2-7 別の人
医務室の医師が戻ったのは、昼休みが終わる少し前だった。
戻ってきた医師にセレスティーナを託し、ミアはすぐ近くにある小さなラウンジへ向かった。今から食堂へ行っても、まともに昼食を取っている時間はない。鞄から紙包みを取り出し、持ってきていた焼き菓子を一つ、昼食代わりにかじった。
残った二つは医師に預けてきた。セレスティーナが起きて、食べられそうなら渡してほしいと頼んである。
なんだか、ずいぶん慌ただしい昼休みだった。
教室へ戻ると、三人の少年がいた。
アレクサンダーは気まずそうに机へ視線を落としている。ジークバルトも似たような顔をしていた。トビアスだけはいつもと変わらない顔で本を読んでいるけれど、ミアが入ってきた瞬間に一度だけこちらを見たので、気にしていないわけではないらしい。
ミアはアレクサンダーの横まで歩いて、それから一つ息を吐いた。
「さっきは、すみません。頭に血が上っちゃって。アレクサンダー殿下に、失礼なことを言いました」
アレクサンダーの肩が、びくりと揺れた。
「いや、その……あいつは、その」
「熱が高くて寝てます」
「……本当だったのか」
「そう言ったじゃないですか。セレスティーナ様といい、お貴族様って熱出したことないんですか?」
「…………」
「あ、すみません。不敬でしたね」
「いや、いいんだ」
アレクサンダーはますます気まずそうに目を逸らした。
「いつも通り、アレクって呼んでほしい……」
「じゃあ、その」
ミアは少し考えた。
「今日セレスティーナ様に頼んだお使い、なしにしてくれたら、いいです」
「わ、分かった」
「ありがとうございます。……アレク様」
アレクサンダーが、ほっとしたような、けれどまだ何か言いたそうな顔をした。
その顔を見ながら、ミアは少し前のことを思い出していた。
医務室へ戻ってきたのは、五十がらみの男性医師だった。
寝台で眠っているセレスティーナを見るなり少し厳しい顔をしたが、事情を聞くより先に手を動かした。保冷の魔道具から氷嚢を取り出し、最先端だという細い水銀体温計を手早く消毒すると、眠っているセレスティーナを起こさないよう、そっと口に差し入れる。
そのまま五分ほど待つ間に、ミアは今日見たことを簡潔に話した。
午前中は普通に授業を受けていたこと。昼休みになってから足元がふらついたこと。手に触れたら驚くほど熱かったこと。座り込んだあと、自分では立てなくなったこと。それでも本人は、仕事へ行こうとしていたこと。
こういうことは、孤児院にいた頃とだって変わらない。
具合の悪い子がいたら、大人のいるところへ連れていって寝かせる。それから、自分が見たことを話す。いつからおかしかったとか、何を食べたとか、吐いたとか、転んだとか。そうすれば、あとは大人が考えてくれる。
公爵令嬢だって、人間なんだから。
そんなことを、ふと思った。
「よく連れてきたね」
医師は穏やかに言った。
褒められて、ミアは少しだけ肩の力を抜いた。
やがて時間が来ると、医師は体温計を取り出した。数字を確かめ、きれいに拭ってから、それをミアにも見えるように指し示す。
「三十九度。学校で習ったかな? 人間の体温は、普通は三十六度くらいだ。これだけ熱があれば、歩けない人の方が多いと思うよ」
「……三十九」
ぞっとした。
孤児院に、こんな高価な体温計はなかった。熱があるかどうかなんて、額や首に手を当てて確かめるくらいだった。
けれど、あのとき触れたセレスティーナの手がひどく熱かったことは、間違いではなかったのだ。
医師にも断言されるほど具合が悪い。
なのにセレスティーナは普通に授業を受けていた。昼食も取らず、アレクサンダーに頼まれた用事へ行こうとしていた。
明らかに、普通ではない。
「あの」
お節介かもしれない。
そう思ったのに、一度口を開いたら止まらなかった。
「この人、言わないとお水も飲まないかもしれません。あと、お昼を食べてないので。起きて、食べられそうだったら、これをあげてもらってもいいですか」
持っていた焼き菓子を差し出す。
「それから、起きたら多分、一人で帰るって言うと思います。なので、放課後になったら私が迎えに来ます」
医師は黙って聞いていた。
全部話し終えると、少しだけ目元を和らげる。
「君は、優しい子だね」
小さな子供に言うような口調だった。
ミアはなんとなく居心地が悪くなって、視線を逸らした。
「しかし、聖女のサンティエ嬢とレーヴェン公爵令嬢は犬猿の仲、というのがもっぱらの噂だったが。どうしてだか聞いても?」
「……分かりません」
本当に、分からなかった。
自分でも分からないのだから、説明のしようがない。
「でも」
眠っているセレスティーナを見る。
赤い頬。少し苦しそうな呼吸。目を閉じてしまえば、いつも纏っている近寄りがたさも随分薄く見えた。
「少なくとも、今日私が見たセレスティーナ様は、怖く、ないので」
少しだけ考えて、付け加えた。
「もし、叱られたら……二度としません」
口を尖らせてそう言うと、医師はなぜか小さく笑った。
放課後。
セレスティーナを迎えに行くと言うと、アレクサンダーは「そこまでするのか」と聞いてきた。
そこまでと言われても、ミアにも分からない。
「まあ……ミアがそうしたいなら」
結局、アレクサンダーもはっきりしない様子でそれ以上は止めなかった。
どうして自分がここまでしているのかは、医師に聞かれたときと同じで、やっぱり分からない。
でもまあ、毒を食らわば皿まで、とどこかの人は言ったらしい。
ここまで来たら、気になるではないか。
医務室の扉をノックする。
「入りなさい」
返ってきた医師の声は、妙に疲れていた。
なんだろうと思いながら扉を開けて――ミアは、遠い目になった。
セレスティーナが起きている。
それも、寝台の上にいつもの綺麗な姿勢で座り、今まさに立ち上がろうとしていた。
やっぱりなー。
思わず心の中でつぶやいた。
「セレスティーナ様、起きたんですね」
「フェリシアンヌ様」
セレスティーナはひどく戸惑ったようにこちらを見た。
「わたくし、四時間もお休みしてしまって。殿下にいただいたお仕事もありますのに……」
「あ、それなんですけど。今日はいいって言ってました」
「……いい?」
「やらなくていい、ってことです」
紫色の瞳が、少し伏せられた。
「かしこまり、ました……。殿下のお心遣いにお応えできず、申し訳ないです……」
なんでお使いがなくなって悲しそうなの?
というか、多分まだ熱あるでしょ。
ミアが心の中で突っ込んでいると、
「あー、サンティエ嬢」
医師が、慎重にタイミングを見計らったように声をかけてきた。
「君の予想はとても正しかった」
「はい?」
「半刻ほど前に目を覚ましてね。水と薬と、君が預けていった菓子を口にした。それからずっと、この調子だ」
医師はため息をついた。
「多少下がったとはいえ、まだ熱は三十八度ほどあるんだ。寮に帰るだけならともかく、何か作業をしていい体調ではないと言っているんだが」
「お水も、お菓子も、お薬までいただきましたし、この通り身体は問題なく動きます、と申し上げておりました」
セレスティーナが静かに補足した。
「けれど、そうですね。殿下のご期待には、お応えできなかったのですね……」
「なんで落ち込んでるのか、さっぱりなんですけど」
とうとう声に出た。
「とりあえず授業時間も終わりましたし、寮に帰りませんか? 個別棟まで私、送っていきますよ」
「ですが、そのような――」
「帰りましょう」
「……はい」
医師が露骨にほっとした顔をした。
結局、ミアはセレスティーナを放っておけず、そのまま一緒に寮へ向かうことになった。
歩けるようにはなっていた。
朝と変わらない、とまではいかないけれど、少なくとも昼のように一歩ずつ考えながら歩いている様子ではない。それでも隣を歩きながら、ミアは何度もセレスティーナの横顔を盗み見た。
「あの、セレスティーナ様」
「はい」
「失礼なのは承知の上なんですけど」
ミアは一度、言葉を切った。
「あとから不敬とか言わないって、約束してもらえますか?」
セレスティーナが目を瞬いた。
「フェリシアンヌ様を不敬だなどと、とんでもないことでございます」
「じゃあ、約束ですね」
「……はい?」
「公爵家の方は、お部屋にお世話をする人がいるんですよね?その方に寝る支度をしてもらって、寝台に入るところまで見届けて、それから帰ってもいいですか?」
セレスティーナが立ち止まりかける。
ミアは先に言った。
「どうしても、心配なんです」
「……ですが、これから学院の課題と、お母様の送ってくださった手習いを――」
「だからです」
思った通りだった。
「医務室の先生も、お休みするべきだとおっしゃっていました。お願いですから、休んでください」
「お願い……」
セレスティーナが、その言葉を小さく繰り返した。
しばらく考えるように黙ったあと、ふわりと微笑む。
「分かりました。フェリシアンヌ様のお心に応えられるよう、しっかり休ませていただきますね」
「……はい。そうしてください」
休むことにまで、誰かの期待に応える理由が必要なのだろうか。
もう考えたくなかった。
個別棟に着くと、セレスティーナ付きの侍女が出迎えた。
エマと名乗った若い侍女は、主人が聖女を連れて帰ってきたことに目を丸くした。事情を説明すると、今度は主人の顔を見てさらに目を丸くする。
「お嬢様、お熱が?」
「もう下がっております。三十八度ほどですので」
「下がってません」
ミアは即座に訂正した。
「医務室の先生から、今日は何もせず休むように言われています。朝まで寝かせてあげてください。できればお水も飲ませてください」
「か、かしこまりました」
「フェリシアンヌ様、そこまでしていただかなくとも――」
「約束しましたよね?」
「……はい」
エマに寝支度をしてもらい、セレスティーナが本当に寝台へ入るところまで見届けた。
「では、おやすみなさい、セレスティーナ様」
「はい。本日は、本当にありがとうございました。フェリシアンヌ様」
布団の中からまで丁寧に礼を言われた。
ミアはそれ以上何も言わず、エマにもう一度だけ「お願いします」と頭を下げて部屋を出た。
自室へ戻り、制服を脱いで部屋着に着替える。
そのまま寝台へ飛び込んだ。
「……疲れたぁ」
昨日、五時間も礼儀作法と手習いの補講を受けたときの方が、まだましだった気がする。
枕へ顔を埋める。
焼き菓子をあげた。
ハンカチをもらった。
今日は熱を出しているのを見つけて、手を握って、医務室まで連れていった。靴まで脱がせた。放課後には迎えに行って、とうとう部屋まで押しかけて、寝るところまで見届けた。
ひと月前の自分が聞いたら、絶対に信じない。
ミアだって、まだ全部を信じたわけではない。
昔されたことが、なくなったわけではない。怖かったことも、嫌だったことも、覚えている。
けれど。
『フェリシアンヌ様のお心に応えられるよう、しっかり休ませていただきますね』
あの微笑みを思い出す。
どうして休むだけで、あんなに嬉しそうにするのだろう。
どうして焼き菓子一つで、あんなに喜ぶのだろう。
どうして自分の名前を三日もかけて刺して、それを受け取ってもらえただけで、あんな顔をするのだろう。
分からないことばかりだった。
でも、一つだけ決めた。
今、自分にあの微笑みを向ける人のことを。
前に自分を怖がらせた人とは、別の人だと思うことにしよう。
理由なんて、まだ分からなくていい。
少なくとも今のセレスティーナを、ちゃんと今のセレスティーナとして見る。
そう決めてしまえば、不思議なくらい胸の中がすっきりした。
ミアは枕に頬を押しつけ、目を閉じた。
明日、学院へ行ったら。
とりあえず、ちゃんと朝ご飯を食べたか聞こう。
――そうしてミアはようやく、今のセレスティーナと向き合うことを決めたのだった。




