1-3 聖女フェリシアンヌ・サンティエ
ミアは、自分の新しい名前があまり好きではなかった。
フェリシアンヌ・サンティエ。
初めてそう呼ばれたときは、自分のことだと気づかなかった。二度目も気づかなかった。三度目に侍女から「お嬢様」と小声で教えられて、ようやく慌てて振り返った。
「ごめんなさい。まだ慣れなくて」
「侍女に謝罪はいけませんよ、フェリシアンヌ様」
「はい……」
フェリシアンヌ。
長い。
ミアなら二文字なのに、と思う。
もっとも、枢機卿の養女となった以上、いつまでも孤児院で呼ばれていた名前だけを使うわけにはいかないらしい。聖女として見出された少女にふさわしい名を、と授けられたのがフェリシアンヌだった。
だから正式には、フェリシアンヌ・サンティエ。
けれどミアにとって、自分は今でもミアだった。
ほんの一年前まで、彼女は孤児院で暮らすごく普通の少女だった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
朝になれば起きて、年下の子供たちの着替えを手伝い、掃除をする。食事が出れば食べられるだけ食べて、仕事を言いつけられれば手伝う。
走れば叱られたし、喋りすぎても叱られた。
けれど次の日にはまた走った。
そんな普通の生活だった。
それが、ある日突然変わった。
きっかけは、怪我をした子供だった。
転んでひどく膝を擦りむいた小さな子を、ミアはいつものように慰めていただけだった。
「大丈夫、大丈夫。痛いの飛んでけーってしたら治るから」
もちろん、本当に治るとは思っていなかった。
ところが傷に触れた手から光が溢れた。
柔らかな光が消えたあとには、傷も消えていた。
その場にいた全員が固まった。
ミアも固まった。
「……治った?」
それからは大騒ぎだった。
神殿から人が来た。
何度も魔力を調べられた。
偉そうな人がたくさん来た。
そして、ミアが何も分からないうちに、半年前に告げられたという予言について聞かされた。
三年後、大いなる災厄が王国を滅ぼす。
けれど天より祝福されし聖女がそれを打ち破り、王国に永遠の繁栄をもたらす。
「……それが、私なんですか?」
「その可能性が極めて高いと考えられます」
困った。
王国を救えと言われても、何をすればいいのか分からない。
けれど、できませんとも言えなかった。
だって、この国には孤児院のみんなもいる。
それに、怪我を治せるなら、それはきっといい力だ。
「じゃあ、頑張ります」
そう答えた。
それから半年ほどして、ミアはサンティエ枢機卿の養女となり、舌を噛みそうな長い名前をもらった。
変わったのは当然、名前だけではない。生活も何もかも変わった。
自分一人の部屋がある。
毎日違う服を着る。
髪を梳かしてくれる人までいる。
食事には見たこともない料理が並んだ。
最初の頃は嬉しくて全部食べていたら、食事の作法を教える教師に何度も注意された。
覚えなければならないことも山ほどあった。
礼儀作法。
貴族の家名。
爵位。
歴史。
宗教。
魔法。
ダンス。
話し方。
座り方。
歩き方。
正直言って、どうしてフォーク一本にこんなに種類があるのか、今でもよく分からない。
「三か月後には学院へ入学していただきます」
「三か月でこれ全部覚えるんですか?」
「可能な限り」
「無理じゃないですか?」
「可能な限りです」
教師は真顔だった。
だから、できる限り頑張った。
それでも、十五年間貴族として育ってきた子供たちに三か月で追いつけるはずがない。
学院へ入ってからも、知らないことばかりだった。
そんなミアを何かと助けてくれたのが、アレクサンダーだった。
グランツ王国の王太子。
最初に聞いたときには、なるべく近づかない方がいい人だと思った。
何か失礼をしたら大変だ。
ところが本人の方から話しかけてきた。
「また迷っているのか?」
「あ、アレク、サンダー様」
「だから、そんなに畏まらなくていいと言っているだろう」
「でも、王太子様ですよね?」
「学院では同じ生徒だ。最初と同じ、アレクでいいぞ」
そう言って、アレクサンダーはミアが探していた教室まで案内してくれた。
出会ったときからそうだった。王太子の名前はアレク様だと、孤児院にいた頃は皆がそう言っていたので、教師に教わったことをうっかり忘れてそう呼んでしまった。
アレクサンダーは笑って許してくれて、そのままの呼び方でいいと言ってくれた。
授業で分からないことがあれば教えてくれる。
知らない貴族の名前が出れば、あとでこっそり説明してくれる。
魔法の授業でも助けてもらった。
「ここは先に魔力を集めるんだ。お前はすぐ放出するから制御できなくなる」
「こうですか?」
「違う。貸してみろ」
「あ、できた!」
「だから最初からそう言っている」
「アレク様ってすごいんですね!」
「……まあ、この程度はな」
ちょっと得意そうだった。
悪い人ではない。
むしろ、とても親切な人だと思った。
問題は、その婚約者だった。
「フェリシアンヌ様」
その声を聞いただけで、ミアの背筋は勝手に伸びた。
振り返る。
セレスティーナ・フォン・レーヴェン。
腰まで届く美しい銀の髪に、すみれ色の瞳。淑女として完璧に美しい立ち姿。公爵令嬢であり、アレクサンダーの婚約者。
そして、ものすごく怖い。
「先ほど、殿下を何とお呼びになりました?」
「え」
「聞こえなかったのですか?」
「アレク様、ですけど……」
セレスティーナの眉がぴくりと動いた。
「殿下をそのようにお呼びするなど、慎みなさい。あなたは今や聖女である以前に、サンティエ枢機卿の養女なのですよ」
「でも、アレク様がそれでいいって」
「殿下がお許しになったから何をしてもよいと?」
「何をしてもいいとは言ってませんけど……」
「セレスティーナ」
アレクサンダーが割って入った。
「私が許した。お前が口を出すことではない」
「殿下がそのように甘やかされるから、この方はいつまで経っても――」
「またそれか」
セレスティーナの顔が険しくなる。
アレクサンダーも不機嫌になる。
ミアは二人の間で小さくなった。
こういうことが、一度や二度ではなかった。
食事の席でナイフを間違えれば指摘される。
教師への言葉遣いを間違えれば指摘される。
挨拶の順番を間違えても指摘される。
「フェリシアンヌ様。その程度のことも教わっていらっしゃらないの?」
言い方が、いちいち怖い。
そして何より、セレスティーナは決してミアを「ミア」と呼ばなかった。
フェリシアンヌ様。
いつだってそうだった。
神殿に見つけられて、枢機卿の養女となったときに与えられた名前。
立派な名前だとは思う。
大勢の人が、自分のために考えてくれた名前なのだろうとも思う。
それでも、ミアにとっては自分の名前ではなかった。
孤児院でずっと呼ばれてきたのは、ミアだった。
小さな子供たちが呼ぶのも、シスターたちが呼ぶのも、ミア。
アレクサンダーも、ジークバルトも、トビアスもそう呼んでくれる。
けれどセレスティーナだけは、決してそう呼ばない。
『あなたはもう孤児のミアではないのです』
以前、一度だけそう言われた。
きっとセレスティーナにとっては、正しいことなのだろう。
けれどミアには、自分が丸ごと間違っていると言われたように聞こえた。
孤児院で育った自分。
そこで笑って、走って、子供たちと喧嘩をして、シスターに叱られていた自分。
そんなものは全部捨てて、フェリシアンヌ・サンティエという聖女にならなければ、この場所にいてはいけない。
そう言われているようで、嫌だった。
だからセレスティーナに「フェリシアンヌ様」と呼ばれるたび、ミアは少しだけ息苦しくなった。
しかもセレスティーナの言うことは、だいたい正しい。
あとから教師に確認すると、ほとんど同じことを言われるのだ。
だから余計に嫌だった。
間違っているなら腹も立てられるのに、正しいことをものすごく嫌な言い方で言ってくる。
それに、アレクサンダーがミアを庇うたび、セレスティーナの機嫌は目に見えて悪くなった。
ミアにも、それくらいの理由は分かった。
婚約者が他の女の子ばかり構っていれば、面白くないだろう。
だからといって、自分に怒られても困る。
できることなら、あまり近づきたくない人だった。
それでも学院を辞めるわけにはいかなかった。
ミアは聖女なのだ。
そう呼ばれるようになってから、たくさんの人に言われた。
「王国の希望です」
「三年後の災厄を退けられるのは、聖女様だけなのです」
「どうか、この国をお救いください」
頑張らなければならないと思う。
けれど、何をどう頑張れば三年後に国を救えるのかは、誰にも分からなかった。
光魔法の訓練はしている。
怪我も治せる。
以前よりずっと強い光を出せるようにもなった。
けれど、大いなる災厄というものが何なのかさえ分かっていない。
魔獣なのか。
天災なのか。
病なのか。
それすら分からない。
「三年後になったら、いきなり分かるようになったりしないかなあ……」
「そんなわけがあるか」
アレクサンダーに呆れられた。
「ですよねえ」
だから今できることをやるしかない。
魔法を覚える。
勉強する。
貴族として恥ずかしくないように作法も覚える。
間違えれば、セレスティーナに怖い顔で叱られる。
そんな毎日が、学院へ入って三か月ほど続いた。
そして昨日。
また、セレスティーナとアレクサンダーが喧嘩をした。
きっかけは、やはりミアだった。
その日の授業で、ミアは教師への礼を一つ間違えた。
授業が終わった途端、セレスティーナに呼び止められた。
「フェリシアンヌ様。先ほどの礼は何です?」
「あ……」
「学院へ入って何か月になるとお思いなの? サンティエ家の名を背負っている自覚がおあり?」
「ごめんなさい。次は気をつけます」
「何度同じことを言えば――」
「もういいだろう、セレスティーナ」
アレクサンダーだった。
「本人も気をつけると言っている」
「殿下はいつもそうやってこの方を甘やかして――」
「聖女に対して公爵令嬢が何だというんだ」
その一言で、セレスティーナの顔が変わった。
ミアにも分かった。
怒ったというより、何かを深く傷つけられたような顔だった。
けれどアレクサンダーは止まらなかった。
「身分がそこまで大切なら、王太子である私の命令に従って、朝まで反省室で反省文でも書いていろ」
「アレク様、それは……」
さすがに言い過ぎではないかと思った。
しかし、セレスティーナはしばらく黙ったあと、震える声で答えた。
「……っ、殿下の、仰せのままに……」
そして、本当に反省室へ行ってしまった。
そのときのミアは、少しだけ気になった。
少しだけだった。
セレスティーナは怖い。
嫌味ばかり言う。
自分を嫌っているのも隠そうとしない。
そして、自分をミアと呼んでくれない。
だから、アレクサンダーが自分の代わりに言い返してくれたことには、正直ほっとした。
反省室に入ったと聞いても、様子を見に行こうとまでは思わなかった。
けれど翌朝。
アレクサンダーたちが様子を見に行くと聞いて、ミアもついていった。
「やっぱり、まだ中にいらっしゃるんですか?」
「なぜお前まで来た」
「だって、昨日からずっとでしょう? ちょっと気になって……」
反省室の扉が開いた。
そこで見たセレスティーナは、昨日までの彼女とは違って見えた。
机には、何十枚あるのか分からないほどの紙が積み上がっていた。
その向こうにセレスティーナがいた。
顔が白かった。
目の下には薄い影があり、いつも綺麗に整えられている長い髪も少し乱れている。
一晩中、本当にここにいたのだ。
なのに、ミアたちを見るなり立ち上がった。
「おはようございます、殿下」
笑った。
ミアは一瞬、何も言えなかった。
セレスティーナが笑うところなら、何度も見たことがある。
けれど、こんな笑い方だっただろうか。
「……何を企んでいる?」
アレクサンダーが言った。
ミアも、最初は同じことを思った。
何か企んでいるのだろうか。
昨日のことを根に持って、アレクサンダーを困らせようとしているのかもしれない。
けれど、セレスティーナは怒らなかった。
「申し訳ございません。こちらの反省文では足りませんでしたでしょうか」
本気で聞いているように見えた。
それから授業の時間に気づき、いつものように完璧な礼をして、反省室を出ていった。
白い顔のまま。
何事もなかったように。
残された四人で、一番上の反省文を読んだ。
『私は生まれてきてから人の役に立ったことのないゴミ屑です』
意味が分からなかった。
「反省文って、こういうものなんですか?」
誰も答えてくれなかった。
その日の授業にも、セレスティーナは普通に出席した。
一睡もしていないはずなのに、背筋は伸びていた。
教師に当てられれば立ち上がり、淀みなく答える。
ノートも取っている。
いつも通りだった。
ただ、一つだけ違った。
ミアが授業中に答えを間違えた。
「あ……」
教師に訂正され、慌てて座る。
いつもなら、なんとなく視線を感じる。
横を見ると、セレスティーナがこちらを見ている。
授業が終われば、
『フェリシアンヌ様』
と、あの名前で呼び止められる。
そう思って身構えた。
けれど、何もなかった。
セレスティーナは自分の教材を片づけ、そのまま次の授業へ向かった。
ミアの方を見もしなかった。
「……あれ?」
拍子抜けした。
マナーの授業でも同じだった。
ミアはうっかり、使うフォークを一本間違えた。
途中で気づいた。
セレスティーナも同じ席にいる。
まずい。
そう思って、そっと様子を窺った。
セレスティーナは静かに食事をしていた。
何も言わない。
ちらりともこちらを見ない。
むしろ、昨日までよりずっと機嫌がよさそうに見えた。
ミアは自分でフォークを持ち替えた。
それから、もう一度セレスティーナを見た。
やっぱり何も言わない。
怒られない。
嫌味も言われない。
フェリシアンヌ様、と呼ばれない。
望んでいたはずだった。
これまでずっと、放っておいてほしいと思っていたのだから。
あの名前で呼ばれるたびに、自分がミアであることを否定されているようで嫌だった。
だから、呼ばれないならそれでいい。
そのはずなのに。
「……なんか、変じゃない?」
小さく呟いた。
「何が?」
隣にいたアレクサンダーが聞いた。
「セレスティーナ様」
「ああ。気味が悪いな」
「そうじゃなくて……」
そうじゃない。
では何なのかと聞かれたら、ミアにも分からなかった。
昨日まであれほど怖かった相手だ。
急に優しくなったわけでもない。
ミアを助けてくれたわけでもない。
ただ、何も言わなくなっただけだ。
それなら喜べばいい。
そう思うのに、朝からずっと何かが引っかかっていた。
反省室で見た、真っ白な顔。
机に積まれていた紙の束。
『私は生まれてきてから人の役に立ったことのないゴミ屑です』
そして、あの笑顔。
昨日までのセレスティーナなら、あんなことを書くだろうか。
ミアは少し考えた。
やっぱり、分からない。
分からないものは、少し怖い。
だからまだ、近づこうとは思わなかった。
セレスティーナは怖くて、嫌な公爵令嬢だ。
その認識が、一日で消えるはずもない。
ただ。
昨日まで嫌いだったセレスティーナと、今日そこにいるセレスティーナが、どうしても同じ人には見えなかった。
ミアは少し離れた席に座るセレスティーナを、もう一度そっと見た。
セレスティーナは気づかない。
いつもなら誰より早くこちらの行儀を見咎めて、
『フェリシアンヌ様』
と、自分ではない誰かのような名前で呼び止めた人が、今日は一度もミアを見なかった。
それがなぜだか、一番おかしい気がした。




