ございません、フェリシアンヌ様」
セレスティーナは素直にハンカチを引いた。
あまりにもあっさりと。
「今後はこのようなことがないよう、気をつけますね」
「いや、違っ――」
「何やってるんだ?」
声がして、ミアは振り返った。
アレクサンダーだった。
隣にはトビアスとジークバルトもいる。
「何でもございません、殿下」
セレスティーナはいつものように微笑んだ。
「フェリシアンヌ様に、失礼なことを申し上げてしまいました」
「失礼?」
「お詫びはいたしましたので、どうぞお気になさらず」
ミアは口をぱくぱくさせた。
「……またそれ?」
トビアスが眉を寄せる。
「何でもかんでも自分が悪いみたいに言うの、さすがに気持ち悪いんだけど」
「トビアス」
ジークバルトが窘めた。
「だってそうだろ。前のこいつなら、自分の作ったものを断られてこんな反応すると思う?」
「思わんな」
アレクサンダーも苦い顔をした。
「謙りすぎだ。いい加減その芝居をやめたらどうだ」
「申し訳ございません」
「それだよ!」
アレクサンダーが苛立つ。
けれど、ミアには三人の声が少し遠く聞こえていた。
セレスティーナが手元のハンカチを畳んでいる。
丁寧に。
さっきまで差し出していたものを、しまおうとしている。
その横顔を見ていたら。
また。
ほんの少しだけ。
別の顔が重なった。
『ねーちゃん、あげる!』
テオだった。
孤児院にいた、あの弟分。
ある日、外から帰ってくるなり、得意満面で手を差し出した。
その手のひらに載っていたのは、石ころだった。
丸くもない。
綺麗な色でもない。
ただの、灰色の石ころ。
『なにこれ』
『ねーちゃんにやる!』
『いらないよ』
素で答えた。
その瞬間。
『……そっか』
テオの顔から、笑顔が消えた。
ほんの一瞬だった。
すぐに「じゃあおれが持っとく!」と笑ったけれど。
ミアの胸には、何とも言えない罪悪感だけが残った。
慌てて、
『ごめんごめん。よく見たらこれ、いい形してるな』
と言った。
『ほんと?』
『うん。やっぱちょうだい』
『いいよ!』
途端に、また笑った。
あの顔。
今のセレスティーナは笑っている。
悲しそうな顔なんてしていない。
そもそも全然違う。
相手は公爵令嬢だ。
少し前まで、
『そのような振る舞いでは、お里が知れますわ』
なんて自分に言っていた人だ。
テオじゃない。
全然違う。
違うのに。
どうしても、あのときの気配が消えなかった。
「あの」
ためらいながらも、声を出した。
セレスティーナが振り返る。
「はい?」
「ごめんなさい」
言ってから、自分でも何を謝っているのだろうと思った。
「いただいていいなら……あの、いただきたいです」
セレスティーナが瞬いた。
「こちらを、ですか?」
「はい」
「……わたくしの手習いで作ったものですのに?」
その声が、信じられないくらい嬉しそうだった。
ミアの胸がまた変な具合になる。
「いや、だって、これ売ったら、あんな焼き菓子……」
ちらりとアレクサンダーを見る。
自分がこっそり菓子を渡していることは、まだ言いたくない。
「……いっぱい買えそうだし」
最後はごにょごにょと誤魔化した。
「ですが、わたくしが作ったものですので、そのような価値は――」
「違います!」
ミアは慌てて遮った。
「綺麗すぎて、恐れ多かっただけです。もらえるなら、嬉しいです」
「……本当ですか?」
「本当です」
「本当に、もらっていただけるのですか?」
「はい」
昨日と逆だ。
そう思った。
昨日は自分が何度も「いいです」と言って、ようやく焼き菓子を受け取らせた。
今日はセレスティーナが何度も確かめている。
やがて。
「ありがとうございます」
セレスティーナが、心底嬉しそうに微笑んだ。
白く細い手から、ハンカチが差し出される。
ミアは今度こそ受け取った。
近くで見ると、ますます綺麗だった。
絹地そのものも上等なのだろう。
けれど、それ以上に刺繍がすごい。
細かな花と蔓草。
その中央に、文字がある。
ミアは目を凝らした。
フェリシアンヌ。
サンティエ。
複雑で、未だに自分でも書くときに少し緊張する、長い名前。
それが美しい筆致のまま、一針一針、刺繍されていた。
「……私の名前」
「はい」
「これも、セレスティーナ様が?」
「もちろんです」
「……手で?」
「刺繍ですので」
それはそうなのだけれど。
ミアは口をぱくぱくさせた。
なにこれ。
本当に手作りだ。
三日前、自分が焼き菓子を一つ押しつけた。
その数日後に。
こんなものができている。
どうやって。
いつ。
どれくらい時間がかかったのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
けれど、もう頭が追いつかなかった。
「お気に召していただけましたか?」
「……はい」
それだけは、なんとか答えた。
セレスティーナがまた嬉しそうに笑う。
ミアは手の中のハンカチを見下ろした。
それから、目の前の公爵令嬢を見る。
やっぱり、何も分からない。
貴族がこういうものなのか。
セレスティーナだけがおかしいのか。
本当に演技なのか。
どうして焼き菓子二つで、こんなものを返してくるのか。
考えることを、いったん諦めた。
とりあえず。
焼き菓子は、明日から三個持ち歩こう。
それだけはなんとか、心に決めた。




