11-6 王城の書庫
七月に入った頃、アレクサンダーのもとに、王城の文書管理官から一通の返書が届いた。
学院の図書室と魔術科の資料室を調べ始めてから、すでに二週間近くが経っている。トビアスが地方の記録を整理し、セレスティーナが古い魔術理論を読み解き、ミアが五月の森で感じた魔力の動きを説明する。少しずつ分かったことは増えていたが、肝心の魔力が地中から噴き出す現象については、確かな記録が見つかっていなかった。
建国の聖女が荒れた土地を鎮めたという伝承は、いくつも残っている。しかし、何を鎮め、どのように力を使ったのかとなると、途端に記述が曖昧になる。
アレクサンダーは封書を開き、内容に目を通した。
「……許可が下りたか」
王城の書庫に保管されている建国期の文献について、閲覧可能な資料の一覧が添えられていた。さらに、通常は研究者や王家の許可を受けた者にしか開かれない古文献保管室についても、管理官立ち会いのもとで一部を閲覧できるという。
ただし、資料の持ち出しは禁止。複写にも別途許可が必要で、閲覧できるのは申請した三名に限られる。
アレクサンダーは最後の条件を確認し、返書を机に置いた。
「これで、ようやく次へ進めるな」
翌日、学院のラウンジでその話をすると、トビアスはすぐに手元の資料を閉じた。
「古文献保管室まで許可が出たんですか」
「ああ。ただし、申請した範囲だけだ。王家の記録が何でも読めるわけじゃない」
「十分ですよ。学院に残っている写本は、肝心な部分が省略されているものも多いですから」
トビアスはそう言って、持参した一覧表を広げた。
「特に確認したいのは、建国後の土地の異変に関する記録です。聖女の伝承だけを探すと、どうしても奇跡の話に偏ってしまう。土地の管理や村の移転、魔物の出現に関する行政記録も見られるといいんですが」
「そのあたりは通常の書庫にもあるそうだ。古文献保管室は午後からになる」
「分かりました。午前中に年代を絞りましょう」
二人の話を聞いていたセレスティーナが、そっと顔を上げた。
「アレクサンダー殿下。わたくしも、同行してよろしいのでしょうか」
「そのために申請したんだが」
「……そうでございましたか」
セレスティーナは少し驚いたように瞬きをした。
「ありがとうございます。大変貴重な資料を拝見できるのですね」
「礼はまだ早い。何か見つかるかは分からないからな」
「はい。それでも、とても楽しみです」
嬉しそうに微笑むセレスティーナを見て、アレクサンダーはわずかに眉を上げた。
「……一応言っておくが、王城へ行くのは調査のためだからな」
「もちろんでございます」
「書庫の資料を全部読む必要もない」
「はい。必要なものから確認いたします」
「時間になったら終わりだ」
「承知いたしました」
あまりにも素直な返事だった。
アレクサンダーがトビアスを見ると、彼も同じことを考えたらしく、少しだけ苦笑している。
「読む資料は、僕が先に選別しますよ。セレスティーナ嬢には魔術的な記述を中心に確認してもらいます」
「……そうしてくれ」
「何か問題がございましたか?」
セレスティーナが不思議そうに尋ねた。
「いや。今回は時間が限られているから、役割を分けた方がいいという話だ」
「なるほど。確かに、その方が効率的でございますね」
セレスティーナは納得したように頷いた。
その隣で、ミアが小さく笑った。
「セラ様、楽しみなんですね」
「はい。王城の古い資料は、学院の図書室にはないものも多いと伺いましたので」
「いいものが見つかるといいですね」
「はい」
ミアは微笑んだあと、アレクサンダーへ視線を移した。
「私は、今回はお留守番ですね」
「悪いな。古文献保管室は人数の制限が厳しいんだ。必要な記述が見つかれば、あとで必ず確認してもらう」
「分かっています。私も、五月のときのことをもう少し整理しておきますね」
「頼む」
ジークバルトも頷いた。
「俺は騎士科の訓練がある。何か現地で確認することが出てきたら声をかけてくれ」
「ああ。そのときは頼りにしている」
五人で集めた情報を、三人が王城へ持っていく。
そうして、次の調査の日程が決まった。
*
王城の書庫は、宮殿の西棟にあった。
アレクサンダーにとっては幼い頃から何度も訪れた場所だったが、セレスティーナが足を踏み入れるのは久しぶりだった。王城そのものには公爵令嬢として何度も来ているものの、儀礼や謁見のために訪れる区域と、記録を保管する区域とでは、雰囲気がまるで違う。
磨かれた石の廊下を進み、重い扉を二つ抜けると、壁一面に書架が並ぶ大きな部屋へ通された。
高い窓から差し込む光が、整然と並んだ机を照らしている。書架には革表紙の本だけでなく、紐で綴じられた記録簿や、筒に収められた古い地図も並んでいた。
「こちらが、本日ご利用いただく閲覧室でございます」
案内役の文書管理官が一礼した。
年配の男性で、手には資料の一覧と鍵束を持っている。
「殿下からご申請いただいた資料のうち、通常書庫にあるものはこちらへお運びいたします。古文献保管室につきましては、午後にご案内いたします」
「よろしく頼む」
「承知いたしました。なお、古い資料には傷みの進んだものもございます。筆記具や資料の取り扱いについては、係の指示に従っていただきますようお願いいたします」
「分かっている」
アレクサンダーが答えると、管理官は三人を順に見た。
セレスティーナも丁寧に頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。何かございましたら、係の者へお申し付けください」
管理官が退出すると、トビアスはさっそく机に資料を広げた。
「まず、これまでに分かっている年代を確認しましょう」
持参した紙には、建国期から現在までの主要な出来事が書き込まれていた。
「学院にある最古の写本は、建国から百年以上経って編纂されたものです。そこには聖女が荒れた土地を鎮めたとありますが、元になった記録がどこにあるのか分からない」
「王城に残っていればいいんだが」
「そうですね。ただ、元の記録が見つからなくても、同じ時期の行政記録があれば状況を推測できます」
セレスティーナは一覧を見つめた。
「土地の異変が起きた地域と、その後に魔物が増えた地域を照らし合わせるのですね」
「ええ。必ずしも同じ場所とは限りませんが、何か関係があるかもしれません」
「それでしたら、魔術師の派遣記録も確認できるとよいですね」
「派遣記録ですか?」
「はい。もし当時も魔力の異常が起きていたのであれば、聖女様だけでなく、魔術師が調査に向かった可能性もございます。現象を鎮められなかったとしても、何か観測した記録が残っているかもしれません」
トビアスは少し考え、一覧の余白に書き加えた。
「確かに。魔術師団の古い記録も確認しましょう」
「では、俺は土地と村の記録を見る。トビアスは年代と派遣記録、セレスティーナは魔術に関する文献を頼む」
「承知いたしました」
三人はそれぞれの資料に向かった。
最初の一時間ほどは、ほとんど会話がなかった。
紙をめくる音と、筆記具が走る音だけが、静かな閲覧室に響いている。
セレスティーナの前には、古い魔術書が三冊置かれていた。
一冊目は、魔力を地中へ流す術式についての研究書だった。地属性の魔術師が土壌へ魔力を通し、地盤の状態を探る方法が記されている。
二冊目は、魔物の発生と土地の魔力濃度についての考察だった。特定の場所に魔力が滞留すると、そこに生息する動植物へ影響が出るという記述がある。
どちらも、現在の魔術理論と大きくは変わらない。
問題は三冊目だった。
セレスティーナは頁をめくる手を止めた。
そこには、魔力の流れを水路にたとえた図が描かれていた。
地中を走る複数の線が、一か所で合流している。合流点の近くには、小さな円がいくつも描かれ、脇には古い文字で注釈が添えられていた。
セレスティーナは注釈を読み、もう一度図を確かめた。
「……魔力の滞留」
小さく呟く。
現在使われている言葉とは少し違うが、意味は近い。
魔力が流れず、一か所に留まる。
それが周囲へ漏れ出すと、土地や生物へ影響を与える。
五月に見た現象と、よく似ていた。
「トビアス様」
声をかけると、トビアスが顔を上げた。
「何か見つかりましたか?」
「はい。こちらをご覧いただけますか」
トビアスが席を移し、図を覗き込んだ。
「……地中の魔力の流れを描いたものですね」
「はい。こちらの注釈には、流れが塞がれると周囲に力が溜まるとあります」
「なるほど。五月の森で起きていたことに似ていますね」
「そう思います。ただ……」
セレスティーナは別の箇所を指さした。
「こちらには、溜まった魔力を外へ逃がす方法についても書かれているようなのです」
トビアスは身を寄せた。
「読めますか?」
「少し古い表現ですが、おそらく……」
セレスティーナは慎重に文章を追った。
「流れを失った力は、より大きな流れへ戻すことが望ましい。ただし、無理に押し出せば、周囲の流れを乱すことがある……という意味だと思います」
「押し出す……」
トビアスが繰り返した。
「通常の魔術で、ということでしょうか」
「そこまでは分かりません」
セレスティーナは首を振った。
「ですが、魔力を流す方向へ働きかけるという考え方自体は、当時からあったようです」
トビアスは図を見つめた。
「五月、ミア様は滞っていた魔力を地下へ戻したと話していましたね」
「はい」
「それとは別の方法があった可能性もある」
「……そうかもしれません」
セレスティーナはもう一度、図へ目を落とした。
流れが塞がれているのなら、その先へ道を作ればよい。
水路が詰まっているなら、障害を取り除くか、別の流れを通す。
そう考えることはできる。
けれど、地下の魔力は水ではない。
目に見えるわけでも、手で触れられるわけでもない。しかも、地中のどこまで流れが続いているのか、現在の魔術では正確に捉えきれない。
「……まだ、考えただけでございますが」
セレスティーナが言うと、トビアスは顔を上げた。
「はい」
「魔力の流れが塞がれているのであれば、通常の魔術でも、そこへ働きかけることはできるのではないでしょうか」
「流れを動かす、ということですか?」
「はい。ミア様の光魔法とは違う方法で」
トビアスは少し考えた。
「理論上は、魔力そのものへ干渉できれば可能かもしれません。ただ、通常の魔術で地下の流れをどこまで動かせるのか……」
「そうですね」
セレスティーナは頷いた。
「それに、こちらの記録にも、無理に押し出すことへの注意がございます」
「では、方法を考える前に、何をどの程度動かす必要があるのか調べないといけませんね」
「はい」
二人は顔を見合わせた。
答えは、まだ見つからない。
けれど、調べるべきことが一つ増えた。
セレスティーナはそれが嬉しかった。
「……ありがとうございます、トビアス様」
「いえ。こちらこそ、よい記述を見つけていただきました」
トビアスは微笑み、手元の紙に新しい項目を書き加えた。
そのとき、少し離れた机からアレクサンダーが声をかけた。
「二人とも、こちらも見てくれ」
アレクサンダーの前には、古い地方行政の記録が広げられていた。
「建国から数十年後、北部の村で魔物が増えたという報告がある。その翌年、村の位置を少し移しているんだが……」
「魔物の被害が原因ですか?」
トビアスが尋ねる。
「それが、理由がはっきり書かれていない。『土地の不調が続くため』とあるだけだ」
セレスティーナは記録を覗き込んだ。
「……土地の不調、でございますか」
「その後、王家から魔術師が派遣されている。ただ、何をしたのかは別の記録になっているらしい」
「その記録は?」
「まだ見つかっていない」
アレクサンダーは頁の端にある番号を示した。
「管理官に確認してもらっている」
トビアスは自分の一覧を確かめた。
「年代は、こちらの写本より前ですね」
「ああ。偶然かもしれないが、調べる価値はあるだろう」
「そうですね」
セレスティーナは静かに頷いた。
土地の不調。
魔物の増加。
魔術師の派遣。
それだけでは、五月の森と同じ現象だったとは言えない。
けれど、まったく関係がないとも言い切れなかった。
三人はそれぞれの記録を突き合わせ、午後の古文献保管室で確認したい項目を整理した。
午後、三人は文書管理官に案内され、さらに奥の保管室へ向かった。
閲覧室を出て石造りの廊下を進むと、途中から窓がなくなった。壁に取り付けられた魔導灯が足元を照らし、空気にはわずかに乾いた紙と革の匂いが混じっている。
やがて、一行は鉄の補強が施された扉の前で足を止めた。
「こちらが古文献保管室でございます」
管理官は鍵束から二本の鍵を選び、順に錠を外した。
「ここに保管されている資料の多くは、保存状態の問題から通常の閲覧を制限しております。王家の機密に属する文書もございますが、本日ご案内する区画には含まれておりません」
「分かった」
「なお、殿下におかれましても、閲覧許可のない書架への立ち入りはご遠慮くださいませ」
「もちろんだ」
アレクサンダーが答えると、管理官は深く一礼して扉を開いた。
室内は思いのほか明るかった。
天井には柔らかな光を放つ魔導灯が並び、窓のない室内を均一に照らしている。壁際の書架には古い書物が並んでいたが、紙の束や巻物は木箱に収められ、それぞれに番号札が付けられていた。
中央には閲覧用の机が二つ置かれている。
「ご指定の資料はこちらに用意しております」
管理官が示した机には、厚い布の上に三つの木箱が並べられていた。
「建国期の土地に関する記録が一箱、魔術師団の派遣記録が一箱、聖女に関する古い写本が一箱でございます。ただし、いずれも完全な形では残っておりません」
「原本ですか?」
トビアスが尋ねる。
「一部は原本、一部は後世の写しでございます。成立年代については、それぞれの目録に記しております」
「ありがとうございます」
管理官は最初の箱を開けた。
中には、革の表紙が大きく傷んだ記録簿が収められていた。背表紙は失われ、頁の端もところどころ欠けている。
「こちらは建国からおよそ六十年後の地方記録でございます。保存のため、頁を開く際は係の者が補助いたします」
「承知いたしました」
セレスティーナは机のそばへ寄り、静かに書物を見つめた。
六十年後。
今から何百年も前に、誰かがこの紙へ文字を書いた。
その人は、どんな気持ちで記録を残したのだろう。
遠い時代の出来事が、こうして目の前にあることが不思議だった。
「セレスティーナ嬢?」
トビアスに呼ばれ、顔を上げる。
「はい?」
「楽しそうですね」
「……はい」
セレスティーナは少し照れたように微笑んだ。
「このような貴重な資料を、直接拝見できるとは思っておりませんでしたので」
「僕も同感です。ただ、時間が限られていますから、まずは内容を確認しましょう」
「はい」
管理官が慎重に頁を開く。
そこには、細かな文字で土地の状況が記されていた。
最初に目についたのは、村の名前と年号だった。
その下に、収穫量や人口、家畜の数が並んでいる。
「……これは、徴税のための記録でしょうか」
トビアスが尋ねると、管理官が頷いた。
「そのように考えられております。もっとも、途中から記載の形式が変わっておりますので、同じ目的で作成されたものかは不明でございます」
アレクサンダーは頁を追った。
「北部の村……午前中に見た記録と、地名が一致するな」
「本当ですね」
トビアスが身を寄せた。
数頁先には、村の移転に関する記述があった。
『北の丘より住民を移し、旧地への立ち入りを控えさせる』
その下には、理由らしい短い文章が続いていた。
『夜間、地より青白き靄の立つことあり。獣の性荒く、畑の作物に異変を認む』
「……青白い靄?」
アレクサンダーが眉を寄せた。
「五月の森では、そんなものは見なかったな」
「はい。ただ、魔力が濃くなったときに、光のように見える現象はございます」
セレスティーナが答える。
「ですが、それだけでは魔力の異常と断定できません」
「そうだな」
トビアスは記録の続きを確認した。
「ここに、魔術師が派遣されたとありますね」
「何をしたんだ?」
「……残念ながら、その先が欠けています」
頁の下半分は失われていた。
残っているのは、魔術師団から三名が派遣されたという記述だけだった。
アレクサンダーは小さく息をついた。
「肝心なところがないか」
「ただ、村が移転した理由は少し具体的になりました」
トビアスは記録を見つめた。
「作物の異変、獣の凶暴化、地表に現れる何らかの現象。今回の三か所でも、同じような報告がないか確認できます」
「そうだな。少なくとも、比較する項目は増えた」
セレスティーナは静かに頷いた。
五月の森では、魔力に触れた小動物が魔物へ変じていた。
もし、この村でも同じことが起きていたのなら。
けれど、古い記録に書かれた獣の異変が、本当に魔物化を意味していたかは分からない。
セレスティーナはその違いを手元の紙に書き留めた。
「……こちらは、可能性として記録しておきます」
「ああ。断定は避けよう」
アレクサンダーは頷いた。
続いて、魔術師団の派遣記録が開かれた。
こちらは比較的保存状態がよく、複数の年月日にわたる記述が残っていた。
トビアスは最初の頁を読み、すぐに顔を上げた。
「殿下。先ほどの村への派遣と、日付が一致します」
「本当か?」
「はい。派遣人数も三名です」
三人は記録を覗き込んだ。
そこには、派遣された魔術師の名前と、使用した術式の種類が記されていた。
地属性による地盤調査。
水属性による地下水の確認。
そして、魔力の異常な集中を緩和するための術式。
「……魔力の集中を緩和」
セレスティーナは、その一節で指を止めた。
「こちらは、どのような術式なのでしょうか」
「詳しい説明はありますか?」
トビアスが尋ねる。
セレスティーナは続きを読んだ。
「……周辺の魔力を分散させ、地表への影響を抑える、とございます」
「学院の資料室で見た方法ですね」
「はい」
魔力溜まりを周囲へ分散させる。
それは、五月にミアが行ったこととは異なる可能性があると、すでに話し合っていた方法だった。
記録によれば、派遣された魔術師たちは数日にわたって術式を使用したらしい。
しかし、その後の記述は短かった。
『地表の異変、一時鎮まる。七日後、再び認む』
「……戻ったのか」
アレクサンダーが呟いた。
「はい」
トビアスは次の頁を確認した。
「その後、再度術式を使用したようですが……結果は同じですね」
「何度も繰り返したのか?」
「少なくとも、三回は」
記録はそこで途切れていた。
村の移転が決まったのは、その翌月だった。
しばらく、三人は黙っていた。
セレスティーナは記録を見つめた。
魔力を分散させれば、一時的には地表の濃度を下げられる。
けれど、地下で何かが起き続けているなら、また溜まってしまう。
それは、水が流れ込む場所から、溜まった水だけを汲み出すようなものなのかもしれない。
「……トビアス様」
「はい」
「こちらの術式では、魔力が集まる原因には働きかけていないように思えます」
「そうですね」
トビアスは頷いた。
「地表への影響を抑えることが目的だったのでしょう」
「はい。ですが、もし地下の流れそのものが滞っていたのなら……」
セレスティーナは言葉を切った。
五月の森で、ミアが光を使ったときのことを思い出す。
地中へ戻っていく魔力。
静かになった森。
元の小動物へ戻った魔物たち。
あれは、溜まった魔力を単に散らしたのではなかった。
少なくとも、ミア自身はそう感じていた。
「……ミア様がなさったことは、やはり別の働きなのかもしれません」
トビアスは静かに頷いた。
「ただ、これで一つ分かったことがありますね」
「何だ?」
アレクサンダーが尋ねる。
「魔力を分散させるだけでは、異常が再発する場合があるということです。少なくとも、この記録ではそうなっています」
「なるほど」
「今回の三か所についても、濃度を下げるだけで解決したと判断するのは危険でしょう」
アレクサンダーは考え込んだ。
現在、魔の森周辺では騎士団と魔術師が巡回を続けている。
明確な被害はまだ確認されていない。
それでも、もし同じような現象が繰り返されるなら、監視だけで済むとは限らなかった。
「……この記録は、父上にも報告しておこう」
「はい」
トビアスが頷いた。
「ただし、今回の現象と同じものだったかは、まだ分かりません」
「分かっている。そこは区別して伝える」
アレクサンダーはそう答えた。
最後に開かれたのは、建国の聖女に関する古い写本だった。
革表紙には題名がなく、最初の数頁も失われていた。残っている部分には、聖女が各地を巡り、荒れた土地を鎮めたという記述が続いている。
ただし、後世の歴史書に見られるような華やかな表現は少なかった。
土地の状態。
同行した者の数。
移動した日付。
そして、聖女が力を使った場所。
淡々とした記録の中に、ときおり短い文章が挟まれていた。
『地の底に滞る力、聖女の光により再び巡る』
セレスティーナは、その一節を静かに読んだ。
「……再び巡る」
トビアスも顔を上げた。
「学院で見た伝承より、具体的な表現ですね」
「はい」
セレスティーナは頷いた。
「ただ、こちらも後世の写本でございます。実際にそのような現象が観測されたのか、それとも伝承の表現なのかは……」
「分かりませんね」
トビアスが続けた。
アレクサンダーは記録の年代を確認した。
「それでも、聖女が土地の異変を鎮めたという話は、かなり古い時代から残っていたわけだな」
「はい。少なくとも、後の時代に突然作られた話ではなさそうです」
セレスティーナは次の頁へ目を移した。
そこには、聖女が訪れた土地の一つについて、少し長い記述があった。
『地の力、満ちて溢れ、草木は異形を示す。聖女これを鎮め、力は再び地の底へ還る』
その下に、別の筆跡で短い注釈が添えられている。
『術師ら、力をもって鎮めんとするも、果たせず』
「……あら」
セレスティーナは小さく声を上げた。
「どうしました?」
トビアスが尋ねる。
「こちらの注釈でございます」
二人が覗き込む。
「術師ら、力をもって鎮めんとするも、果たせず……」
アレクサンダーが読み上げた。
「魔術師が何か試したということか?」
「そのようにも読めます」
セレスティーナは答えた。
「ただ、どのような方法だったのかは分かりません」
「魔力を分散させようとしたのかもしれませんし、別の術式かもしれませんね」
トビアスは注釈を確かめた。
「しかも、本文とは筆跡が違います。いつ書き加えられたものかも確認が必要です」
「そうですね」
セレスティーナは頷いた。
けれど、胸の奥に小さな疑問が残った。
力をもって鎮める。
それは、どのような意味なのだろう。
魔力を周囲へ散らすのではなく、滞った場所へ直接働きかけることはできないのだろうか。
地下の流れが塞がれているのなら、そこへ魔力を通す。
通常の魔術師でも、十分な魔力を適切な方向へ送り込めば、何か変化を起こせるのではないか。
もちろん、今の段階では想像にすぎない。
どこに流れがあるのかも、どれほどの魔力が必要なのかも分からない。下手に力を加えれば、かえって周囲へ魔力を溢れさせてしまう可能性もある。
それでも。
「……殿下」
セレスティーナは顔を上げた。
「一つ、考えてみたいことがございます」
「何だ?」
「魔力の流れが滞っているのであれば、通常の魔術でも、その流れへ働きかけられるのではないでしょうか」
アレクサンダーは少し考えた。
「……ミアの光を使わずに、ということか?」
「はい」
セレスティーナは頷いた。
「もちろん、同じことができるとは限りません。ですが、魔力そのものへ干渉する方法があるのなら、流れを動かすことも、まったく不可能ではないように思えるのです」
トビアスは記録へ目を落とした。
「通常の魔術で、自然魔力の流れを動かす……」
「はい」
「それには、かなり精密な制御が必要になりそうですね」
「そう思います」
「それに、流れがどちらへ向かうべきなのか分からなければ、押し出す方向も決められません」
「……はい」
セレスティーナは少し考えた。
「ミア様は、光を使われたときに、魔力が本来の流れへ戻ったように感じられたとおっしゃっていました」
「ええ」
「もし、その流れを観測できれば……」
そこまで言って、セレスティーナは口を閉じた。
まだ、分からないことが多すぎる。
ミアの光が何をしているのかも、通常の魔術でどこまで干渉できるのかも。
それに、古い記録には、力を加えて失敗したらしい例が残っている。
「……いえ。まずは、何が起きているのかを確かめる必要がございますね」
トビアスが頷いた。
「そうですね。方法を考えるのは、そのあとです」
アレクサンダーは二人を見た。
「その考え自体は、覚えておこう。ただし、現地で勝手に試すのはなしだぞ」
「もちろんでございます」
セレスティーナはすぐに答えた。
「必要な条件を確認してからでなければ、危険でございますので」
「……分かってるならいい」
アレクサンダーは頷いた。
トビアスはその横で、少しだけ笑っていた。
「何だ?」
「いえ。セレスティーナ嬢が、きちんと検証の必要性を考えていらっしゃるので」
「……そうだな」
アレクサンダーもわずかに笑った。
以前なら、できると思ったことを、すぐに自分で試そうとしたかもしれない。
けれど今は、分からないことを分からないままにして、次の調査へつなげようとしている。
それは、少なくとも彼らにとって、安心できる変化だった。
そのとき、管理官が静かに声をかけた。
「殿下。そろそろ、本日の閲覧終了時刻でございます」
アレクサンダーは時計を確かめた。
「もうそんな時間か」
「はい。資料の保存処置もございますので、恐れ入りますが……」
「分かった。今日はここまでにしよう」
トビアスはすぐに筆記具を置いた。
セレスティーナも手元の写本を見つめたあと、静かに頷いた。
「……承知いたしました」
「何か、まだ気になるところがあるのか?」
アレクサンダーが尋ねる。
「はい。こちらの注釈について、もう少し調べてみたいと思いまして」
「それなら、また申請しよう。必要な部分は控えただろう?」
「はい」
「じゃあ、続きは次回だ」
セレスティーナは少しだけ残念そうに写本を見た。
けれど、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……そうでございますね。ありがとうございます」
三人は資料を管理官へ返却し、閲覧室をあとにした。
王城の廊下へ戻ると、窓の外には夕方の光が差し込んでいた。
一日中書物を読んでいたせいか、トビアスは肩を軽く回した。
「さすがに、少し疲れましたね」
「そうだな。思った以上に細かい文字が多かった」
アレクサンダーも頷く。
セレスティーナは二人を見た。
「……お疲れでございますか?」
「少しな。お前は?」
「わたくしは、まだ大丈夫でございます」
そう答えてから、セレスティーナは少し考えた。
確かに、まだ頭はよく働く。
けれど、長い時間座っていたせいか、立ち上がったときに少し足が重かった。
「……ですが、今日はたくさん読ませていただきましたので、そろそろ休憩した方がよいのかもしれません」
アレクサンダーは足を止めた。
「……そうだな」
少し驚いたような顔をしている。
セレスティーナは不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「いや。何でもない」
アレクサンダーは笑った。
「それなら、帰る前に少し休んでいこう」
「はい」
三人は王城の小さな控室へ向かった。
用意されたお茶を飲みながら、今日見つかった記録を整理する。
北部の村で起きた土地の異変。
魔力を分散させても再発したという古い報告。
聖女の光によって、地中の力が再び巡ったという伝承。
そして、通常の魔術で流れへ働きかけられるかもしれないという、まだ形にならない考え。
どれも、答えには程遠かった。
それでも、学院の資料だけでは見えなかったものが、少しずつつながり始めていた。
「……次は、ミアにも確認してもらおう」
アレクサンダーが言った。
「そうですね」
トビアスが頷く。
「五月のときの感覚と、今日の記録を照らし合わせたいです」
「はい」
セレスティーナも微笑んだ。
「ミア様のお話を、改めて伺いたいです」
窓の外では、夏の夕日が王城の屋根を照らしていた。
古い記録に残された、地の底を巡る力。
それが本当に存在するのなら、五月の森でミアが鎮めたものも、魔の森周辺で新たに見つかった異常も、同じ仕組みで起きているのかもしれない。
そして、もしそうなら。
聖女だけに頼らず、その流れを正す方法はあるのだろうか。
セレスティーナは温かい茶杯を両手で包みながら、静かに考えていた。
答えはまだ、どの書物にも書かれていない。
だからこそ、もう少し調べてみたい。
そう思えることが、今はとても嬉しかった。




