1-1 とても良い夢
夢を見ていた、と思う。
ずいぶん長い夢だった。
夢の中で彼女は、セレスティーナという名前の少女だった。腰まで届く髪を持つ、美しい公爵令嬢。立派な屋敷に暮らし、立派な服を着て、十五歳になった春には貴族の子女が集う学院へ入学した。
どこかで聞いたことのある名前だと思ったのは、その夢が始まってしばらくしてからだった。
昔、一度だけ漫画というものを読んだことがある。
中学校に通っていた頃、友達が貸してくれた三冊の少女漫画だった。
「はーちゃん、これ読んでみて。面白いんだよ」
そう言って押しつけるように渡してきたのは、ちーちゃんだった。
生まれて初めて読んだ漫画だったから、他と比べて面白かったのかどうかは分からない。ただ、話はとても分かりやすかった。
孤児院で育った明るく元気な少女ミアには、実は神様から授けられた特別な力があった。
ある日、偶然その力を見出されたミアは、王国を救う聖女として迎えられる。枢機卿の養女となり、聖女フェリシアンヌ・サンティエと新たな名を与えられて貴族の子女が通う学院へ入学した彼女は、そこで美しく聡明な王太子アレクサンダー・ヴァン・グランツと出会う。
グランツ王国の王太子であり、いずれ国王となる少年だった。
身分の差を越えて二人は少しずつ惹かれ合っていく。けれど、アレクサンダーには幼い頃から決められた婚約者がいた。
それが、公爵令嬢セレスティーナ・フォン・レーヴェン。
家柄を鼻にかけ、誇り高く、わがままで、自分こそが未来の王太子妃にふさわしいと信じている少女だった。彼女はミアの作法を馬鹿にし、身分を理由に見下し、アレクサンダーがミアを庇えば庇うほど腹を立てる。
いかにも悪役らしい悪役だった。
けれど、ちーちゃんは主人公のミアよりも、なぜかセレスティーナを気に入っていた。
「この悪役令嬢、キャラがいいんだよね」
そんなことを言っていた気がする。
最後には王国を滅ぼすという大災厄が訪れる。
それまで散々二人の邪魔をしてきたセレスティーナは断罪され、災厄の中で命を落とした。
災厄に立ち向かって傷ついたミアを前にアレクサンダーが涙を流し、二人の真実の愛によって聖女の力が完全に目覚める。ミアは奇跡を起こし、災厄を退け、王国を救う。
そんな話だった。
今になって考えてみれば、ずいぶん分かりやすい少女漫画だったと思う。
そしてどういうわけか彼女は、その悪役令嬢セレスティーナになった夢を見ていた。
漫画では描かれていなかったような幼い頃からの記憶まであった。家庭教師に教えを受け、母に礼儀作法を教わり、王太子の婚約者として教育を受ける日々。それから十五歳になって学院へ入り、アレクサンダーやミアと出会った。
夢の中のセレスティーナは、漫画で読んだ通りの少女だった。
ミアの作法や無知を厳しく咎め、アレクサンダーと何度も言い争った。
そして、つい先ほども。
ミアへ厳しい叱責を与えたセレスティーナに対して、怒りに満ちたアレクサンダーが言い放ったのだ。
『聖女に対して公爵令嬢が何だというんだ。身分がそこまで大切なら、王太子である私の命令に従って、朝まで反省室で反省文でも書いていろ』
『……っ、殿下の、仰せのままに……』
そんなやり取りをした。
そういえば、この辺りも漫画にあったような気がする。
セレスティーナがミアへの嫌がらせをアレクサンダーに咎められ、罰として反省室へ入れられる。あの漫画では、ここから二人の仲が決定的に険悪になったのではなかったか。
ずいぶん細かいところまで覚えていたものだ。
そう思って――彼女は、ふと目の前を見た。
机がある。
その上に、白い紙が置かれている。
視線を少し下げると、白く細い手が見えた。
貴族令嬢として美しく整えられた手だった。
彼女はしばらくそれを見つめてから、試しに人差し指を曲げた。
動いた。
もう一度、動かしてみる。
今度は五本すべての指を握り込んだ。それから開く。手首を返す。肘を曲げて、腕を持ち上げる。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
椅子を引いて立ち上がってみる。
足に力が入った。膝も折れない。机に手をつかなくても、きちんと立っていられる。
一歩、歩いた。
もう一歩。
身体がついてくる。
それだけのことが、ひどく不思議だった。
腕を動かしても、足を動かしても、自分の思い通りに、いや、思った以上に動く。
彼女は自分の両手を眺めた。
「この夢、素晴らしいです……」
心の底から、そう思った。
これほど自由に動ける身体なら、きっと何でもできる。
しばらく感心していた彼女は、やがて机の上の紙へ目を戻した。
そうだった。
反省文を書かなければならない。
アレクサンダーは朝まで、と言っていた。
窓の外は暗い。まだ朝ではないらしい。
「では、急いで書かなくてはいけませんね」
椅子へ戻る。
幸い、何を書けばいいのかには覚えがあった。
失敗をしたときには、自分が何を間違えたのか、なぜ間違えたのか、それによって相手にどれほど迷惑をかけたのかを書き、二度と同じ失敗をしないと誓わなければならない。
文字を書こうとすると不思議と、見覚えのないはずのこの世界の文字も問題なく書けた。
彼女はペンを取った。
『私は生まれてきてから人の役に立ったことのないゴミ屑です。産んでいただいたお母様には申し訳が立ちません』
一枚を書き終える。
まだ朝ではない。
だから二枚目を書く。
『この度は私の身勝手な振る舞いにより、殿下ならびにミア様に多大なるご迷惑をおかけいたしました』
何が悪かったのかを考え、書く。
書き終えたら、次の紙を取る。
何枚か書いたところで、彼女はまた手を止めた。
右手を握ったり開いたりしてみる。
まだ動く。
「セレスティーナは、ずいぶんと丈夫な身体をお持ちなのですね」
嬉しくなって、また続きを書いた。
夜は静かに更けていった。
いくら書いても手が動く。それがとても不思議だった。夢だからだろうか。
何度かペンを置いて、手を握ったり開いたりする。現実ではとっくに動きが鈍くなっていて叱責を受けていたように思うのに、ちゃんと動いた。
少し考えがまとまらない気はするが、いつもよりもずっとスラスラと言葉が出てくる。
窓の外が白み始める頃には、机の端に紙の束ができていた。
それでも彼女は書き続けた。
朝まで、と言われたのだから、朝になるまでは反省しなければならない。
やがて学院の鐘が遠くで鳴った。起床を知らせる鐘だ。
その少し後、反省室の外から人の声が聞こえた。
「まだ中にいるのか?」
アレクサンダーの声だった。
扉の向こうには、彼と行動を共にする二人の少年もいた。
ジークバルト。武門の家の跡取りで、剣も魔法もそれなりにこなす、生真面目な努力家だ。
もう一人のトビアスは宰相家の次男。頭の回転が速く、要領もよい。
「まさか本当に一晩いたのか?」
ジークバルトが怪訝そうに言う。
「命令したのは殿下でしょう」
トビアスは眠そうな欠伸を噛み殺した。
「朝まで書いていろとは言ったが、普通は適当に何枚か書いて寝るだろう」
「セレスティーナ嬢が素直に従うとも思っていなかったでしょうに」
「だから見に来たんだ」
そこへ、三人の後ろから少女が顔を出した。
「やっぱり、まだ中にいらっしゃるんですか?」
ミアだった。
「なぜお前まで来た」
「だって、昨日からずっとでしょう? ちょっと気になって……」
アレクサンダーが返事をする前に、反省室の中で物音がした。
彼女は最後の一文を書き終え、ペンを置いたところだった。
扉が開く。
最初に入ってきたのはアレクサンダー。その後ろからジークバルトとトビアスが覗き込み、さらにミアが恐る恐る室内を窺った。
四人とも、しばらく何も言わなかった。
机の上には、書き上げられた反省文が積み重なっている。
その向こうに座っているセレスティーナは、見るからに一睡もしていなかった。
長い髪はわずかに乱れ、顔からはすっかり血の気が引いていた。目の下にも薄く影が落ちている。
それでも、彼女は四人に気づくとさっと椅子から立ち上がり、一分の隙もないカーテシーを披露した。
「おはようございます、殿下」
穏やかに微笑んでいる。
アレクサンダーの眉間に、深い皺が寄った。
「……何を企んでいる?」
「はい?」
「その態度だ。今度は何のつもりだ」
セレスティーナは少し考えた。
何のことを言われているのか、よく分からない。
「申し訳ございません。こちらの反省文では足りませんでしたでしょうか」
「は?」
「まだお時間をいただけるのでしたら、続きを――」
「いや、そうじゃない」
アレクサンダーが遮った。
彼女はますます分からなくなった。
けれど、窓から差し込む光を見て、別のことに気づく。
「あ……」
朝になっている。
すぐに身支度をしなければ、授業に間に合わない。
「申し訳ございません、殿下。わたくし、そろそろ失礼いたします」
「待て」
「反省文はこちらへ置いておけばよろしいでしょうか?」
「だから待て、セレスティーナ」
「はい。何かございましたか?」
呼び止められたので、素直に振り返る。
白い顔で、にこりと笑う。
その顔を見たアレクサンダーは、何かを言いかけて口を閉じた。
ジークバルトも妙な顔をしている。トビアスは積み上がった紙とセレスティーナを交互に眺め、ミアは扉のそばからじっと彼女を見つめていた。
誰も何も言わない。
ならば、もう行ってもいいのだろう。
「それでは、授業に遅れてしまいますので」
セレスティーナは丁寧に一礼した。
四人の間を抜け、そのまま廊下を歩いていく。
足は動く。
頭も働く。
目を開けた頃よりは動きが鈍い気がするが、いつもよりもずっと身体が軽い。
やはり、とてもいい夢だと思った。
その背中が廊下の向こうへ消えるまで、四人は誰一人として追いかけなかった。
しばらくして、トビアスが机の上から一枚をつまみ上げる。
「……なあ」
「なんだ」
「これ、本当に反省文か?」
アレクサンダーが紙を奪い取った。
ジークバルトがその横から覗き込み、ミアもおそるおそる近づいてくる。
紙の一番上には、端正なセレスティーナの筆跡で、こう書かれていた。
『私は生まれてきてから人の役に立ったことのないゴミ屑です』
アレクサンダーは黙った。
トビアスからも、いつもの軽口は出てこなかった。
「……これ」
ミアが小さく呟いた。
「反省文って、こういうものなんですか?」
誰も答えなかった。




