1-5 できあがった課題
セレスティーナの姿が廊下の向こうへ消えても、四人はしばらくその場から動かなかった。
アレクサンダーの腕には、大量の紙が残されている。
昨日、セレスティーナが第三資料室へ持ち込んだときには、ほとんどが白紙だった。それが今は、端から端までびっしりと文字で埋まっている。
「……とりあえず」
最初に口を開いたのはトビアスだった。
「読む?」
アレクサンダーが無言で睨む。
「だって、まだ中身見てないだろ。あれだけ大騒ぎして、実は全部でたらめでした、なら話が早いじゃないか」
「それもそうだな」
ジークバルトが一枚を手に取った。
ミアもおそるおそる覗き込む。
四人はそのまま、近くの空き教室へ移動した。
机の上に、セレスティーナが残した紙を広げる。
最初に確認したのは、五人それぞれが事前に調べていた内容だった。
一月前に課題が発表されてから、それぞれ自分の担当分については少しずつ資料を集めていた。本来なら五の日にそれらを持ち寄り、足りない部分を補いながら一つの計画書へまとめる予定だった。
セレスティーナ自身の担当分も、すでにある程度終わっていた。
けれど昨日アレクサンダーが命じたのは、それをまとめろという話ではない。
『五人分、一から全部だ』
だからセレスティーナは、残る四人の分についても改めて自分で調べていた。
「……ここ、僕が調べたのと同じ資料だ」
トビアスが呟いた。
魔物の生息域について記された一節だった。
「でも、その次は違うな。こっちは別の討伐記録から引いてる」
「何か問題があるのか?」
「逆。こっちの方が新しい」
トビアスは自分の鞄から、事前に用意していた資料を取り出した。
見比べる。
「僕が使ったのは十二年前の記録。こっちは七年前。その間に生息域が少し北へ移ってる」
「じゃあ、セレスティーナ様の方が正しいんですか?」
「少なくとも今ある資料の中じゃね」
ミアが目を丸くする。
トビアスは面白くなさそうに次の紙を取った。
「習性も……まあ、合ってる。危険度も妥当。弱点は……」
しばらく読む。
「これも合ってるな」
ジークバルトは、戦闘計画の部分を読んでいた。
こちらは彼の方が詳しい。
「前衛は私と殿下。トビアスを中央、セレスティーナ嬢を後衛寄りに置き、ミアはその内側か」
「私、一番後ろじゃないんですか?」
「後方から奇襲を受けたときに対応できない。中央に近い方が守りやすい」
「あ、なるほど」
「ただし魔物が複数の場合は――」
ジークバルトの指が、紙の上を追う。
読み進めるにつれ、その顔から疑うような色が消えていった。
「……よく考えられている」
「ジークより?」
トビアスが横から聞く。
「そうは言っていない」
「じゃあ殿下より?」
「なぜ比較する必要がある」
「気になるじゃないか」
「黙って読め」
ジークバルトは眉を寄せたが、すぐにまた紙へ目を落とした。
装備についても、ただ必要なものを並べただけではない。
五人が持ち運べる重量を考え、誰が何を持つかまで分けてある。
水。
食料。
治療用品。
予備の魔石。
野営道具。
魔物の種類によっては、通常装備から何を減らし、代わりに何を増やすべきかまで記載されていた。
「ここ」
ジークバルトが一か所を指した。
「私が調べた資料にはなかった」
「どれ?」
「この魔物は火を恐れるが、攻撃魔法としての炎には反撃する性質がある。だから討伐に火属性魔法を使うのではなく、松明で進路を限定して風魔法で誘導する、と」
トビアスが別の紙を探した。
「ああ、これか。討伐記録じゃなくて、猟師の報告から拾ってる」
「そこまで読んだのか」
「みたいだね」
二人とも黙った。
また紙をめくる。
読めば読むほど、粗探しが難しくなっていった。
もちろん完璧ではない。
実際に魔物と戦った経験のない一年生が作った計画だ。想定が甘いところもあれば、実地ではその通りにいかないだろうと思われる箇所もある。
けれど、課題として見れば十分だった。
少なくとも、二十四時間で適当に作ったものではない。
必要な資料を探し、読み比べ、考えて書いている。
それが何十枚も続いている。
「……これ」
ミアが、だんだん不安そうな顔になっていた。
「私たち、ここまでできないと駄目なんですか?」
「バカ言え」
トビアスが即答した。
「あいつがバカなんだ」
「えっ」
「五人でやる課題だぞ。しかも六の日まで時間がある。一月かけてそれぞれ調べたものを持ち寄って、五の日と六の日でまとめれば終わるようにできてるんだよ」
トビアスは紙の束を指で叩いた。
「それを昨日の放課後から一人でやった。しかも飯も食わない、水も飲まない、寝もしない。どう考えたってやり方がおかしい」
「でも、こんなにちゃんとできてるんですよね?」
「だから余計にバカなんだよ」
トビアスは心底理解できないという顔をした。
「これだけ調べられる頭があるなら、もっと効率のいい方法がいくらでもあるだろ」
「殿下に命じられたからではないのか?」
ジークバルトが言った。
「だからって普通やる?」
「普通ではない」
そこだけは即答だった。
ジークバルトは、手元の計画書へ視線を落とした。
「だが……ここまでするのは、並大抵の努力ではないだろう」
アレクサンダーが眉をひそめた。
「何が言いたい」
「そのままの意味です」
「お前まであいつの芝居に騙されるのか?」
「芝居かどうかの話はしておりません」
ジークバルトは真面目な顔で答えた。
「この量を、昨日から今日までに本人が書いた。それは事実でしょう」
「字を真似させたのかもしれない」
「後半ほど筆跡が乱れている。途中だけ他人に書かせたようにも見えません」
「魔法を使ったとか」
「筆跡をそのまま複製する魔法など、少なくとも学院では教わっていないよ」
トビアスが口を挟んだ。
「外から術具を持ち込んだ可能性はある」
「そこまでする意味ある?」
「だから、それを隠すための芝居だろう!」
アレクサンダーの声が大きくなった。
三人が黙る。
アレクサンダー自身にも、言いながら苦しいことは分かっていた。
もし不正をするつもりだったのなら、もっと楽な方法がある。
適当に何枚か仕上げて、できませんでしたと戻ってくればいい。
そもそもアレクサンダーの命令自体、正式な学院の命令ではない。拒否したところで課題の評価には何の影響もない。
セレスティーナが公爵家へ訴えれば、困るのはむしろアレクサンダーの方だ。
それなのに彼女は断らなかった。
誰にも手伝わせず。
食べず。
飲まず。
眠らず。
本当にやった。
そんな馬鹿な話があるか。
「……あいつは、昔からそうだ」
アレクサンダーは吐き捨てるように言った。
「自分が一番正しいと思っている。自分が一番優秀で、自分こそ王太子妃にふさわしいと。散々そういう態度を取ってきた」
それは三人も知っている。
「それが、反省室に入れた次の日から突然あれだぞ。怒りもしない。言い返しもしない。ミアにも何も言わない。俺が何を言っても、承知しました、申し訳ございませんだ」
あの穏やかな笑顔を思い出す。
腹が立った。
「人間が一晩であんなに変わるわけがない」
ミアは何も言わなかった。
それは、自分もずっと思っていることだった。
ただ。
だからこそ、演技なのだろうか。
反省室で見た真っ白な顔。
意味の分からない反省文。
今日、壁に手をついていた姿。
『終わるまで資料室から出てくるなと、殿下から申しつけられましたので』
何かを企んでいる人が、そこまでするのだろうか。
分からない。
やっぱり、分からなかった。
「絶対に何かある」
アレクサンダーが言った。
まるで三人に言い聞かせるというより、自分自身へ言い聞かせているようだった。
「どうにかして誤魔化しているだけだ」
「殿下」
「次は逃げ道をなくす」
ジークバルトが顔を上げた。
「次?」
「あいつが誤魔化せない形で試せばいい」
「まだやるの?」
トビアスが呆れた声を出す。
「当たり前だ」
アレクサンダーは机の上の計画書を睨んだ。
「必ず化けの皮を剥がしてやる」
トビアスは何とも言えない顔になった。
ジークバルトも眉を寄せている。
ミアは、少し考えてから口を開いた。
「でも、アレク様」
「なんだ」
「次は、ご飯くらい食べられるやつにしてくださいね」
アレクサンダーが黙った。
「あと、お水も」
「……分かってる」
「寝る時間も」
「分かってる!」
苛立った声が返ってきた。
ミアはそれ以上言わなかった。
机の上には、セレスティーナが二十四時間以上かけて作った計画書が広がっている。
その内容を一番疑っていたはずの四人が、結局一か所も致命的な間違いを見つけられないまま。
次にどうやってセレスティーナの化けの皮を剥がすのか。正しいことをしているはずなのに、なぜかひどく苦い気がしていたのは、果たして自分だけなのだろうかと、ミアは思わずにはいられなかった。
※
その日の夕食は、白身魚の香草焼きだった。
付け合わせには柔らかく煮た野菜があり、温かいスープと、焼きたてのパンもある。
寮の食事は美味しい。
ミアが学院へ来てから何度も思ったことだった。
孤児院でも食事に困っていたわけではない。けれど、肉や魚が毎日のように出ることはなかったし、パンだって焼きたてとは限らなかった。
初めの頃は嬉しくて食べすぎて、作法の教師に叱られたくらいだ。
ミアはパンをちぎり、スープへ浸して口へ運んだ。
美味しい。
もう一口食べる。
そこで、ふと思い出した。
『昨日の昼食をいただきました』
手が止まった。
昨日の昼。
つまり、セレスティーナは昨日の夕食を食べていない。
今朝も。
今日の昼も。
しかも、水まで飲んでいなかった。
「……無理」
思わず小さく呟いた。
ミアには絶対に無理だった。
一食抜くだけでもお腹が空く。夕食を食べずに寝たら、朝にはきっとお腹が鳴る。
それなのに、昨日の昼から何も食べず、水も飲まず、一晩中眠らずに調べ物をしていた。
それも、自分一人の課題ではない。
五人分。いや、セレスティーナ本人の分は終わっていただろうが、それでも四人が一月かけるはずの量だ。
あの分厚い紙の束を思い出す。
セレスティーナの字で埋め尽くされた、何十枚もの紙。
ミアはもう一度、パンをちぎった。
けれど、さっきまでより少しだけ食べる手が遅くなった。
『フェリシアンヌ様。その程度のことも教わっていらっしゃらないの?』
ふいに、あの声が蘇った。
背筋が伸びる。
嫌な記憶だった。
『殿下をそのようにお呼びするなど、慎みなさい』
『サンティエ家の名を背負っている自覚がおあり?』
怖かった。
今思い出しても、嫌な気持ちになる。
言っていることが正しいのが、余計に嫌だった。
自分は十五年間、孤児として育った。
貴族の作法なんて知らなかった。
フォークが何本も並んでいる意味も分からなかったし、誰に先に挨拶をしなければならないのかも知らなかった。
それを間違えるたびに、セレスティーナは見つけた。
どうしてそんなことまで知っているのだろうと思うくらい、何でも知っていた。
貴族なら、それが普通なのだと思っていた。
アレクサンダーも知っている。
ジークバルトもトビアスも知っている。
自分だけが知らない。
だから、貴族というのはそういうものなのだろうと。
けれど。
ミアは今日見た紙の束を思い出した。
一月かけて五人で調べるものを、一人で一日。
トビアスは馬鹿だと言った。
ジークバルトは、並大抵の努力ではないと言った。
あのセレスティーナが、そんなことをする人だとは思っていなかった。
いつだって綺麗な服を着て、綺麗な髪をして、背筋を伸ばしている。
何でも知っていて、何でもできて、それを当然のような顔でこちらにも求めてくる。
嫌な公爵令嬢。
そういう人だと思っていた。
「……お貴族様って、やっぱり違うのかなあ」
ミアは小さく呟いた。
結局、そんなところへ落ち着いた。
きっと小さい頃から、ああいうことができるように育てられているのだ。
眠らずに勉強したり。
食事をしなくても我慢したり。
難しい本を何冊も読んで、一日であれだけのものを書いたり。
自分とは違う。
だからセレスティーナは、あれほど自分のことを何も知らないと思っていたのかもしれない。
そう考えると、やっぱり少し腹が立った。
多少すごいところを知ったからといって、今まで言われたことが辛くなくなるわけではない。
あの言い方は怖かったし、「フェリシアンヌ様」と呼ばれるのも嫌だ。
セレスティーナのことは到底、好きにはなれない。
けれど。
『絶対に何かある』
今度はアレクサンダーの声を思い出した。
『どうにかして誤魔化しているだけだ』
本当にそうなのだろうか。
ミアには分からない。
アレクサンダーはセレスティーナの婚約者なのだから、自分より彼女のことはずっとよく知っているはずだ。
だったら、アレクサンダーの言うことの方が正しいのかもしれない。
それでも。
反省室で見た、真っ白な顔。
壁に手をついて、それでも「もう動きますので、問題ございませんよ」と言った姿。
何がおかしいのか分からないような顔で、
『終わるまで資料室から出てくるなと、殿下から申しつけられましたので』
と言った声。
あれまで全部、演技なのだろうか。
「……分かんないなあ」
ミアはスープを飲んだ。
分からなくても、温かかった。
少しだけ胸の中の何かが軽くなる。
分からなければ、学ぶしかないのだ。
たくさんのマナーと行儀作法と、学校の課題と同じだ。
アレクサンダーが本当に何か企んでいると言うなら、自分もちゃんと見て確かめよう。
怖いからといって、全部アレクサンダーに任せておく必要もない。
セレスティーナが本当に以前と同じ人なのか。
今のあの態度が、何かを企んだ演技なのか。
自分の目で見て、それから決めればいい。
そこまで考えて、ミアはもう一度パンをちぎった。
「……あ」
思いつく。
きっとアレクサンダーは、また何かやらせるつもりなのだ。
本人も「次は」と言っていた。
だったら。
「お菓子くらい、持っていこうかな」
小さな焼き菓子くらいは、今では好きに買ってこられる。寮の自室にも用意してあった。
あれだけ自分を見下していたセレスティーナが、食べるかどうかは知らない。
受け取ってくれるかも分からない。
別に、仲良くしたいわけでもない。
好きになったわけでもない。
ただ。
次もまた、あんな真っ白な顔で壁に手をついて出てこられるのは、なんとなく嫌だった。
ミアは残っていたパンを口へ入れた。
今部屋にある菓子は何だっただろう、と考えながら。




