1-4 五人分の課題
反省室での一件から、数日が経った。
セレスティーナは、何事もなかったかのように学院へ通っていた。
授業には遅れない。教師に当てられれば正しく答える。提出物にも不備はなく、誰かに声をかけられれば穏やかに応じる。
けれど、以前のセレスティーナを知る者からすれば、それこそが不自然だった。
「いつまで続けるつもりなんだろうな」
三の日の昼休み、アレクサンダーが苛立たしげに呟いた。
「何をです?」
ミアが聞く。
「決まっているだろう。あいつのあの態度だ」
少し離れたところで、セレスティーナは一人で本を読んでいた。
以前なら、アレクサンダーたちが集まっていれば当然のように会話へ加わってきた。ミアがいればなおさらだった。
それが今は、呼ばれなければ近づいてもこない。
「反省したんじゃないですか?」
「セレスティーナが?」
アレクサンダーが鼻で笑った。
「あり得ない」
「でも、あれから一度も何も言ってきませんよ」
「だから気味が悪いと言っているんだ」
ミアは口を閉じた。
それは少し分かる。
ただ、アレクサンダーが考えているような「何かを企んでいる気味の悪さ」とは、少し違う気もしていた。
「殿下の仰る通りだと思います」
ジークバルトが真面目な顔で頷いた。
「以前の彼女なら、あれほどのことを言われて黙っているとは思えません。何か考えがあるのでは」
「まあ、何かあるなら、そのうち分かるんじゃない?」
トビアスだけは面白そうにセレスティーナを眺めていた。
「今のところ前より静かだし、実害もない」
「お前は気にならないのか?」
「気になるから見てるんだよ」
その視線に気づいたのか、セレスティーナが本から顔を上げた。
目が合った。
トビアスがにこりと笑う。
セレスティーナも、ごく自然に微笑み返した。
それだけで、また本へ目を戻す。
「ほら」
「何がほらなんだ」
「いや。やっぱり変だなと思って」
トビアスは肩をすくめた。
放課後になった。ミアとアレクサンダー、トビアス、ジークバルトは不本意ながらセレスティーナと机を囲んでいる。
一月ほど前、学院では夏季の実地課題に備えたグループ課題が発表されていた。
数名で組になり、夏季に出現しやすい魔物について調査し、実地行動を想定した計画書を作成する。
対象となる魔物の生息域、習性、弱点、危険度。遭遇した際に必要となる装備や隊列、戦闘時の役割分担、撤退の判断基準。
課題の内容自体は、それほど難しいものではない。
問題は量だった。
一人ですべてを調べることを想定した課題ではない。一月ほどかけて五人で資料を分担し、最後に持ち寄って一つの計画書へまとめることが前提になっている。
班分けも同じ日に決定されていた。
アレクサンダー、ジークバルト、トビアス、ミア、セレスティーナ。
もともとアレクサンダーたち三人とミアは、学院側としても組ませやすい面々だった。王太子とその側近候補である二人が、貴族社会に不慣れな聖女を補助する。
そこへセレスティーナが加わったのは、本人が譲らなかったからだ。
『殿下の婚約者であるわたくしが、なぜ殿下と別の班にならなければなりませんの?』
教師が宥めても聞かなかった。
結局、アレクサンダーが折れた。
それから一月。
提出期限は、今週の六の日。
今日が三の日だから、まだ三日ある。
五人とも放課後に時間を合わせ、五の日と六の日を使って資料をまとめる予定だった。
少なくとも、昼まではその予定だった。
三の日の授業がすべて終わったあと、五人は確認のために自習室へ集まった。
「五の日の放課後でいいよね?」
トビアスが予定表を確認する。
「俺と殿下は空いている。ジークは?」
「問題ない」
「私も大丈夫です」
ミアが答えた。
自然と、四人の視線が最後の一人へ向いた。
セレスティーナは静かに頷いた。
「わたくしも問題ございません」
それだけだった。
以前の彼女なら、こんなものでは済まなかった。
どの資料を誰が調べるか。
アレクサンダーは何を担当するべきか。
ミアには何ができるのか。
少なくとも一つや二つは口を挟み、自分の意見を通そうとしたはずだった。
アレクサンダーは、それが妙に癇に障った。
「……ずいぶん大人しいな」
「はい?」
「前のお前なら、とっくにあれこれ指図していただろう」
セレスティーナは少し考えた。
「皆様のお決めになったことに従わせていただこうかと」
「反省室に一晩入っただけで、ずいぶん殊勝になったものだ」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「申し訳ございません」
即座に頭を下げる。
アレクサンダーの口元が歪んだ。
またこれだ。
何を言っても怒らない。
皮肉を言えば礼を言い、嫌味を言えば謝る。
あれほど執着していた自分にも近づいてこず、あれほど目の敵にしていたミアにも何も言わない。
まるで、自分だけはもうすっかり反省しました、とでも言いたげではないか。
「……そうか」
アレクサンダーは椅子の背へ身体を預けた。
「そこまで反省したというなら、ちょうどいい。態度で示してもらおうか」
「アレク様?」
ミアが嫌な予感を覚えて顔を上げた。
アレクサンダーは課題の用紙を指先で叩いた。
「これ、お前一人でやれ」
一瞬、誰も反応しなかった。
セレスティーナが課題の用紙を見る。
「こちらを、でございますか?」
「ああ。五人分、一から全部だ」
「殿下、それは――」
ジークバルトが口を挟みかけたが、アレクサンダーは続けた。
「一人でできるだろう? お前はいつも、自分は公爵令嬢として誰より優秀だと言っていたじゃないか」
以前のセレスティーナなら、ここで顔を真っ赤にしたはずだった。
何をおっしゃいますの。
これは五人の課題ですわ。
殿下はわたくしを何だとお思いなの。
そう怒鳴り返してくる顔が、簡単に想像できた。
だから、アレクサンダーはわざと笑った。
「それとも、反省したというのも口だけか?」
「……アレク様、それ意地悪ですよ」
ミアが小声で言った。
「お前は黙っていろ」
「でも」
「こいつが嫌なら嫌と言えばいいだけだ」
そう言って、アレクサンダーはセレスティーナを見る。
「どうした? できないのか?」
セレスティーナは少しだけ考えた。
五人分の課題。
資料は学院に揃っている。
しかも、自分の分はあらかた終わっている。
期限は六の日。
何を調べればいいのかも、すでに一月前から示されている。
仕事としては、ずいぶん親切だと思った。
「いいえ」
セレスティーナは微笑んだ。
「承知いたしました」
アレクサンダーの笑みが止まった。
「……何?」
「皆様の分の課題を、わたくしが一人で完成させればよろしいのですね?」
「ああ」
「かしこまりました」
セレスティーナは机の上にあった自身の用意した課題の用紙を取り、鞄を開いた。
筆記具。
それから、提出用に用意してあった白紙の束。
それだけを取り出す。
「第三資料室を使用してもよろしいでしょうか?」
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
セレスティーナは紙を揃えた。
アレクサンダーは、まだ何かが気に入らなかった。
これでは自分が一方的に無理難題を押しつけて、セレスティーナが健気に引き受けたようではないか。
そんなつもりではなかった。
怒らせたかったのだ。
化けの皮を剥がしたかった。
だから、さらに言った。
「途中で泣きついてくるなよ」
セレスティーナが振り返る。
「はい」
「終わるまで資料室から出てくるな。人に手伝わせるのもなしだ」
「承知いたしました」
「六の日まで籠もっていても、俺は知らないからな」
「期限までに終えられるよう努めます」
どこまでも穏やかだった。
アレクサンダーは舌打ちしたい気分になった。
「では、行ってまいります」
セレスティーナは四人へ一礼し、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
「……殿下」
ジークバルトが少し困ったような顔をした。
「なんだ」
「さすがに、あれは」
「嫌なら断ればいい」
アレクサンダーは吐き捨てた。
「どうせすぐに出てくる」
「それは僕もそう思うけど」
トビアスが頬杖をついた。
「というか、本当に自分でやると思ってる?」
アレクサンダーが眉を上げた。
「どういう意味だ?」
「セレスティーナ嬢だよ。あの人が五人分の課題を一人でちまちま調べると思う?」
「……思わないな」
「だろ?」
トビアスは笑った。
「今頃、侍女でも呼んでるんじゃない? 資料室に籠もってることにして、調べ物も清書も全部やらせるとか」
ジークバルトも否定しなかった。
「あり得ない話ではないな」
「入るとき、白紙しか持ってなかったし。明日あたりには立派な計画書を持って出てくるんじゃない?」
「それならそれで化けの皮が剥がれる」
アレクサンダーは冷たく笑った。
「人にやらせたものを自分の成果として出すなら、今度こそ言い逃れはできない」
「アレク様……」
ミアだけが、閉じた扉の方を気にしていた。
「何だ」
「いえ……」
やっぱり、少し意地悪すぎると思う。
けれどセレスティーナ自身が断らなかった。
それにミアだって、今まで散々嫌なことを言われてきた。
わざわざ追いかけて庇うほどの気持ちは、まだなかった。
※
第三資料室には、必要なものがすべて揃っていた。
魔物図鑑。
過去の討伐記録。
地域ごとの生態調査。
地図。
武器や防具についての資料。
過去の実地訓練で提出された計画書まである。
セレスティーナは、少し感動した。
こんなにたくさんの資料を、自由に読んでいいらしい。
机も広い。
照明もある。
紙もインクも持ってきた。
そして何より、やるべき仕事が最初からはっきりしている。
まず課題を細かく分けた。
対象となる魔物を選定し、生息域、活動時間、習性、弱点、危険度を調べる。必要な装備を選び、五人それぞれの魔法適性を踏まえて隊列を組む。遭遇した場合の行動、負傷者が出た場合の対応、撤退条件まで決める。
元のセレスティーナが持っていた知識も使えた。
この世界の文字も読める。
魔物についての基礎知識もある。
魔法も分かる。
必要な資料を探し、読み、比較し、書く。
それだけでいい。
なんて仕事のしやすい環境なのだろう。
セレスティーナはすぐに作業を始めた。
※
三の日が終わり、四の日になった。
朝になっても、セレスティーナは資料室から出てこなかった。
「まだやってるの?」
朝食の席で、ミアが聞いた。
「まさか」
トビアスはパンをちぎりながら笑った。
「昨夜のうちに侍女を入れたんじゃない?」
「でも、アレク様、人に手伝わせるなって」
「だから見つからないようにやるんだろ」
ジークバルトも頷いた。
「セレスティーナ嬢付きの侍女なら、主人の命令には従うだろう。本人は資料室に残り、必要なものだけ外へ回している可能性もある」
「そこまでします?」
「元のあいつならする」
アレクサンダーが言った。
言い切ってから、少しだけ引っかかった。
元の。
自分は今、なぜそんな言い方をしたのだろう。
すぐに考えるのをやめた。
「昼までには出てくるだろう。適当に形だけ整えてな」
けれど、昼になっても出てこなかった。
午後の授業にも、セレスティーナの席は空いたままだった。
教師に尋ねられ、アレクサンダーは「課題に取り組んでいます」と答えた。
放課後になった。
「……まだ?」
ミアが窓の外を見た。
「しぶといな」
アレクサンダーの声にも、少し苛立ちとは違うものが混じり始めていた。
「様子を見に行く?」
トビアスが言う。
「どうせなら現場を押さえようよ。侍女が出入りしてたら面白いし」
「お前、本当に性格悪いな」
ジークバルトが呆れる。
「殿下に言われたくないと思うけど」
「俺は何も言ってない」
「顔に書いてある」
結局、四人で第三資料室へ向かった。
廊下の角を曲がったところで、扉が開いた。
最初に見えたのは、白い紙の束だった。
その向こうから、セレスティーナが出てくる。
顔色は、ひどく悪かった。
反省室から出てきた朝より白い。目の下には濃い影が落ち、長い髪にも乱れがある。
それでも四人を見つけると、いつものように微笑んだ。
「あら。ちょうどよろしゅうございました」
「……終わったのか?」
「はい、殿下」
セレスティーナは抱えていた紙の束を差し出した。
「ご確認をお願いいたします」
アレクサンダーは受け取るより先に、その束を見た。
昨日、セレスティーナが資料室へ持ち込んだのは、自身の課題の用紙と筆記具、それから白紙だった。
今は、そのすべてが文字で埋まっている。
「……誰にやらせた?」
セレスティーナが瞬いた。
「はい?」
「誰に手伝わせたと聞いている」
「どなたにも」
「嘘をつけ」
アレクサンダーは紙の束を奪うように受け取った。
「昨日から今までだぞ。五人分を一人で終わらせられるわけがない」
「ですが、終わりましたので」
「侍女か?」
「いいえ」
「では誰だ」
「わたくし一人です」
「まだその芝居を続けるつもりか」
アレクサンダーの声が低くなる。
セレスティーナは、何を問われているのか分からないように少し首を傾げた。
トビアスが横から手を伸ばした。
「ちょっと見せて」
一枚抜く。
その瞬間、表情が変わった。
「……これ」
「なんだ」
「セレスティーナ嬢の字だ」
アレクサンダーも紙へ目を落とした。
見覚えがある。
嫌というほど。
授業中の筆記も、これまでの提出物も、数日前に反省室で見た何十枚もの反省文と、同じ筆跡だった。
「一枚だけだろ」
「待って」
トビアスが二枚目を取る。
三枚目。
四枚目。
途中を飛ばして、さらに何枚か。
ジークバルトも別の束を取った。
「……同じだ」
どこを見ても、セレスティーナの筆跡だった。
しかも後半へ行くほど、ほんの少しずつ線が乱れている。
同じ字を誰かに真似させたというより、一人の人間が長時間書き続けたときの崩れ方に見えた。
「でも……」
ミアが呟く。
「入るとき、これ、全部白い紙でしたよね?」
誰も答えなかった。
アレクサンダーは手の中の紙を見る。
昨日の放課後から、今まで。
ほとんど丸一日。
まさか。
そんなはずはない。
何か仕掛けがある。
そう思うのに、目の前にある文字はどう見てもセレスティーナのものだった。
「……中身は?」
アレクサンダーが言う。
トビアスが最初の一枚へ目を落としかけた、そのときだった。
小さな音がした。
ミアが顔を上げる。
セレスティーナが、壁に手をついていた。
「セレスティーナ様?」
「はい?」
呼ばれて、セレスティーナは顔を上げた。
身体が少し傾いている。
壁についた手へ体重を預け、もう片方の足へ力を入れ直していた。
「どうしたんですか?」
「いえ」
セレスティーナは一度足元を見た。
思ったところへ足が出なかっただけだ。
けれど立っていられる。
手も動く。
「少し、足がうまく動かなかっただけです」
「それ、大丈夫じゃないですよね?」
「もう動きますので、問題ございませんよ」
壁から手を離す。
一歩。
歩ける。
やはり問題ない。
その様子を見ていたミアの中に、ふと別の疑問が浮かんだ。
「……セレスティーナ様」
「はい、フェリシアンヌ様」
「ご飯は?」
「はい?」
「ご飯、食べました?」
セレスティーナは少し考えた。
「昨日の昼食をいただきました」
「それから?」
「それから、とは?」
「夜ご飯」
「いただいておりません」
「今日の朝は?」
「いただいておりませんよ?」
「お昼は?」
「いただいておりません」
ミアはぽかんとした。
「昨日のお昼から、何も食べてないんですか?」
「はい」
「なんで!?」
大きな声が廊下に響いた。
セレスティーナが驚いて目を丸くした。
「なぜ、と申されましても……」
少し考える。
「終わるまで資料室から出てくるなと、殿下から申しつけられましたので」
沈黙した。
嘘だと言いたいが、その顔には隠しきれない疲労が滲んでいる。
ふと、思い至った。
「もしかして、昨日のあの時間から、寝てないんです?」
「はい」
ミアは、ゆっくりアレクサンダーを見た。
ジークバルトも見る。
トビアスまで見る。
アレクサンダーは何も言えなかった。
頭の中で、自分が昨日言った言葉がそのまま蘇った。
『終わるまで資料室から出てくるな』
『人に手伝わせるのもなしだ』
『六の日まで籠もっていても、俺は知らないからな』
いや。
そういう意味ではない。
普通は分かるだろう。
飯くらい食う。
夜になったら部屋は帰って寝る。
そもそも本当に二十四時間も籠もる奴がいるか。
「……水は?」
トビアスがぽつりと聞いた。
「いただいておりません」
「一回も?」
「はい」
アレクサンダーの思考が、完全に止まった。
セレスティーナは不思議そうに四人を見ている。
何がおかしいのか、本当に分かっていないような顔だった。
「……もういい」
ようやくアレクサンダーが言った。
「はい?」
「帰れ」
セレスティーナが瞬いた。
「ですが――」
「いいから帰れ。今日はもう何もするな」
少し強い声になった。
セレスティーナは黙ってアレクサンダーを見た。
怒らせてしまったのだろうか。
けれど帰ってよいというのなら、従うべきなのだろう。
「承知いたしました」
頭を下げる。
それから、少しだけ迷って口を開いた。
「あの、殿下」
「……なんだ」
「本日の授業を欠席してしまいましたので、今日の課題を先生方に伺ってからでもよろしいでしょうか?」
アレクサンダーは答えなかった。
昨日の昼から何も食べていない。
水も飲んでいない。
一睡もしていない。
二十四時間以上資料室に籠もって、五人分の課題を一人で書き上げた。
今もまともに立てず、壁に手をついた。
その人間が。
今日休んだ授業の課題を確認してから帰ってもいいかと聞いている。
「……好きにしろ」
それしか出てこなかった。
「ありがとうございます」
セレスティーナは嬉しそうに微笑んだ。
「それでは、失礼いたします」
一礼して、歩き出す。
最初の数歩は少し頼りなかった。いつものように背筋の伸びた背中が、時折僅かに揺らぎながら、それでも淡々と遠ざかっていく。
四人は、その背中を見送った。
誰もすぐには口を開かなかった。
アレクサンダーの手には、まだ大量の紙が残っている。
白紙で持ち込まれたはずの紙。
そのすべてが、セレスティーナの文字で埋まっていた。
けれど、その中に何が書かれているのか。
まだ誰も、まともに読んですらいなかった。




