10-8 夢に描かれなかったこと
翌日は、学院祭の後の休講日だった。
セレスティーナが目を覚ましたときには、いつもより遅い時刻になっていた。身体を起こすと、昨日ほどの息苦しさはない。手も震えていなかったが、寝台から下ろした脚には、まだ重さが残っていた。
エマに支度を手伝ってもらい、朝食をいただく。椅子へ座っている間は、普段とあまり変わらない。スプーンも、口元まで持ち上がる。
少し安心して立ち上がり、窓のそばで外を見ていると、膝に細かな震えが来た。
「お嬢様、座ってください」
エマがすぐに椅子を寄せる。
「痛みは、ございませんが」
「痛くなくても、まだお疲れなのです」
昨日も、同じようなことを言われた気がした。セレスティーナは椅子へ戻り、膝の上へ手を置く。座ってしまうと、震えはすぐに分からなくなった。
昼には、四人がラウンジで待っているという。長く立ったり歩いたりしなければ構わないと、医師にも許可をもらっていた。
エマは出かける前に、靴を替えてくれた。踵へ当たるところの柔らかい、平たい靴だった。
「昨日のものは、しばらくお履きにならないでくださいね」
「はい」
セレスティーナは足元を見た。傷は、もうない。けれど、あの靴を見たとき、ミアもアレクサンダーも、ひどく驚いていた。
今度は、途中で確かめた方がよいのだろう。
そう覚えてから、エマへ頷いた。
ラウンジへ着くと、ミアがすぐに立ち上がった。
「セラ様、こちらです。今日は、座っていてくださいね」
窓に近い椅子へ案内される。茶も、すでに用意されていた。セレスティーナが礼を言って腰を下ろすと、向かいのアレクサンダーが足元へ目を向ける。
「脚は?」
「少し重く感じますが、痛みはございません」
「歩くとふらつきますか?」
トビアスにも聞かれ、セレスティーナは少し考えた。
「歩いている間は、それほどではございません。ただ、しばらく立っておりますと、膝が……」
「じゃあ、今日は立つ用事を減らそう」
ジークバルトが言った。
「ここなら、食事も話も座ったままで済むしな」
ミアが頷き、皿をこちらへ寄せる。昼食も、ラウンジでいただけるよう手配してくれていた。温かいスープと、柔らかく煮た肉が少し。パンも、初めから小さく切ってある。
セレスティーナは皿を見てから、四人へ目を向けた。
「お手数をおかけいたしました」
「ついでだよ。俺たちも食べるんだから」
アレクサンダーが自分の皿を引き寄せる。ミアもスプーンを取り、その隣へ座った。
昨日の昼には、こうして皆と食事をするはずだった。
今は、五人ともここにいる。そのことを確かめながら、セレスティーナもスープを一口いただいた。
食べ始めてしばらくすると、アレクサンダーが昨日のことを話した。
捕らわれていた人々は、全員助け出された。弱っていた者は引き続き治療を受けているが、ノエルとコレットには、大きな怪我もない。二人とも寮へ戻り、今朝も食事を摂れたという。
「ほかの方々も、よくなられるでしょうか」
「すぐに全員、というわけにはいかないと思う。でも、治療は受けられているよ」
トビアスが答えた。
「家族への連絡も、騎士の方で進めています。昨日のうちに、学院からそれぞれの家へ知らせたそうです」
セレスティーナは頷いた。地下に重なっていた、弱い生気を思い出す。あそこから出られたのなら、食事も、水も、いただける。
ミアがそっと口を開いた。
「昨日、私がお手伝いした方も、途中で目を開けてくださったんです。お水が欲しいって、仰って」
「……そうでしたか」
「はい。ですから、間に合ったんだと思います」
桜色の瞳が、こちらを見ていた。セレスティーナは少し息を吐き、手元の皿へ目を落とした。
あの場で何をするのが一番よかったのかは、今も分からない。
けれど、助けることはできたらしい。
アレクサンダーは、捕らえた男たちからも事情を聞いていると続けた。
「今のところ、ミアを狙ってたわけじゃなさそうだ」
セレスティーナは顔を上げた。
「そうなのですか?」
「聖女を連れてこいって話は、出てない。制服を着た若い女なら、貴族の子だと分かるから、連れていこうとしたらしい」
ミアが、膝の上へ視線を落とした。
「では、私でなくても」
「ああ。ノエルたちの家のことも、知らなかったみたいだ」
トビアスが茶を置く。
「詳しいことは、まだ調べている途中です。ただ、僕たちは、ミアが狙われる理由があると考えていました。相手はそこまで知らなかった可能性があります」
セレスティーナは、夢の中の馬車を思い浮かべた。
大きく描かれたミアの顔。口を覆った手。その向こうに、男の表情は見えなかった。
ミアが攫われたことは知っていた。けれど、なぜその人たちが、そこにいたのかは知らなかった。
夢の中で、ミアは一人だった。人のいる場所を避け、学院の外れへ向かった。そこで誰かに見つかってしまったのなら、ミアでなければならない理由は、初めからなかったのかもしれない。
「……分からないことが、まだ多いのですね」
「だから、分かった分は教えてくれ」
アレクサンダーが答えた。
「昨日も、聞いてなかったら、あの伝言だけじゃ気づかなかったと思う」
セレスティーナはフォークを置いた。
「お伝えする言葉が、足りませんでした」
「騒ぎにしたくなかったのは分かるよ」
トビアスが言った。
「ただ、次は『警備について、すぐに確認していただきたい』くらいは添えてください。それなら、ほかの人に聞かれても、事情までは分からないでしょう」
「かしこまりました」
そうお伝えすればよかったのだ。
あのときには、馬車が遠ざかることと、二人の名が広まってしまうことばかり気になっていた。誰かに来ていただくためには、急いでいると分かる言葉も必要だった。
「会場へ伝えに来てくれた奴も、俺を探してたからな」
アレクサンダーが続ける。
「ちょうど隣へ呼ばれてて、すぐには会えなかったらしい」
「その後も、役目を代わってもらうのに少し時間がかかったんです」
ミアが言った。
「私たち、皆さんの前では、何もないようにしていましたから」
セレスティーナは四人へ目を向けた。
自分が会場を離れた後も、お客様は来ていたはずだった。茶も皿も運ばれ、次の発表の場所を尋ねる方もいらしただろう。
「学院祭の方は……」
「最後まで終わったよ」
トビアスが答えた。
「先生にも事情は伝えましたし、皆が交代してくれたから。君たちが戻ったと知らせが来るまでは、少し長く感じましたけど」
「申し訳ございません」
「戻ったなら、まずそれでいいです」
静かな返事だった。セレスティーナは頷き、まだ温かい茶へ手を伸ばした。
「矢印は分かったぞ」
ジークバルトが言った。
「馬でも迷わず追えた。あれは助かった」
セレスティーナはカップを置く。
「皆様に、来ていただきたくて」
「ミアが、演習と同じだってすぐ気づいたしな」
その言葉に、セレスティーナは隣を見た。
昨日、ミアが来てくれたことは分かっていた。弱っていた方々に治癒をかけていたところも、覚えている。けれど、ここへ来るまでのことは、まだ伺っていなかった。
「ミア様も、ご一緒に来てくださったのですね」
「はい。最初は、学院にいるように言われたんですけど」
「今朝、何の話をしたと思ってるんだって、言っただろ」
アレクサンダーが口を挟んだ。
「昨日の朝だよ、殿下」
トビアスに訂正され、アレクサンダーは一度口を閉じた。
「……昨日の朝、な」
ミアは少し笑ってから、セレスティーナへ向き直った。
「でも、セラ様が怪我をなさっていたら、私にもできることがあると思ったんです。騎士の方々がご一緒なら、護衛をお願いできますし」
セレスティーナの手が、卓の上で止まった。
ミアが狙われるかもしれないと、お伝えしたばかりだった。それなのに、自分が外へ出たことで、ミアまで来てくださることになったのだ。
「……危険なところへ、お越しいただいてしまって」
「一人で行ったわけではありませんよ」
ミアはすぐに答えた。
「アレク様とジークもいらっしゃいましたし、騎士の方にも守っていただいていました。先へ出ないように言われたので、ちゃんと待ちました」
「ああ。そこは、ちゃんとしてた」
アレクサンダーが答える。
「建物の前でも、安全だって確認してもらうまで入らなかったしな」
「はい」
ミアが頷く。その返事は、少し誇らしそうだった。
アレクサンダーは二人を見て、長く息を吐いた。
「助かったけどさ。二人とも、もう少し自分の身を大事にしろよ」
「ですから、私は騎士の方に守っていただいてました」
「分かってる」
「勝手に離れてもいませんし」
「それも分かってる」
分かっているのでしたら、よいのではないだろうか。
セレスティーナがそう思ったところで、アレクサンダーの目がこちらへ向いた。
「お前も、何か言いたそうだな」
「……いえ」
「いえ、って顔じゃないだろ」
セレスティーナは少し迷った。反論をしたいわけではない。けれど、何も考えずに建物へ向かったのだと思われているなら、そこは、お伝えした方がよい気がした。
「魔力の配分は、考えておりました」
アレクサンダーが黙った。
「捕らわれている方々をお守りして、外の方々を止める分を先に残して……建物の中へ、そのまま入ったわけではございませんので」
皆様が来てくださるまでは、誰にも触れられないようにする。そのために氷の結界を先に作った。地下へ下り、分からない通路を一人で進もうとはしなかった。
そこは、以前とは違うはずだった。
「確かに、正面から一人で踏み込んではいないね」
トビアスが言った。
「はい」
「建物の方がなくなったけどな」
ジークバルトが付け加える。
セレスティーナは、そちらへ顔を向けた。
「人々のいらっしゃる場所は、お守りしておりました」
「うん。見たよ」
トビアスの返事は穏やかだった。けれど、アレクサンダーは額へ手を当てている。
「考えてたのは分かった。結界も、ちゃんと残ってたし」
手を下ろし、こちらを見る。
「でも、その配分に、お前が帰ってくる分は入ってたのか?」
セレスティーナは口を閉じた。
帰りは、皆様と。
そう思っていた。目印を残したのも、最後に音を立てたのも、そのためだった。
「……皆様に、お越しいただければと」
「行ったよ」
アレクサンダーは、疲れたように答えた。
「間に合ったけど、お前、立てなかっただろ」
それは、確かにそのとおりだった。
セレスティーナが膝へ目を落とすと、ジークバルトが少し笑った。
「まあ、運ぶところまで俺たちの分になってたわけだ」
「お手数を……」
「そこはいいって。次も運べるかどうかは、そのときにならないと分からないけどな」
セレスティーナは顔を上げた。
昨日は、皆が来てくださった。けれど、いつも同じように、お任せできるとは限らない。
アレクサンダーが続けた。
「一人ずつ、何を守ったか説明されると、どっちも間違ってない気がするんだけどさ」
ミアとセレスティーナへ、順に目を向ける。
「こっちは、二人とも帰ってくるまで落ち着かないんだよ」
ミアの口元から、少し笑みが消えた。
「……はい」
セレスティーナも頷いた。
ミアが危険な場所へ来たと聞いたときには、胸の内が落ち着かなくなった。騎士に守っていただいていたと伺っても、昨日の建物を思い出してしまう。
アレクサンダーも、そのように思ってくださっていたのだろうか。
「待てなかったのかって、言おうと思ったんだけど」
アレクサンダーは茶を一口飲んだ。
「地下の人たちを見たら、まあ……分からなくもない」
セレスティーナは、弱った気配を感じたことを話した。ほとんど動かない方が何人もいて、どれほど待っていただけるか分からなかったこと。残っていた魔力では、長く持ちこたえられそうになかったこと。
先に皆を囲えば、その後で男たちが異変に気づいても、捕らわれた方々には近づけないと思った。
四人は、最後まで聞いてくれた。
「最後の音は、呼ぶためだったんですね」
ミアが尋ねる。
「はい。矢印を辿ってくださっても、建物が木々の陰にございましたので」
「あの音なら、見落としようがないな」
ジークバルトが言った。
「届いたのでしたら、よかったです」
「……届いたよ。十分すぎるくらい」
アレクサンダーの返事に、トビアスが少し口元を緩めた。
「助けられて、よかったよ」
アレクサンダーは、改めてそう言った。
「でも、お前まで動けなくなると、こっちも心配するんだぞ」
「……はい」
「靴もですよ」
ミアがそっと付け加えた。
セレスティーナは、卓の下へ視線を落とす。
「本日は、替えていただきました」
「そういう話だけじゃないんですけど」
困ったように笑われ、セレスティーナも少しだけ口元を緩めた。
食事を終え、使用人が皿を下げている頃、ラウンジの入口で声がした。
ノエルとコレットだった。
二人は入ってよいか尋ね、ミアが立ち上がると、揃ってほっとした顔になった。ジークバルトが椅子を二つ運び、トビアスが卓上の品を少し寄せる。
「セレスティーナ様、お加減はいかがですか?」
「ありがとうございます。よく休ませていただきました」
ノエルはその返事を聞いてから、ようやく腰を下ろした。コレットも隣へ座ったが、昨日より落ち着いた顔をしている。
「お二人も、お休みになれましたか?」
セレスティーナが尋ねると、ノエルは頷いた。
「はい。帰ってから、寮母さんがずっとそばにいてくれましたので」
「私もです。ちょっと怖かったので、朝まで、灯りを残してもらいました」
コレットが少し目を伏せる。ミアはその話へ頷いてから、二人の茶を頼んだ。
「お菓子も、召し上がりますか?」
「はい。……ありがとうございます」
ノエルが答える。
セレスティーナは皿へ目を向けた。木の実を使った、小さな焼き菓子があった。
「こちら、故郷でお作りになるものに似ていると、仰っていましたね」
ノエルが目を丸くした。
「覚えていてくださったのですか?」
「はい。冬にお焼きになると」
「こちらの方が、ずっと綺麗ですけれど」
ノエルが微笑んだ。
「家では、もう少し大きく作ります。焼き上がると、台所へ皆が来てしまうので」
「冬は、私も呼んでもらうの」
コレットが続ける。
「でも、行く前にノエルが少し食べてしまうのよね」
「味を確かめているのよ」
「毎回?」
ノエルが答えに困り、ミアが笑った。
セレスティーナも、つられて笑みを浮かべた。向かいで話す二人の声は、昨日、毛布の中から聞こえたものとは違う。
茶が運ばれてくると、コレットがカップへ両手を寄せた。しばらく香りを確かめ、それから菓子を一つ取る。
「学院祭は、最後までお手伝いできませんでしたけれど」
「準備は、ずっと一緒にしてくださいましたよ」
ミアが答える。
「お客様も、楽しんでいらっしゃいました」
トビアスも当日の様子を教えてくれた。新入生に花の名前を尋ねられたこと。選んだ茶が好評だったこと。用意した皿も、ほとんど予定どおり出せたこと。
「入口の花も、よく見ていく人がいたよ」
「本当ですか?」
ノエルが顔を上げた。
「うん。次の発表へ急ぐ前に、少し立ち止まっていたりしてね」
「配置、何度も変えてよかったわね」
コレットが隣を見る。
「最後まで迷っていたものね」
「コレットも、一緒に考えてくれたでしょう」
二人の顔が、少しずつ明るくなった。
昨日、午後にも戻ってきて、一緒にお客様を迎えるはずだった。予定していた一日は、途中から変わってしまった。
けれど、それまで準備してきたことまで、なくなったわけではない。二人が選んだ花も、練習した給仕も、お客様に楽しんでいただけた。
セレスティーナは茶をいただきながら、話を聞いた。
「また、お茶の時間をいただいてもよろしいでしょうか」
コレットが尋ねた。
セレスティーナは顔を上げる。
「もちろんでございます」
「では、今度はノエルが描いた庭の絵を持ってまいりますね。お話ししていた花も、分かると思います」
「私が描くことになっているのね」
ノエルが隣を見る。
「私より上手でしょう?」
「せめてお見せするお約束をする前に言ってほしいわ」
二人が笑った。
セレスティーナは、卓へ置いていた手を、そっと重ねた。
「楽しみにしております」
花の咲く季節も伺いたかった。庭へ来る鳥のことも、まだ、よく聞けていない。
お茶会の練習は、もう終わった。次に集まるときには、お客様へ何をお出しするか決めなくてもよい。教科書を開かず、花の高さを確かめる必要もなく、こうして話を聞いていてよいらしい。
「ミア様も、ご一緒に」
セレスティーナが隣を見ると、ミアはすぐに笑った。
「はい。私も、その絵、見せていただきたいです」
コレットが嬉しそうに頷く。ノエルは少し困った顔で、自分の手元を見た。
「……先に、一度描いてみますね」
「急がなくていいだろ。セレスティーナも、しばらく長く歩けないし」
アレクサンダーが言った。
「お茶をいただく分には、問題ございませんが」
「ああ。だから、ここで待ってればいい」
そう言われ、セレスティーナは椅子の背へ少し身体を預けた。
脚は重く、今日も長く歩くことはできそうになかった。けれど、座ってお話を聞くのなら、困ることは何もない。
向かいでは、ノエルが絵に描く場所を考え、コレットが、あの木も入れてほしいと言っていた。ミアもその木にどんな花が咲くのか尋ね、二人が順に答える。
セレスティーナはカップを静かに置いた。
まだ話を聞いていたくて、残っていた菓子を、もう一度小さく割った。




