2-8 八時間
翌朝、ミアが教室へ入ると、セレスティーナはもう席についていた。
昨日と同じように髪は綺麗に整えられ、制服にも乱れはない。背筋を伸ばして座る姿はいつもの公爵令嬢そのもので、昨日、三十九度の熱を出して医務室の寝台へ沈んでいた人にはとても見えなかった。
ミアは鞄を自分の席へ置くより先に、セレスティーナのところへ向かった。
「おはようございます、セレスティーナ様」
「おはようございます、フェリシアンヌ様」
セレスティーナが、ふわりと微笑んだ。
昨日から、この笑顔を見る回数が妙に増えた気がする。
「具合、どうですか?」
「はい。昨夜は八時間もお休みしてしまいましたし、今朝は朝食もいただきました。とても幸せです」
「……八時間」
ミアは瞬きをした。
八時間。
それなら、まあ。
昨日、寮へ戻ったのは夕方だった。寝る支度をして、すぐに眠ったとしても、八時間なら夜中まで眠っていたことになる。そのあと一度起きて、何か食べたり水を飲んだりして、また朝まで眠ったのだろう。
普通なら、そう考える。
昨日までのミアなら、きっとそう考えた。
「失礼します」
「はい?」
断ってから、セレスティーナの額へ手を当てた。
ほんのりと熱い。
昨日の昼ほどではない。けれど、ミアの手より明らかに温かかった。
「多分、まだちょっと熱ありますよ」
「そうでしょうか。身体はもう問題なく動きますけれど」
「…………」
やっぱり、それなのだ。
身体が動くので大丈夫。
この人は昨日から、それしか言わない。
ミアは壁に掛けられた時計を見た。
それから、もう一度セレスティーナを見る。
「セレスティーナ様」
「はい」
「八時間寝たあと、課題と手習いをされたんじゃないですか?」
紫色の大きな瞳が、こぼれ落ちそうなほど見開かれた。
「まあ。どうしてお分かりに?」
「…………」
分かりたくなかった。
本当に、分かりたくなかった。
八時間も、ではない。
昨日の夕方から八時間眠って、たぶん夜中の二時頃に起きたのだ。それから学院の課題と、母親から送られてきたとかいう手習いを行った。
おそらく、朝まで。
「フェリシアンヌ様?」
「なんでもないです」
もう手に負えない。
ミアはセレスティーナの手を取った。
「まあ」
「とりあえず医務室に行きましょう。お熱がなかったら、授業に出ましょうね」
「ですが、もう身体は――」
「行きます」
「……はい?」
遠慮だとか、気遣いだとか。
そういうものは昨日で全部品切れだった。
事情が分からないらしく、セレスティーナはしきりに首を傾げながら、それでも手を引かれるままついてきた。
医務室では、昨日と同じ医師が迎えてくれた。
セレスティーナの顔を見た瞬間、なんとも言えない顔をされた。
体温計で測ってみれば、三十七度五分。
「多少は下がっているが……」
医師は少し言いにくそうにセレスティーナを見た。
「もう少し寝ていることを勧めますがね」
「必要ありませんよ?」
セレスティーナが、きょとんとした。
医師は、何歳か歳を取ったような顔をしている。
噂に聞くレーヴェン公爵令嬢と、目の前にいる少女とのあまりの落差に、医師の方が風邪を引きそうな具合だった。
ミアはため息をついた。
「えーと、……お願いですので、せめてお昼までここで寝てください」
「まあ」
ぱっと、セレスティーナの顔が明るくなった。
「また、お願いいただけますの?」
「…………はい」
「分かりました」
ふわり、と笑う。
先日ハンカチを受け取ったときに見たのと同じような笑顔だった。心なしか、周囲にきらきらした何かまで飛んでいるように見える。
「フェリシアンヌ様のお心に応えられるよう、きちんと休ませていただきますね」
なんでそんなに嬉しそうなの。
ミアはもう聞かなかった。
「あー……そういうわけですので、先生。お昼になったらまた来ます」
「…そうしてくれると、私も非常に助かるよ」
「セレスティーナ様、お水、飲んでくださいね」
「はい。フェリシアンヌ様は、本当にお優しいのですね。かしこまりました」
貴族令嬢らしからぬ、にこにことした笑顔の裏には、きらきらとした何かが飛んでいるようにすら見える。
まるでお菓子をもらった小さな子供のようだった。
ミアは何も言えなくなって、医師へ頭を下げた。
昼休み。
約束通り医務室へ迎えに行くと、セレスティーナの熱はほとんど下がっているとのことだった。
医師から、食事をして薬を飲み、疲れてなければ午後の授業へ出てもいいと言われたので、そのまま二人で食堂へ向かった。
ミアは日替わりの昼食を頼んだ。
焼きたてのパンに、野菜の入ったスープ。肉料理と付け合わせもついている。
向かいに座ったセレスティーナの前には。
ミアのお盆にあるのと同じ、焼きたてのパンが、一つ。
それだけだった。
「……はい?」
「どうかなさいましたか?」
「いやいやいや。やっぱり具合悪いんですか?」
「いいえ?」
セレスティーナは不思議そうに首を傾げた。
それから目の前のパンを見て、嬉しそうに微笑む。
「このパン、白くて焼きたてで、とても美味しいんですよ」
「……はい」
「そしてなんと、牛乳もいただけるのです」
「…………」
心の底から嬉しそうだった。
白い焼きたてのパンが食べられる。
牛乳まで飲める。
ただそれだけのことを、まるで特別なご馳走でも用意されたように喜んでいる。
この美しい少女が、かつて自分を冷たい目で見下ろし、礼儀がなっていないと叱責してきたレーヴェン公爵令嬢と同一人物であることが、もうミアには信じられなかった。
反省室って、人の性格をここまで変える怖いところなのかな……。
ミアは現実逃避するように、そんなことを考えた。
結局、セレスティーナはパンを一つ食べ、牛乳を飲んだ。
医師が投げやりな顔で渡してくれた薬も、素直に飲んだ。
午後は二人で教室へ戻った。
「たくさん授業を休んでしまいました」
廊下を歩きながら、セレスティーナが申し訳なさそうに言う。
「これから取り戻さなければなりませんね。わたくしは覚えが悪いので」
「いやいや」
ミアは思わず足を止めた。
「セレスティーナ様が覚え悪いなんて言ったら、私なんかどうなるんですか」
「?」
セレスティーナも足を止めた。
「フェリシアンヌ様は、短期間でたくさんのことを学ばれていると思いますよ?」
「……え」
「十五歳から始められたのに、学院の授業にもきちんとついていらっしゃいますし。とても覚えが良いのですね」
「…………」
頭の中で、何かがどっかーんと爆発した。
セレスティーナはそんなミアを不思議そうに見ている。
「フェリシアンヌ様?」
「……なんでも、ないです」
「そうですか?」
「はい」
授業が始まった。
けれどその日の午後、ミアは教師の話をほとんど覚えていなかった。
放課後になると、セレスティーナはいつも通り丁寧に挨拶をして帰っていった。
アレクサンダーも、今日は引き留めなかった。
ミアは席に座ったまま、ぼんやりしていた。
「……ミア」
声をかけられて顔を上げる。
アレクサンダーが、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「どうしたんだよ。まさか、やっぱりあの女に何か言われたのか?」
「言われました……」
アレクサンダーの顔色が変わった。
「なんて言われたんだ!」
「たくさん学んでて、覚えが良いって……」
「だからあの女は――」
勢いよく言いかけたアレクサンダーが止まった。
「……は?」
「セレスティーナ様に、褒められました……」
「…………」
アレクサンダーが黙った。
少し前なら。
セレスティーナに何かを言われたら、それだけで泣きたくなっていたかもしれない。
あれだけ叱責された相手だ。
誉められたら、多少は嬉しかったと思う。
実は今だって、少しだけ目の奥が熱い。
でも、どうしてなのかは、自分でもよく分からなかった。
悲しいわけではない。
悔しいわけでも、怖いわけでもない。
嬉しいのかと聞かれたら、たぶん嬉しいのだと思う。
けれど、それだけではない気がした。
だって。
あの人は、めちゃくちゃなのだ。
美人で、頭が良くて、立っているだけでも絵になるくらい所作が綺麗で。職人でも十日はかかると言われたハンカチを、たった三日で作ってしまう。
そんな人なのに、アレクサンダーの無茶な指示にも笑顔で従う。公爵令嬢がやるようなことでもない雑用めいたお使いを、頼まれただけで嬉しそうに引き受ける。
三十九度も熱があるのに、歩けるから大丈夫だと笑う。八時間も眠ってしまったと、本気で申し訳なさそうな顔をする。
かと思えば、贅を凝らした食事に慣れているはずの公爵令嬢が、小さな焼き菓子一つを宝物でももらったように喜ぶ。誰でもただで食べられる学院の食堂で選んだ昼食が、白いパン一つだった。それなのに、牛乳までいただけるのだと、幸せそうに笑う。
どれが、あの人なのだろう。
すごい人なのか。
何も知らない人なのか。
大人びた公爵令嬢なのか。
焼き菓子一つで喜ぶ、小さな子供みたいな人なのか。
全部、同じ人なのだ。
だからもう、何を考えたらいいのかも分からない。
そんな、めちゃくちゃな人に。
『とても覚えが良いのですね』
なんて、あんなに当たり前みたいな顔で言われた。
それだけだ。
それだけなのに、どうして目の奥が熱くなるのかなんて、ミアには分からなかった。
そんな人に、少しばかり褒められたからといって。
絆されると思ったら、大きな間違いなのだ。
でも、とりあえず。
明日はまた、いつもの焼き菓子を持ってこよう。
そうして、もし食堂で昨日と同じパンを一つだけ選んだら、渡してやらなければならない。
仮にも公爵令嬢っていうなら、パン一つでそんなに喜んでちゃ駄目ですよ、って。
焼き菓子くらい、食べてください、って。
そう、言おう。




