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2-5 嫌いとも、怖いとも

週が明けても、ミアはどうにも落ち着かなかった。


学院へ着いてからというもの、気づけば何度もセレスティーナの姿を目で追っている。


三日前に受け取ったハンカチのことが、どうしても頭から離れない。


熟練の職人でも十日はかかる。


あの教師は、そう言っていた。


けれど、セレスティーナがあれを作るのに使えた時間は、どう考えても三日しかない。


夜に作ったのだろうか。


では、いつ寝たのだろう。


そればかり気になった。


朝のセレスティーナは、いつもと変わらないように見えた。


髪は綺麗に整えられ、制服にも乱れはない。背筋を伸ばして席に座り、教師に指されればいつも通りに答える。


文字も書いている。


歩いてもいる。


だったら、やっぱり自分が考えすぎただけなのかもしれない。


三日間ほとんど寝ていないなんて、さすがにないだろう。


そんなことをしたら、普通はもっと分かりやすく具合が悪くなるはずだ。


少なくとも孤児院の子供たちはそうだった。


夜更かしをすれば翌朝は眠そうにするし、熱があれば顔が赤くなる。大丈夫だから遊びたいと言い張る子はいても、見ればだいたい分かった。


セレスティーナは、分からない。


何度か目が合いそうになって、ミアは慌てて視線を逸らした。


気のせいだったら、ただじろじろ見ている変な人だ。


鞄の中には、焼き菓子が三つ入っていた。


一つは自分の分。


残りは――まあ、念のためだった。


昼休みになった。


ミアがいつものようにアレクサンダーたちのところへ向かうと、セレスティーナもちょうど席を立つところだった。


朝と変わらない。


そう思った、その直後。


「セレスティーナ」


アレクサンダーが呼び止めた。


ミアは嫌な予感がした。


「はい、殿下」


「教師棟にこれを届けてこい。それから資料室へ行って、先週の演習記録を持ってきてくれ」


机の上から書類を二つ取り上げる。


「あと、演習場の使用申請も確認しておけ。来週の分だ」


ミアは眉を寄せた。


まただ。


「アレク様」


「なんだ」


「それ、全部今やるんですか?」


「そうだが」


「お昼休み終わっちゃいません?」


アレクサンダーは少しだけ口元を歪めた。


「本人は朝と夜に食べられれば十分幸せなんだろう?」


「それは――」


「それに、できないならできないと言えばいいだけだ」


その言い方が、ミアは嫌だった。


また試している。


断るかどうか。


嫌だと言うかどうか。


セレスティーナは、いつも通りだった。


「かしこまりました」


そう言って、礼をする。


その瞬間だった。


身体が、ふらりと横へ傾いだ。


ほんの少し。


けれど、ミアには妙にはっきり見えた。


セレスティーナはすぐに片足を踏み直し、姿勢を戻した。


「……申し訳ございません」


いつもの声だった。


けれど、その動きが遅い。


資料室から出てきた日よりも、ずっと。


あのときは足元こそ危うかったけれど、本人の意思に身体がどうにかついてきていた。


今は違う。


姿勢を立て直すだけなのに、身体が妙に重そうに見える。


「セレスティーナ様?」


ミアは思わず近づいた。


そこで初めて気づいた。


顔が赤い。


最初は化粧でもしているのかと思った。


けれど、頬だけではない。


耳のあたりまで熱を持ったように赤い。


息も少し速い。


それに、紫色の瞳がわずかに潤んでいる。


「……熱、ありませんか?」


セレスティーナが不思議そうに瞬いた。


「熱、でございますか?」


本人にはまるで心当たりがないらしい。


「今度は仮病か?」


アレクサンダーが言った。


ミアが振り返る。


「アレク様」


「この前は資料室に籠もってふらついて、今度は熱か。随分と都合がいいな」


セレスティーナの顔が、ほんの少し困ったようになった。


「仮病ではございません」


「へえ」


「ただ、わたくし自身も熱があるとは存じませんでしたので」


「じゃあ問題ないだろう」


「はい」


あっさり答えた。


アレクサンダーの方が一瞬言葉に詰まる。


「……はい?」


「殿下からいただいたお仕事には、支障ございません」


セレスティーナは本気のようだった。


「先ほど少し足元が乱れましたが、もう問題ございませんので」


証明するように姿勢を正す。


その直後。


小さく息を吸った。


胸が上下している。


ただ立っているだけなのに。


「それのどこが問題ないんですか」


ミアが口を挟んだ。


「ですが、動けますので」


「息切れてますよ」


「少しです」


「顔も赤いです」


「そうなのですね」


「目も変です」


言ってから、さすがに言い方が悪かったと思った。


けれどセレスティーナは気にした様子もない。


「見え方には問題ございませんよ」


「そういう意味じゃなくて!」


「大げさなんだよ」


アレクサンダーが鼻で笑った。


「嫌なら最初から嫌だと言えばいい。わざわざ倒れそうなふりまでしなくてもな」


セレスティーナが首を振る。


「嫌ではございません」


「本当か?」


「はい。お仕事をいただけるのは、とてもありがたいことですので」


その答えに、今度はミアだけでなくトビアスまで妙な顔をした。


アレクサンダーは眉をひそめる。


「またそれか」


「何か失礼がございましたでしょうか」


「そういうところが気味悪いって言ってるんだ。前のお前なら、俺にそんな雑用押しつけられたら文句の一つも言っただろ」


「以前のわたくしが、殿下にご不快な思いをさせていたことは、承知しております」


「だったら今は何なんだ」


「少しでもお役に立てればと思っております」


「だから、それが演技だって言ってるんだよ」


セレスティーナはしばらく考えた。


けれど、言葉を探しているというより、アレクサンダーが何を怒っているのか理解しようとしているように見えた。


「……申し訳ございません。どのようにすれば殿下のご不快を和らげられるのか、わたくしにはまだ分からなくて」


「は?」


「ですが、お仕事はきちんと終えて参りますので」


そこでまた、身体がわずかに揺れた。


言葉とはまるで噛み合わない。


口では「問題ない」「終えてくる」と言いながら、身体の方は今にも座り込みたそうにしている。


それでもセレスティーナは書類を受け取った。


「では、行って参ります」


踵を返す。


一歩。


足がもつれた。


「あ」


ミアが手を出す。


一瞬だけ、迷った。


その一瞬で間に合わなかった。


セレスティーナは大きな音を立てることもなく、ふわりとその場に座り込んだ。


「セレスティーナ様!」


ミアは慌ててかがみ込んだ。


廊下に公爵令嬢が座っている。


よく考えれば、それだけでもかなり恐ろしい光景だった。


「……申し訳ございません」


床に座ったまま、それでもセレスティーナは謝った。


「少し、足がうまく動かなかったようです」


「ようです、じゃないですよ!」


「少しお待ちいただければ、また動くと思いますので」


「待ってどうするんですか!」


「殿下からいただいたお仕事を」


「まだ行く気なんですか?」


「はい」


即答だった。


ミアはもう何を言えばいいのか分からなかった。


「ほらな」


後ろからアレクサンダーの声がする。


「さすがにわざとらしいだろ」


ミアは振り返った。


「こんなの演技でできる人間なんかいるんですか?」


自分でも驚くくらい強い声が出た。


アレクサンダーが黙った。


「さっきから見てたでしょう。立ってるだけでふらふらしてるんですよ」


「だから、それも含めて――」


「じゃあアレク様、今すぐ顔真っ赤にして息切らして、歩こうとして座り込んでください」


「できるわけないだろ」


「ですよね?」


アレクサンダーの口が止まった。


ミアはそのままセレスティーナへ向き直った。


顔を覗き込む。


間近で見ると、もっとひどかった。


頬は赤い。


呼吸は浅く、少し速い。


紫色の瞳は潤んでいて、焦点もどこかぼんやりしている。


その顔を、ミアは知っていた。


孤児院にいた頃。


雪が降った日に、いつまでも外で遊びたがった子。


夜になって熱を出したくせに、まだ遊べると言い張った子。


布団に入れても何度も抜け出そうとして、結局立てなくなった子。


あのときと同じ顔だった。


本人だけが、自分はまだ大丈夫だと思っている。


「……熱、絶対ありますよ」


「そうでしょうか」


「あります」


「ですが、特に暑くはございませんし」


「熱が出たって暑いとは限らないですよ」


「そうなのですか?」


その返事に、ミアは一瞬言葉を失った。


そこからなのか。


そこから説明しなければいけないのか。


額に触れば嫌でも分かる。


そう思った。


けれど、伸ばしかけた手が止まる。


まだ少し、怖い。


ひと月前まで。


話しかけられるだけで背筋が強張った。


近寄られるだけで、何を言われるのだろうと身構えた。


勝手に触るなんて、とてもできない。


「……すみません」


ミアは恐る恐る言った。


「手を、触ってもいいですか?」


セレスティーナは少し目を丸くした。


それから。


「はい」


何の警戒もなく手を差し出した。


白くて細い手。


爪の先まで綺麗に整えられている。


ミアはそっと、その指先へ触れた。


「あっつ!」


思わず叫んだ。


貴族らしい言葉遣いも何も、全部吹き飛んだ。


予想していたより、ずっと熱い。


「これ熱あるとかじゃないですよ!」


セレスティーナは不思議そうに首を傾げた。


「そう、なのですか?」


「そうですよ!」


「ですが、手は動きます」


「そういう問題じゃないです!」


「歩ければ――」


「歩けてないでしょう!」


「今は少し」


「座り込んでます!」


ミアの声だけがどんどん大きくなる。


「っていうか、大丈夫ですか? 立てますか? 先生呼んできますか?」


誰かが具合を悪くしたら、大人を呼ぶ。


孤児院では当たり前だった。


ようやくその選択肢を思い出した。


「そこまでしていただかなくても大丈夫です」


セレスティーナはそう言って、床に手をついた。


「もう動けると思いますので」


腰を浮かせる。


膝が伸びる前に、力が抜けた。


そのまままたへたり込んだ。


「…………」


「申し訳ございません」


「…………」


「もう少しだけ、お時間をいただければ」


ミアは死んだ目で見た。


もういい。


何も考えないことにした。


後ろで男子三人が何を言っているのかも、全部頭から追い出す。


とりあえず。


病人は寝かせる。


それだけでいい。


握ったままの手は、ひどく熱い。


それなのに驚くほど細かった。


「引っ張ったら、立てますか?」


「はい。おそらく」


「おそらく……」


不安しかない。


「無理なら言ってくださいね」


「はい」


信用できない返事だった。


それでもセレスティーナが腰を浮かせるのに合わせて手を引いた。


今度はなんとか立てた。


けれど、立った瞬間に身体がミアの方へ傾いた。


「わ」


慌てて、自分よりもやや高い肩を支える。


触れた身体が、やっぱり熱い。


「ありがとうございます」


それでもセレスティーナは律儀に頭を下げようとした。


ミアは反射的に肩を押さえた。


「やめてください!」


びくりとセレスティーナが止まる。


「今屈んでまた立てなくなったらどうするんですか!」


「……申し訳ございません」


「謝らなくていいです!」


「はい、申しわけ…」


「それにも謝らなくていいです!」


「……はい」


少し困った顔をされた。


ミアも困った。


「医務室、行きますよ」


「ですが、殿下からのご用が」


「行きます」


「資料室だけでしたら」


「行きます」


「書類を届けるくらいでしたら」


「行きます!」


さすがに強く言うと、セレスティーナは黙った。


「……承知いたしました」


やっと黙ってくれた。


幸い、ここから医務室まではそう遠くない。


本人は歩けるつもりらしい。


なら、とにかく歩いてもらう。


「行きますよ」


熱い手を握ったまま、一歩進む。


セレスティーナも素直に足を動かした。


一歩。


二歩。


三歩。


歩けてはいる。


けれど、いつものセレスティーナとはまるで違った。


歩幅が小さい。


足を出すたびに、ほんの少し間がある。


頭では次の一歩を出しているのに、身体が後から追いついているように見える。


時々ふらりと身体が傾ぐ。


そのたびにミアは腰へ手を添えた。


触れるたび、どこか落ち着かなかった。


こんなふうに近くへ寄ったことなどない。


平民出身とあれだけ嘲っていた人だ。


少し前までなら、自分が腰に触れた瞬間に睨まれていてもおかしくなかった。


けれど。


「フェリシアンヌ様」


「なんですか」


「置いて行っていただいて構いませんので」


当のセレスティーナは、心底申し訳なさそうに言った。


「構いませんじゃないです」


「ですが、お昼休みが」


「知らないです」


思わず返した。


セレスティーナが目を瞬く。


「知らないです。今は」


「……そう、ですか」


「はい」


何、この人。


何なの、これ。


頭が現実に追いつかない。


けれど身体だけは勝手に動いた。


左手を支える。


ふらついた身体を腰元から引き寄せる。


そうして初めて気づいた。


薄い。


姿勢がいいから、もっとしっかりして見えていた。


制服もいつも綺麗に整っているから、分からなかった。


けれど支えてみれば、驚くほど身体が薄い。


腕も細い。


肩も狭い。


身長は、ミアより高いのに。


こんな身体で、五人分の課題を一人でやった。


こんな身体で、三日間であのハンカチを刺した。


そんな考えが一瞬だけ浮かんだ。


ミアはすぐに追い払った。


今は考えない。


後で考える。


後で怒られるかもしれない。


勝手に触ったことも。


手を引いたことも。


腰を支えたことも。


全部。


それでも、今目の前に明らかに熱を出している人がいる。


寝かせてから考えればいい。


医務室までは、ふらつくセレスティーナを支えながらでも、さほど時間はかからなかった。


扉を開ける。


鍵は開いていた。


けれど、中には誰もいない。


「……先生、いない」


少し困った。


振り返れば、セレスティーナは壁に手をついて立っていた。


「では、わたくしはこれで」


「どこ行くんですか」


「殿下のお仕事を」


「行きません」


「…ですが」


「座ってください」


有無を言わせず寝台まで連れていく。


セレスティーナはおとなしく腰を下ろした。


「ありがとうございます、フェリシアンヌ様」


また頭を下げようとする。


ミアは肩を押さえて止めた。


「もういいですから」


うんざりした声が出た。


「寝てください」


セレスティーナが首を傾げた。


「はい?」


「靴を脱いで、横になってください」


「ですが、少し休めば動けると思いますので」


「だから、その少し休むために寝るんです」


「ここで、ですか?」


「ここは医務室です!」


「そう、ですね」


本当に分かっているのだろうか。


「そんな、ご迷惑をおかけするほどでは」


もう最後まで聞く気にもなれなかった。


ミアはしゃがみ込んだ。


「あの」


セレスティーナが戸惑った声を出す。


気にせず靴へ手をかける。


「そんな、」


細い留め具を外し、そのまま片方ずつ脱がせた。


お貴族様は、足まで白くて細かった。


なんだこれ。


同じ人間なのだろうか。


自分のものよりずっと踵の細い靴を床へ揃えて置く。


立ち上がる。


「横になってください」


「…ですが」


まだ言う。


「寝たら、殿下のお仕事が遅れてしまいます」


「やらなくていいです」


「ですが、わたくしが引き受けましたので」


「熱があるのにですか?」


「熱があっても、動けるのでしたら」


「動けてないです!」


ついにミアは声を上げた。


「さっき座り込んだでしょう!」


「ですが、今は立てます」


「だから何で立てたら大丈夫なんですか!」


セレスティーナが少し黙った。


それでもなお何か言おうとしたので、ミアはもう肩へ両手を置いた。


「とにかく寝てください」


軽く押す。


「…あ、」


ぐらり、と。


驚くほど簡単に上体が寝台へ倒れた。


ミアは呆れた。


まともに座っている力もないくせに。


孤児院で熱を出した幼い子供へそうしたように、足を寝台へ上げる。


スカートの裾を軽く整えた。


畳んであった毛布を広げ、胸元まで掛ける。


セレスティーナは、何が起きたのか分からないような顔をしていた。


ミアはもう一度言った。


「寝てください」


「…殿下に、」


「…寝て、ください」


「……わかり、ました」


返事が途中で細くなった。


紫色の瞳が閉じる。


それきり、セレスティーナは動かなくなった。


「…………」


ミアはしばらく見つめた。


「寝た、の?」


返事はない。


横になった瞬間だった。


本当に、ほとんど一瞬。


眠った。


目を閉じると、整った顔はより作り物のように見えた。


けれど、よく見れば頬はまだ赤い。


呼吸も、ほんの少し苦しそうだ。


まつ毛の際には、熱のせいか薄く涙が滲んでいる。


「横になった瞬間寝るって……」


ベッド脇の椅子へ腰掛ける。


そこでようやく、身体の力が抜けた。


自分の手を見る。


さっきまで握っていた。


あの、セレスティーナの手を。


腰にも触った。


靴まで脱がせた。


「……私、何やってるんだろ」


今さら心臓が妙に速くなった。


勝手に触った。


あんなに。


怒られるかもしれない。


目が覚めたら、「無礼ですわ」と睨まれるかもしれない。


そう考えて。


もう一度、眠っている顔を見る。


怖いと思っていた。


嫌いだと思っていた。


ひと月前まで。


なのに。


今、目の前で熱を出して眠っている人を見ても。


どう考えても。


嫌いとも。


怖いとも。


思えそうになかった。


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