2-6 夢の中で眠る
夢は、まだ覚めなかった。
それどころか、信じられないようなことが起きた。
聖女フェリシアンヌが、ハンカチを受け取ってくださったのだ。
なんということだろう。
生まれて初めて用意した贈り物を、生まれて初めて受け取っていただけた。
あのときのことを思い出そうとすると、今でも胸のあたりがふわふわする。
『あの、ごめんなさい。いただいて良いなら、あの、いただきたいです』
最初は断られた。
当然だと思った。
自分の作ったものを差し上げようなどと、烏滸がましいことをしてしまったのだから。
けれどフェリシアンヌは、受け取った。
綺麗だから驚いただけなのだと。
いただけるなら嬉しいのだと。
そう言って、受け取ってくださった。
嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
どんな顔をして、何と答えたのだったか。
あまりに嬉しすぎて、よく覚えていないくらいだった。
ただ、フェリシアンヌの手に自分の作ったハンカチが渡ったことだけは、何度思い返しても夢のようだった。
余分にハンカチを刺した分、休みの日はお母様からいただいていた課題を終えるのに、少し時間が必要になった。
けれど、それも昨夜にはきちんと終わった。
だから昨夜は、三時間も休ませていただいた。
今日はもう課題も残っていない。
今夜からは、また普段通り六時間も休ませていただける。
夢のようだ。
――違う。
これが夢なのだ。
授業を受けながら、セレスティーナは小さく微笑んだ。
この身体は、本当に丈夫だった。
先週は少し休む時間を減らしてしまったのに、まだきちんと動いている。
今日はいつもより身体が重いような気もした。
けれど、少し力を入れれば教師の声は聞き取れる。
文字も読める。
考えれば、授業の内容もきちんと理解できる。
ペンを持った指も動く。
ならば、何も問題はない。
やはり、セレスティーナは素晴らしく丈夫な身体を持っている。
そんなことを考えているうちに、午前の授業は無事に終わった。
昼休みには、また殿下からお仕事をいただいた。
教師棟へ書類を届け、資料室から演習記録を持ってきて、演習場の使用申請を確認する。
どれも難しいことではない。
それなのに。
「かしこまりました」
礼をした途端、足元が少しおかしくなった。
身体が傾いた。
慌てて足を踏み直す。
「……申し訳ございません」
はしたないことをしてしまった。
きちんと立ち直したつもりだったけれど、フェリシアンヌがこちらへ近づいてきた。
「……熱、ありませんか?」
熱。
何のことだろう。
「熱、でございますか?」
「今度は仮病か?」
アレクサンダーの声がした。
「この前は資料室に籠もってふらついて、今度は熱か。随分と都合がいいな」
そういうことか。
ようやく理解した。
せっかく厚情で仕事を与えてくださったのに、それを嫌がって仮病を使っていると思われてしまったらしい。
困った。
自分は、いつもこうなのだ。
お役に立ちたいと思っている。
きちんと働きたいと思っている。
けれど、なかなか信じていただけない。
「仮病ではございません」
そうお伝えしてみたけれど、アレクサンダーの表情は晴れなかった。
「だから、それが演技だって言ってるんだよ」
どうすればよいのだろう。
何と言えば、信じていただけるのだろう。
「……申し訳ございません。どのようにすれば殿下のご不快を和らげられるのか、わたくしにはまだ分からなくて」
考えても、やはり分からない。
ならば、せめて行動でお示しするしかない。
「ですが、お仕事はきちんと終えて参りますので」
幸い、書類は取り上げられなかった。
まだ、お仕事をさせていただける。
セレスティーナはそれを受け取り、歩き出そうとした。
一歩。
足を出した。
そのはずだった。
ふいに、床の場所が分からなくなった。
視界が違う。
いつの間にか、周囲が高くなっている。
「セレスティーナ様!」
フェリシアンヌの声が、上から聞こえた。
どうやら、座り込んでしまったらしい。
「……申し訳ございません」
また失敗してしまった。
「少し、足がうまく動かなかったようです」
けれど、少し待てばまた動くだろう。
これまでも、そうだった。
身体が思うようについてこなくなったときは、少し待てばいい。
待って、もう一度動かす。
そうすれば、大抵はまた動くようになる。
だから、そうお伝えした。
フェリシアンヌが何か言っている。
アレクサンダーも何かを言っている。
声は聞こえているのに、ところどころ意味が繋がらなかった。
フェリシアンヌが振り返った。
いつもより大きな声で、何かを言っている。
怒っているのだろうか。
誰に。
何を。
よく、分からない。
わたくしは、お役に立ちたいだけなのに。
「……熱、絶対ありますよ」
熱。
また、その言葉だった。
耳の奥で、遠い声が蘇った。
『熱が出たから休みたい? 気合いが足りないんだよ。これだからゴミは』
いつのことだっただろう。
ずいぶん前のことのような気もする。
『できなくても、せめてやる気くらい見せろ』
その通りだと思った。
できないのは、自分が悪い。
だから、できないときほど、せめてやろうとしているところを見せなければならない。
それでも。
一度だけ。
職場で座り込んでしまった日があった気がする。
立とうとしても足が動かなくなって。
誰かが自分の額に何かを当てて。
『四十一度はさすがに――』
そんなことを言った。
上司がひどく嫌そうに舌打ちをした。
『もういい。今日はそこで寝てろ。邪魔だ』
休ませていただいた。
一晩も。
翌朝には、またきちんと動けた。
あのときは、本当に申し訳なかった。
仕事をするために置いていただいているのに、一晩も何もせず休んでしまった。
けれど。
今は、あのときとは全然違う。
手は動く。
目も見える。
少し待てば、足も動く。
何も問題はない。
そのことをフェリシアンヌへ説明しようとした。
出そうとした、声が、消えた。
ああ。
そうだった。
少し前に気づいたのだが、なぜかこの夢の中では、現実の世界のことは、言葉にできないのだった。
仕方がない。
考えていたら、フェリシアンヌが手に触れたいと言った。
何をするのだろう。
よく分からなかったけれど、嫌なことは何もない。
「はい」
手を差し出した。
フェリシアンヌの指が、自分の手に触れた。
「あっつ!」
びっくりした。
思わず瞬きをする。
フェリシアンヌが、見たこともないくらい慌てている。
「これ熱あるとかじゃないですよ!」
「そう、なのですか?」
「そうですよ!」
けれど、手は動く。
そうお伝えしたら、なぜかもっと怒られた。
歩ければ大丈夫だと思ったのだけれど、どうやらそれも違うらしい。どうやら、自分のことをとても心配してくださっているようだ。
ならば、実際に立てるところを見ていただけば安心してくださるだろうか。
フェリシアンヌに触れている、反対の手を床に手をついた。
身体を持ち上げようとする。
少しだけ浮いた。
そこで、また足から力が抜けた。
おかしい。
「申し訳ございません」
もう少しだけ待てば。
そうお伝えすると、フェリシアンヌがひどく疲れたような顔をした。
困らせてしまったらしい。
それからは、あまりよく覚えていない。
手を引いていただいた。
今度は立てた。
だからお礼を申し上げようとしたら、頭を下げてはいけないと叱られた。
謝ると、謝ってはいけないとも言われた。
難しい。
何をすれば正しいのか、よく分からなくなってきた。考えるのが、なぜかひどく難しい。
「医務室、行きますよ」
「ですが、殿下からのご用が」
「行きます」
フェリシアンヌは、どうしても医務室へ行くと言っている。
自分だけなら仕事へ向かえると思ったけれど、手を握られていた。
歩き出される。
ならば、ついていかなければならない。
一歩ずつ足を動かした。
いつもより、少し難しい。
次にどちらの足を出せばいいのか考えていると、身体が不安定に傾いてしまう。
そのたびにフェリシアンヌが支えてくれた。
お昼休みなのに、申し訳ない。
「置いて行っていただいて構いませんので」
「構いませんじゃないです」
「ですが、お昼休みが」
「知らないです。今は」
そう言われてしまった。
どうやら、ずいぶん怒らせてしまったらしい。
医務室まで来れば、もう大丈夫だろう。
そう思って仕事へ戻ろうとしたけれど、また止められた。
寝台へ座らせていただいた。
「寝てください」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。
「はい?」
「靴を脱いで、横になってください」
ここで。
今から。
寝るのだろうか。
殿下からいただいた仕事が、まだ一つも終わっていない。
「ですが、少し休めば動けると思いますので」
「だから、その少し休むために寝るんです」
そういうものなのだろうか。
それでも、自分のためにフェリシアンヌのお時間を使わせるほどではない。
「そんな、ご迷惑をおかけするほどでは」
言い終える前に、フェリシアンヌが目の前へしゃがみ込んだ。
「あの」
靴に手をかけている。
「そんな、」
何をなさっているのだろう。
聖女様が。
自分の靴を。
止めなければと思ったのに、うまく言葉が出てこない。
気づけば両方とも脱がされていた。
申し訳ない。
こんなことまでしていただく理由など、どこにもないのに。
「横になってください」
「……ですが」
まだ、仕事がある。
引き受けたのは自分なのだ。
熱があるらしいけれど、動けるなら問題はない。
そうお伝えしたら、また怒られた。
「動けてないです!」
そんなことはない。
今は座れている。
さっきだって、ここまで歩いてこられた。
それを説明しようとした。
けれど、フェリシアンヌの両手が肩に触れた。
「とにかく寝てください」
少し押されただけだったと思った。
なのに。
「……あ、」
身体が支えられなかった。
視界が傾く。
次の瞬間には、天井が見えていた。
背中に柔らかな感触がある。
足を持ち上げられる。
毛布まで掛けていただいた。
何を言えばいいのだろう。
何をすればいいのだろう。
聖女様に靴まで脱がせていただいて。
寝台に寝かせていただいて。
こんなにお手を煩わせている。
それなのに。
柔らかい。
温かい。
そういえば、寝台に横になるのはいつぶりだろうか。今週は手習をたくさんしたので、目を閉じるのは椅子の上だったな、とふと思った。
身体から、勝手に力が抜けていく。
「寝てください」
フェリシアンヌが言った。
怒った顔をしていた。
まだ大丈夫だとお伝えしなければ。
殿下のお仕事も。
「……殿下に、」
「……寝て、ください」
声が、うまく出ない。
「……わかり、ました」
せめて、きちんと返事をしなければ。
そう思った。声が出ていたのか、よく分からない。
瞼が勝手に落ちてしまう。
もう一度開こうとしたのに、動かなかった。
柔らかな寝台に身体が沈んでいく。
今夜からは、六時間も休ませていただける。
だから、今は殿下のお仕事をしなければ。
そう思ったところで。
セレスティーナの意識は、何の抵抗もできないまま闇へ落ちていった。




