2-1 焼き菓子ひとつ
翌朝、ミアが教室へ入ったとき、セレスティーナはすでに席についていた。
昨日と変わらず、背筋を伸ばして本を読んでいる。
一瞬、足が止まった。
昨日、壁に手をついていた人だ。
昼食を最後に、夕食も朝食も昼食も取らず、水すら飲まず、一睡もしないまま二十四時間以上資料室に籠もっていた人だ。
あのあとアレクサンダーに帰れと言われて、それでも教師のところへ今日の課題を聞きに行くと言っていた。
そのセレスティーナが、普通にいる。
ミアは何となく目で追った。
昨日よりは顔色がいいように見える。目の下にはまだ薄く疲れが残っている気がするけれど、少なくとも真っ白ではない。
やがて授業が始まり、教師が教室へ入ってきた。
そして、ミアは見た。
「先生。昨日の課題を提出いたします」
「ええ、確かに受け取りました」
セレスティーナが紙を差し出した。
教師が受け取った。
ミアは一度見た。
教科書へ視線を戻した。
もう一度見た。
それから、三度見た。
――やったの?
昨日、あれから?
セレスティーナは何事もなかったように自分の席へ戻ってくる。
足取りも、今日はしっかりしていた。
少なくともミアにはそう見える。
それどころか歩く姿は、自分なんかの百倍くらい優雅だった。音も立てず、背筋を伸ばして、長いスカートの裾まで綺麗に揺れる。
やっぱりお貴族様ってすごい。
そう思いかけて、いや、そうじゃない、とミアは首を振った。
休み時間になるまで待った。
待ったのだが、教師が教室を出た瞬間には、もう我慢できなかった。
「セレスティーナ様!」
少し大きな声になった。
近くにいたアレクサンダーたちまで振り返る。
セレスティーナも本を閉じた。
「はい、フェリシアンヌ様」
やっぱり、その名前で呼ばれる。
一瞬だけ胸の奥がざらついたが、今はそれどころではなかった。
「あの課題、いつやったんですか?」
「課題、でございますか?」
「今、先生に出してたやつです」
「ああ」
セレスティーナは納得したように微笑んだ。
「昨夜いたしました」
「昨夜!?」
思わず声が裏返った。
そこで、聞いてから怖くなった。
もしまた、食べていないと言われたら。
もし昨日と同じように、何がおかしいのか分からない顔をされたら。
それでも聞かずにはいられなかった。
「昨日、あれからご飯は?」
「いただきましたよ」
「ほんとに?」
「はい」
「夕ご飯?」
「はい。寮へ戻って、夕食をいただきました」
ほっとした。
自分でも驚くほど、ほっとした。
「それから課題を?」
「はい」
「……寝ました?」
「もちろんです」
ミアはさらに安心した。
「どれくらい?」
「四時間もお休みできました」
にこり。
それはもう、実に幸せそうな笑顔だった。
ミアは固まった。
「……四時間?」
「はい」
「しか?」
思わずそう言うと、今度はセレスティーナが不思議そうな顔をした。
「四時間も、ですよ?」
ミアは言葉を失った。
隣でも、アレクサンダーが眉を寄せている。
ジークバルトは何とも言えない顔になり、トビアスに至っては露骨に胡散臭そうな目をしていた。
「……さすがに演技が過ぎない?」
トビアスが小声で言った。
「四時間寝ただけで、そんな顔するか?」
「だから言っただろう」
アレクサンダーも苦々しげだった。
「俺たちに聞かせてるんだ」
「しかし……」
ジークバルトが口を濁した。
ミアは三人の話を聞きながら、セレスティーナを見ていた。
「朝ご飯は?」
「もちろんいただきました」
「ちゃんと?」
「はい」
嬉しそうだった。
「昨夜も今朝もお食事をいただきました。夜は四時間も休んでしまいましたので、今日はとても元気です」
どこからどう見ても、幸せそうだった。
昨日の昼から何も口にせず二十四時間以上起きていたことを責めているわけでもない。
あれだけ働かされたのだからもっと寝かせろ、と訴えているようにも見えない。
夕食を食べた。
朝食も食べた。
四時間も眠った。
だから幸せだと。
本当に、それだけを言っている顔に見えた。
――貴族って。
ミアは呆然とした。
――こんなこともできないと駄目なの?
昨日の夜と同じところへ、また考えが戻ってしまった。
どうにも、それ以外の説明が思いつかなかった。
それから数日が経った。
休みを挟んだ、一の日の昼前だった。
「セレスティーナ」
アレクサンダーが呼び止めた。
「はい、殿下」
セレスティーナはすぐに足を止めた。
「これを資料室へ返しておけ。それからこっちは教師棟へ。あと、演習場の使用申請も出してこい」
机の上にいくつかの書類と本が置かれる。
どれもアレクサンダー自身がやろうと思えばできる用事だった。
王太子だから誰かに任せなければならない仕事でもない。
どう見ても、雑用だった。
「午後には終えておけよ」
「かしこまりました」
セレスティーナは本を抱えた。
ミアは時計を見る。
もう昼休みが始まっている。
「アレク様」
「なんだ」
「それ、全部やったら、お昼休みなくなりません?」
「だから何だ」
「だからって……」
「本人が言ったんだろう」
アレクサンダーはセレスティーナを見る。
「朝と夜に食べられれば、それだけで幸せなんだろ?」
ミアは息を呑んだ。
それは違う。
たしかに、似たようなことは言っていた。
けれど。
だから昼食を取らせなくていいという話ではなかったはずだ。
「はい」
ところがセレスティーナは微笑んだ。
「朝食もいただいておりますので、問題ございません」
「ほらな」
アレクサンダーが言う。
「なら行け」
「承知いたしました」
セレスティーナは本と書類を抱えて歩いていった。
ミアはその背中を見送った。
嫌、だった。
何が、とはうまく言えない。
セレスティーナ自身がいいと言っている。
アレクサンダーに無理やり引きずられていったわけでもない。
それでも。
朝食を食べたから、昼はいらない。
そんな話になるのは、やっぱり何か違う気がした。
ミアは自分の鞄へ手を入れた。
ここ数日、持ち歩くようになったものがある。
小さな紙包みを確かめて、心の中でうなずいた。
アレクサンダーたちと食堂で昼食を食べ、お花摘みにと言ってそばを離れた。
育ちのせいもあり、アレクサンダーたち以外と交流の乏しいミアだが、四六時中そばにいるわけではない。
教師棟から戻るセレスティーナを待ち構えて声をかける。
腕に抱えていた書類は、もうない。
どうやら用事はほとんど終わったらしい。
「セレスティーナ様」
自分から声をかけるのには少し勇気がいったが、ミアが呼ぶと、セレスティーナはすぐに振り返った。
「フェリシアンヌ様。いかがなさいましたか?」
「あの」
ミアは周囲を見た。
アレクサンダーはいない。
それを確認してから、鞄へ手を入れた。
「これ」
差し出したのは、小さな焼き菓子だった。
町で買ったものだ。
貴族が贈答に使うような高級品ではない。けれど孤児院にいた頃なら、何か特別なことがあった日に買ってもらえるかどうかというくらい。
今のミアなら、自分のお小遣いで買える。
少し背伸びをすれば、普通の町の人でも買える程度のものだった。
セレスティーナが目を瞬いた。
「……こちらを?」
「お昼、食べられないんですよね?」
「はい。ですが朝食はいただいておりますので――」
「でも、さしあげます」
言ってしまってから、少し強かったかと思う。
セレスティーナは焼き菓子を見る。
それから、ミアを見る。
「わたくしに、くださるのですか?」
「はい」
「本当に?」
「……はい」
「いただいても、よろしいのですか?」
「どうぞ」
それでもセレスティーナは、すぐには手を伸ばさなかった。
「ですが、フェリシアンヌ様がお召し上がりになるためにお持ちになったものでは?」
「違います。セレスティーナ様にあげようと思って持ってきたんです」
「わたくしのために?」
「はい」
「本当に、いただいてしまっても?」
「いいですってば」
もう何度目だろう。
少しうんざりしたミアが、半ば押しつけるように焼き菓子を差し出すと、ようやくセレスティーナの両手が伸びた。
壊れ物でも扱うように、そっと受け取る。
「ありがとうございます」
笑った。
ミアは息を止めた。
何かが、記憶の奥で重なった。
孤児院にいた頃。
弟分の一人が、ひどいいたずらをしたことがあった。
何をしたのだったか、もう細かいことは覚えていない。
とにかく大人をひどく怒らせて、罰として夕食抜きを言いつけられた。
日が暮れてから、ミアはこっそり仕置き部屋へ忍び込んだ。
自分の分から残しておいたパンを、半分。
誰にも見つからないように持っていったのだ。
『ねーちゃん、これ、いいの?』
『半分だけね。絶対言わないでよ』
『ほんとに?』
『いらないなら持って帰るけど』
『いる!』
大慌てでパンを抱えて。
それから、満面の笑みで言った。
『ねーちゃんほんとにありがとなー! おれ、一生ついてくよ!』
馬鹿、と笑った。
たったパン半分なのに。
明日の朝には、また朝食が出るのに。
そんなに喜ばなくてもいいのにと。
今。
その笑顔が。
目の前にいる、美しい公爵令嬢の顔に重なって見えた。
「大切にいただきますね」
セレスティーナは紙包みを丁寧に開いた。
中から焼き菓子を取り出す。
指先で割ることもせず、小さく一口かじった。
さくり、と軽い音がした。
ゆっくり噛んで、飲み込む。
それからセレスティーナの目が、ほんの少し丸くなった。
「……美味しいです」
もう一口。
今度は先ほどより少しだけ大きかった。
美味しそうに食べる。
それでも、がつがつとは食べない。指先も口元も綺麗で、一口ずつは小さい。
なのに、嬉しいのだということだけは嫌になるほど分かった。
目元が柔らかい。
口元が少し緩んでいる。
いつもの完璧に整えられた公爵令嬢の微笑みより、ずっと幼く見えた。
ミアはますます分からなくなった。
自分を見つけるたびに眉を寄せ、
『フェリシアンヌ様』
と呼び止めてきた人。
何をしても足りないとでも言いたげに、自分の間違いを指摘してきた人。
その人が今、小さな焼き菓子一つを、それはもう大事そうに食べている。
「……そんなの、一つで」
気づけば、声に出ていた。
セレスティーナが顔を上げる。
「はい?」
「あ……」
何でもないです、と言おうとした。
けれどセレスティーナは、手の中の焼き菓子を見て、また嬉しそうに笑った。
「これで今日は十分幸せです」
ミアは固まった。
朝食は食べた。
昼食は、アレクサンダーに言いつけられた用事で食べられない。
その代わりに、焼き菓子を一つもらった。
それで。
今日は十分幸せ。
「……夕飯は食べてくださいね」
口から出ていた。
セレスティーナが瞬く。
「はい?」
「だから、夕食です。今日はちゃんと食べてください」
言ってから、しまった、と思った。
まただ。
相手は公爵令嬢なのだ。
昨日から、貴族は自分とは違うのかもしれないと考えていたばかりではないか。
食事を抜くことも、眠らず勉強することも、この人たちにとっては自分が思うほど大変なことではないのかもしれない。
それなのに、まるで孤児院の弟や妹に言うみたいに。
夕飯はちゃんと食べて。
そんなことを、公爵令嬢に。
「……あの、今のは」
忘れてください。
そう続けようとした。
けれど、セレスティーナは聞いていなかった。
焼き菓子の残りをもう一口かじっていた。
「……美味しい」
小さな声だった。
幸せそうだった。
ミアの言葉など耳に入っていないのではないかと思うほど、すっかり焼き菓子に夢中になっている。
――貴族らしさって、何なんだろう。
ミアはとうとう分からなくなった。
目の前にいるのは、十五年間貴族として育てられた公爵令嬢だ。
何でも知っている。
何でもできる。
自分なんかよりずっと綺麗に歩いて、食べて、話す。
けれど今だけは。
たった一つの焼き菓子をもらって喜んでいるその顔が、どうしても精緻な人形のような公爵令嬢には見えなかった。
孤児院の、あの弟分。
パンを半分もらっただけで、一生ついていくと笑った子供。
その顔が、何度も重なる。
アレクサンダーは言った。
演技だ。
何か企んでいる。
自分たちを騙そうとしている。
だから化けの皮を剥がさなければならない。
ミアは、最後の一口を惜しむように食べるセレスティーナを見た。
食べ終わると、包み紙に残った小さな欠片まで指先で拾って口にした。そして、残った包み紙を丁寧に畳むと、ポケットから精緻な刺繍の施されたハンカチを取り出し、大切そうに包んで戻した。
それから、もう一度。
「ありがとうございます、フェリシアンヌ様。とても美味しかったです」
嬉しそうに笑った。
――これが、騙してる顔なの?
分からない。
考えれば考えるほど、分からなくなった。
ただ一つ。
次にアレクサンダーがまた昼食を潰すようなことを言いつけた時用に、焼き菓子は一つではなく二つ持ち歩こう。
そんなことだけが、妙にはっきりとミアの頭に残った。




