1-2 夢の、その前
自分の名前を、彼女はもうよく覚えていなかった。
苗字なら、小倉だったと思う。
「おい、小倉!」
「小倉、お前は何度言ったら分かるんだ!」
「こんなこともできないのか、小倉!」
そんな声なら、いくらでも思い出せる。けれど下の名前となると、記憶の中を探しても、どうにも輪郭がぼやけていた。
母親から名前を呼ばれた記憶も、ほとんどない。
『あんたのせいで、あの人に捨てられたんだからね』
『お前なんか産まなきゃよかった』
『産んでやったんだから、恩くらい返しなさいよ』
あんた。お前。役立たず。
そんな呼ばれ方ばかりが、妙にはっきり残っている。
だから、自分の名前が何だったのかは、もうよく分からない。
ただ一つだけ。
『はーちゃん、聞いて聞いて』
そう呼んでくれた声だけは、十年近い時間が過ぎても不思議なくらい鮮明に覚えていた。
彼女が生まれたのは、母親と二人きりの家だった。
母親には、かつて好きな男がいたらしい。その男との間に子供ができた。そして男は、母親と、まだ生まれてもいなかった彼女を残してどこかへ行ってしまった。
そのことを、彼女は幼い頃から何度も聞かされて育った。
『あんたさえできなかったら』
『あんたができたから、あの人は逃げたんだから』
だから母親が苦労しているのは、自分のせいなのだと思っていた。
母親はよく彼女を叩いた。
一度や二度では終わらないことも珍しくなかった。腕で頭を庇えばその腕を叩かれ、転べば起きろと言われた。何をして怒らせたのか分からなくなっても、謝ることだけは忘れなかった。
ひどく叩かれた翌朝、うまく歩けなかったことがある。
学校へ行こうとしたのだが、片方の足へ体重をかけるたびに膝が崩れた。壁に手をついて玄関まで行ったものの、いつもの時間には間に合わなかった。
申し訳ないと思った。
せっかく学校へ行かせてもらっているのに、きちんと歩くことすらできない。
冬には、雪の降る夜にベランダへ出されたこともあった。
最初は立っていた。やがて膝に力が入らずしゃがみ込んだ。身体が震えていたはずなのに、夜が深くなるにつれて、その震えもだんだん小さくなった。
朝になって窓が開いた。
入っていいと言われたので、ありがたかった。
客観的に見れば、彼女の子供時代は幸福とは言い難い。
けれど、本人にはその自覚がなかった。
母親だって大変なのだ。
自分が生まれたせいで好きな人に捨てられ、それでも産んで、食べるものを与え、家に置いてくれている。
ならば、怒らせる自分が悪い。
叩かれるのも、外へ出されるのも、自分がきちんとできないからだった。
それでも母親は、最後には家へ入れてくれる。
食べるものをいただける日もある。
学校にも行かせてもらっている。
ありがたいことだった。
学校へ行けば、昼には必ず給食が出た。
温かい汁物がある。肉や魚が出る日もある。牛乳まで一本ついてくる。
一日に一度、必ず食事ができる。
だから学校へ行けることにも感謝していた。
学校が楽しい場所だったわけではない。
彼女は、嫌われていた。
「こっち来んなよ」
「気持ち悪い」
「お前と同じ空気吸うのも耐えられないんだけど」
そう言われれば離れた。
自分が近くにいることで嫌な思いをさせるのなら、近づかない方がいい。
上履きを隠されたこともあった。机に落書きをされたこともあった。
校庭の端を歩いていたとき、石を投げられたこともある。
最初の一つは足元へ落ちた。
二つ目は肩に当たった。
振り返ると何人かが笑っていたので、怒っているのではないらしいと思った。どうすればいいのか分からず、その場を離れた。
彼女は、自分がいじめられているとはあまり考えなかった。
自分は、いるだけで人を不快にさせるらしい。
母親にも迷惑をかけている。
学校でも、同じ空気を吸いたくないと思われるほど人に迷惑をかけている。
それでも追い出されず、学校へ置いてもらっている。
授業を受けさせてもらえる。
給食までいただける。
ならば、それ以上を望むのは贅沢だった。
家へ帰れば、掃除をした。洗濯をした。簡単な料理も覚えた。母親に言われたことがあれば、できるだけ先に済ませた。
宿題まで終わらないことも多かった。
予習や復習をする余裕は、ほとんどなかった。
『学校で教えてもらってるんでしょ。一回で覚えなさいよ』
母親の言うことはもっともだと思った。
学校へ行かせてもらっているのだから、一度教えてもらえば覚えるべきなのだ。
だから授業中は懸命に教師の話を聞いた。
それでも、一度聞いただけですべてを覚えられるほど頭がよかったわけではない。忘れることもあった。分からないこともあった。
そんなときは、やはり自分はあまり役に立たない人間なのだと思った。
そんな彼女に、一度だけ友達ができた。
中学校最後の年だった。
ちーちゃんと呼ばれていた少女は、転校の多い子だった。
少し変わっていた。
誰と誰が仲が悪いとか、誰と話せば自分まで嫌われるとか、そういうことをあまり気にしない。
「あいつとは喋らない方がいいよ」
誰かにそう言われても、
「なんで?」
と聞いてしまうような少女だった。
たまたま席が近かった。
最初のきっかけなど、それだけだった。
「ねえ、はーちゃん」
突然そう呼ばれて、彼女は自分のことだと分からなかった。
「……わたし?」
「うん。はーちゃん」
それから、ちーちゃんは当たり前のように彼女へ話しかけるようになった。
「はーちゃん、聞いて聞いて」
「はーちゃん、これ知ってる?」
「昨日さ、すっごい面白いの見つけて」
ちーちゃんはよく喋った。
彼女はそれを聞いていた。
石を投げなかった。
近づくなとも言わなかった。
同じ空気を吸いたくないとも言わなかった。
それどころか、自分から隣へ来た。
そういう人もいるのだと、初めて知った。
ある日、ちーちゃんが三冊の漫画を持ってきた。
「はーちゃん、これ読んでみて。面白いんだよ」
綺麗な女の子が描かれた表紙だった。
漫画というものをまともに読んだことがなかったので、受け取っていいのか迷った。
「でも、わたし……」
「この漫画知ってる友達いないから読んで。感想聞きたい」
そう言われて、受け取った。
家には持ち帰れなかった。
汚したら困る。なくしても困る。母親に見つかったら、捨てられるかもしれない。
だから学校で書かれるようにして読んだ。
放課後は少しでも役に立てるようにすぐに家に帰らなければならなかったので、休み時間の合間に、何日もかけて少しずつページをめくった。
孤児の少女ミアが聖女として見出され、王太子アレクサンダーと恋に落ちる話だった。
綺麗なドレスがあった。魔法があった。豪華な食事があった。悪役令嬢がいて、最後には大きな災厄から国を救う。
そんな世界があることが、とても面白かった。
「どう? 面白い?」
「うん」
「でしょ? 私、この悪役令嬢好きなんだよね」
「悪い人なのに?」
「悪い人だけどキャラがいいんだよ」
ちーちゃんは笑っていた。
その悪役令嬢の名前が、セレスティーナ・フォン・レーヴェンだった。
たった三冊の漫画だった。
けれど、それが彼女の人生で最初に読んだ漫画であり、最後に読んだ漫画になった。
ちーちゃんと友達だった時間も、それほど長くはなかった。
三か月ほどだっただろうか。
卒業が来て、それで終わった。
十年近くが過ぎれば、ちーちゃんの顔もぼんやりとしか思い出せなくなった。
それでも、
『はーちゃん、聞いて聞いて』
その声だけは、なぜか消えなかった。
中学校を卒業すると、彼女は働き始めた。
働けば、お金をもらえる。
母親へ恩を返すことができる。
だから、よいことだと思った。
会社では、いろいろなことを教えてもらった。
言われたことは一度で覚えなければならなかった。間違えれば怒られた。仕事が遅くても怒られた。
「小倉、お前、本当に使えないな」
「こんなゴミみたいなもん出して仕事した気になってんのか?」
「雇ってやってるんだから、少しくらい恩を返せよ」
当然のことなのだと思った。
雇ってもらっている。
仕事を教えてもらっている。
その上で、給料までいただいている。
ならば、役に立たなければバチが当たる。
一日のほとんどを会社で過ごすようになった。
朝から働き、日付が変わっても働き、数時間だけ休んでまた仕事へ行く。二十時間近く働く日も、彼女にとっては珍しいものではなくなっていった。
ある夜、一晩かけて資料を作った。
「ゴミ。やり直し」
作り直した。
「話にならない」
もう一度作った。
それでも駄目だった。
五度目を提出する頃には、また朝になっていた。
手は震えていた。
指も、思ったようには動かなかった。
けれど、まだ動く。
ならば仕事はできる。
彼女にとって、体調とはおおむねそういうものだった。
何度もたくさん教えて頂いているのに、声が遠く、まっすぐ歩けない日があった。
食べた物を飲み込めず、戻してしまうことがあった。
思うように目が開かない日も、なぜか身体が熱く息が切れる日もあった。
けれど、それらは休む理由にはならなかった。
手が動くか。
足が動くか。
立っていられるか。
言われたことを考えて、仕事ができるか。
それだけだった。
身体はいつも、水の中にいるように重かった。
腕を上げようと思ってから、実際に上がるまでにわずかな間がある。立ち上がれば身体が揺れる。歩けば足が思ったところまで出ない。頭の中では次にすべきことが分かっているのに、身体だけが遅れてついてくる。
それが普通だった。
だから彼女は、自分は人より働けない人間なのだと思っていた。
もっと素早く動ければ、もっと仕事ができる。
もっと丈夫なら、もっと長く働ける。
満足に役目を果たせないのは、自分が至らないからだった。
食事も、毎日十分に取れるわけではなかった。
給料の多くは母親へ渡した。
自分の分として残った僅かなお金で、できるだけ安いものを買った。
気まぐれで誰かに貰った菓子を食べられれば、その日の食事は十分だった。
パンの耳をたくさんもらえた日は、ご馳走だった。
それでいいと思っていた。
母親に恩を返せる。
会社にも恩を返さなければならない。
そのために自分が食べるものを減らすくらい、当然だった。
そうして何年も働いた。
十五歳だった少女が二十歳を越え、二十四歳になる頃には、中学校のことなどほとんど思い出さなくなっていた。
ちーちゃんのことも、三冊の漫画のことも、普段は記憶の底に沈んでいた。
記憶にある最後の朝も、いつもの朝と同じように始まった。
目が覚めたのに、瞼が思うように上がらない。
会社へ行かなければならなかった。
けれど、身体も動かなかった。
腕を持ち上げようとした。
動かない。
もう一度、力を入れた。
やはり動かなかった。
指先に力を込めようとしても、ほとんど反応しない。
起きなければならない。
会社へ行かなければならない。
昨日終わらなかった仕事がある。
遅刻をすれば迷惑をかける。
けれど、何度命じても身体は動かなかった。
「……申し訳、ありません」
声が出ているかも分からなかった。
「少しだけ……お休みさせて、ください……」
誰に許しを求めたのか、自分でも分からなかった。
目を閉じた。
それきり、何も見えなくなった。
長い夢を見た。
夢の中で、彼女はセレスティーナという公爵令嬢だった。
暖かい屋敷で暮らしていた。
毎日、朝と昼と夜に食事が出た。
清潔で美しい服があった。
勉強をするために、立派な教師までつけてもらえた。
夜になれば、六時間も眠ることができた。
母親は厳しかったが、叩かれることはなかった。
食事を抜かれることも、雪の中へ放り出されることもなかった。
なんて恵まれた少女なのだろうと思った。
こんな夢なら、ずっと見ていたかった。
どれほど長く夢を見ていたのかは分からない。
セレスティーナは成長し、十五歳になった。
学院へ入った。
聖女ミアと出会った。
王太子アレクサンダーと衝突した。
そして、ある夜。
『聖女に対して公爵令嬢が何だというんだ。身分がそこまで大切なら、王太子である私の命令に従って、朝まで反省室で反省文でも書いていろ』
『……っ、殿下の、仰せのままに……』
反省室へ入り、机の前に座った。
『わたくしに、これ以上何をしろとおっしゃるの……?』
そんな言葉を最後に、ふと気がつくと、目の前に机があった。
白い紙があった。
美しい細い手があった。
試しに指を曲げた。
動いた。
腕も上がった。
立つこともできた。
歩くこともできた。
身体が、自分の思った通りについてきた。
だから彼女は感動した。
『この夢、素晴らしいです……』
あれから、一晩が過ぎた。
反省文を書き続けても、まだ手が動いた。
一睡もしなくても、足は自分を支えてくれた。
考えようとすれば、ちゃんと頭も働いた。
久しぶりに、ちーちゃんのことまで思い出した。
『はーちゃん、聞いて聞いて』
あの声。
三冊の漫画。
悪役令嬢セレスティーナ。
身体がとうとう動かなくなったから、少しだけ休ませてもらった。
そのあと、とても長い夢を見ている。
反省室を出て、学院の廊下を歩く。
昨夜目を開いたときよりは、わずかに身体の動きが鈍くなっている。それでも前の身体とは比べものにならない。
足を前へ出そうと思えば、出る。
身に染み付いた美しい姿勢と歩みを、澱みなく続けられる。
なんて丈夫な身体なのだろう。
食事がある。
服がある。
眠る場所がある。
六時間も休ませてもらえる。
自分がここにいるだけで石を投げる人もいない。
それどころか、公爵令嬢として立派な教育を受けさせてもらい、王太子の婚約者という役目まで与えてもらっている。
この身体なら、今度こそちゃんと役に立てるかもしれない。
いつか目が覚めるまでの夢だとしても、それは彼女にとって十分すぎるほど幸福なことだった。
「本当に、幸せな夢ですね」
セレスティーナはそう呟いて、軽い足取りで教室へ向かった。




