10-7 また、お茶をご一緒に
アレクサンダーは、セレスティーナの肩を支えたまま、その顔を覗き込んだ。息が速い。地面についている手も、細かく震えている。
「また無茶しやがって……」
思わず出た言葉に、セレスティーナが顔を上げた。
「申し訳、ございません。少し……脚が」
「分かったから、今は喋るな」
立てないことを説明しようとしているのだろう。そんなことは、見れば分かる。
森から戻ったときには、怪我を治した後、普通に歩いていた。疲れていないかと聞けば、いつも少し考えてから返事をした。そのセレスティーナが、今は座った身体さえ、うまく支えられずにいる。
ミアが隣へ膝をついた。
「セラ様、どこか怪我をなさっていませんか?」
「……ございません」
「痛いところも?」
セレスティーナは自分の手へ目を落とし、それから小さく首を振った。
「少し、走っただけですので」
「少しって、どこからだよ」
「学院の、門からでございます」
アレクサンダーは口を閉じた。
馬で辿ってきた道が浮かぶ。幾つもの分かれ道。そのたびに残されていた、土の矢印。
印を確かめながら馬で辿って、小一時間は掛かった。
少しと言うには遠すぎる。
ミアがセレスティーナの手を取り、しばらく目を伏せた。
「魔力、ほとんど残っていませんね」
「はい」
「…変換は?」
アレクサンダーが尋ねると、セレスティーナは首を振った。
「使って、おりません」
それだけは、少し安心した。
騎士が水筒を持ってきた。セレスティーナは受け取ろうとしたが、指がうまく掛からない。アレクサンダーが代わりに持ち、口元へ寄せると、ようやく少しずつ飲んだ。
その間にも、騎士たちは崩れた建物へ入っていた。
気絶している賊と思われる者は拘束しながら、氷の囲いを開く作業が始まり、ジークバルトが地下へ続く階段を見つけた。灯りを持った騎士が下りていくと、セレスティーナの視線が、そちらへ向いた。
「下の方々が……」
「分かってる。今、助けてるから」
アレクサンダーが答えたところで、騎士から声がかかった。ミアは一度こちらを見てから立ち上がる。
「私、行ってきますね」
「ああ。頼む」
騎士に付き添われて向かう背中を、セレスティーナも見送った。
地下から運び出された人は、毛布に包まれ、ほとんど動かない者もいた。ミアがすぐにそのそばへ屈み、声をかける。手元に柔らかな光が灯った。
セレスティーナの肩が、わずかに下がった。
アレクサンダーは上着を脱いだ。近くの木の幹にもたれさせると、支えていた手を離しても、ひとまず座っていられるようになった。
その膝に上着をそっと掛ける。
「もう動くなよ」
「……はい」
今度は、立とうとしなかった。
ノエルとコレットがこちらへ来たのは、地下の人々も外へ運び出された後だった。
二人とも毛布を肩に掛けている。ミアがそのそばへ付き添い、足元の悪いところでは手を貸していた。
「セレスティーナ様」
コレットの声に、セレスティーナが顔を上げる。
「お怪我は、ございませんか?」
「私たちは……はい。聖女様に、診ていただきました」
答えながら、コレットの目がセレスティーナの膝へ下がった。土で汚れた制服と、その膝に掛けられたアレクサンダーの上着を見る。
「セレスティーナ様は」
「走りすぎて、今は立てないんだ。休ませてる」
アレクサンダーが答えると、二人の顔が曇った。
「私たちのために、ここまで……」
「見失わずに済んで、よろしゅうございました」
セレスティーナは、少しだけ微笑んだ。
コレットが唇を結ぶ。何かを言おうとして、うまく続かなかったらしい。隣で、ノエルが毛布の端を握った。
「目が覚めたら、知らない部屋にいて」
声が小さくなった。
「扉のところに、人がいたのです。何か言われたのですけれど、よく分からなくて……」
「でも、途中から氷が」
コレットが続けた。
「私たちの前に、壁ができて。あの人たちが来ようとしても、入れなくなって」
その目から、涙がこぼれた。
セレスティーナは手を伸ばしかけた。けれど、身体を前へ動かすと、支えていた腕に力が入らない。
ノエルがそれを見て、そばへ膝をついた。コレットも隣へ屈み、差し出された手を、両手で包む。
「ありがとうございます」
セレスティーナの指先が、二人の手の中へ収まった。
「……お戻りになれますから」
ゆっくりと、言葉を続ける。
「また、お話を伺えますね」
ノエルが頷いた。コレットも頷いたが、返事はまだ声にならなかった。
アレクサンダーは、少し離れたところで馬車の手配を確かめる騎士へ目を向けた。
早く帰してやりたかった。本当なら三人とも、今頃は学院で茶を飲みながら、花の置き方を相談していたはずなのだ。
今日、こんな場所にいる必要など、なかった。
馬車が到着する頃には、セレスティーナの呼吸も少し落ち着いていた。
水を飲み、騎士から渡された非常用の栄養食を小さく割って食べた。両手で水筒を持てるようになったのを見て、アレクサンダーもようやく、少し息をつけた。
「立てるか?」
尋ねると、セレスティーナは膝へ手を置いた。少し力を込めてから、そのまま動きを止める。
「……お手を、お借りしてもよろしいでしょうか」
「手だけじゃ無理だろ」
近くへ来ていたジークバルトが屈んだ。
「今日は運ばれてくれ。ここまで走った分、帰りは俺たちの仕事でいいだろ」
セレスティーナは一度、馬車までの距離を見た。それから、素直に頷いた。
「お願いいたします」
ジークバルトが背と膝の裏へ腕を入れ、抱き上げる。
そのとき、足元から靴が片方落ちた。
軽い音がして、土の上へ転がる。ミアが拾おうと屈みかけ、そのまま動きを止めた。
「……セラ様?」
アレクサンダーも、視線を下げた。
靴の脱げた足の踵が、赤かった。
薄い靴下へ血が滲み、踵を包むところに広がっている。落ちた靴の内側にも、同じ色がついていた。
「お前、怪我はないって――」
「ジーク、そのまま待ってください」
ミアの声が少し高くなった。ジークバルトも足元を見て、眉を寄せる。
セレスティーナだけが、遅れて自分の足へ目を向けた。
「……まあ」
「まあ、じゃないだろ」
アレクサンダーが言う間に、ミアが踵を確かめていた。靴下をそっとずらし、傷を見たところで、詰めていた息を吐く。
「靴擦れだと思います。皮が剥けてしまって酷い状態ですけど、深い傷ではありません」
「……靴擦れか」
ジークバルトが呟いた。
アレクサンダーも、肩の力を抜いた。血のついた靴を見たときには、どこで傷めたのかと肝が冷えたが、確かに、踵の一部分だけだった。
ただ、その一部分が、随分と擦れている。
「痛くなかったのか?」
セレスティーナは、少し考えた。
「脚が重くて……足先のことは、よく分かりませんでした」
ミアがもう片方も確かめる。靴を脱ぐと滴るほどではないが、血に濡れているのが分かる。
「この靴で、ずっと走っていらしたんですものね」
踵へ添えた手から、光が広がった。
傷が塞がると、ミアは靴下を整え、顔を上げた。
血で濡れているとはいえ、令嬢が外で素足を晒すのは、あまりよくないはずだ。
「もう大丈夫です。でも、歩かなくていいですからね」
「はい。ありがとうございます」
「ほかに痛いところがあったら、帰ってからでも教えてください」
セレスティーナが頷いた。
ジークバルトは抱え直し、馬車へ向かった。ミアが先に乗って座る場所を整え、アレクサンダーは片方の靴を拾った。
踵の内側に、擦り付けたような血の跡が残っていた。
学院で履いていたときには、何とも思わなかった靴だった。これで馬車を追い、あの道を、ここまで走った。
アレクサンダーは靴を持ったまま、馬車へ乗り込んだ。
目立たないよう裏から学院へ戻る。あらかじめ手配されていたのであろう。普段生徒が入らない部屋が整えられ、医師が控えていた。
セレスティーナは椅子へ降ろされて座り、呼吸と脈を確かめられた。踵はミアの治癒で傷が塞がっていたが、ほかにも擦れたり、痛めたりしたところがないか、改めて診てもらう。
大きな怪我はなかった。
身体強化を使って長く走り、その後も魔術を使ったことによる消耗が大きいという。今日は食べられるものを少しずつ摂り、水分を補い、そのまま休むように言われた。
「歩けるかどうか、何度も試さなくて結構です」
医師に言われ、セレスティーナは膝へ置いていた手を止めた。
「……かしこまりました」
隣で、ミアが小さく息をついた。
診察が終わると、ジークバルトが目の前へ屈んだ。
「じゃあ、寮まで送るぞ」
「ですが、先ほどよりは……」
「立てるようになったら、次は寮まで歩けるか試すのか?」
そう尋ねられると、返事に困った。立ってみなければ分からないが、試さなくてよいと、今、言われたばかりだった。
「今日は、もう運んでもらってください」
ミアにも言われ、セレスティーナは差し出された腕へ目を落とした。
「……お手数をおかけいたします」
「ああ。任せてくれ」
また抱き上げられると、脚から重みが抜けた。自分で支えなくてよいのは、確かに楽だった。
それでも、廊下を進む間には、何度か顔を上げてしまう。
「もう、こちらで――」
「入口までだろ。あと少しだから」
ジークバルトは歩みを緩めなかった。隣を歩くミアが、セレスティーナの膝に掛かった上着を直してくれる。
結局、そのまま寮の入口まで運んでもらった。
待っていたエマは、セレスティーナの姿を見て、少しだけ眉を寄せた。すぐにジークバルトへ礼を言い、そばへ来て腕を差し出す。
「お嬢様、お立ちになれますか?」
「はい」
地面へ下ろしてもらうと、膝に力が入りにくかった。セレスティーナはエマの腕へ手を添え、身体を支えるために、わずかに魔力を巡らせた。
「……少々、強化を使わせていただきます。お部屋へ戻るまでだけでございますので」
アレクサンダーの目が足元へ下がった。それからエマを見て、口を開く。
「部屋に着いたら、すぐ休ませてくれ」
「承知いたしました」
エマはセレスティーナの背へ手を添えた。
「皆様、ありがとうございました」
振り返って礼を言うと、ミアが小さく手を振った。
「今日は、もう寝てくださいね。お話は、明日聞きますから」
「はい」
返事をして、エマとともに室内へ入った。
部屋までの道は、いつもより長く感じられた。脚は動く。けれど、足元から目を離すと、どこへ下ろせばよいのか、少し考えなければならなかった。
エマは歩く速さを合わせ、途中でも急かさなかった。
先に身支度をとそのまま浴室へ行き、座ったまま簡単に身体を流してもらう。
「お寒くなければ、お湯に浸かるのはお疲れになるかと思います」
エマに声をかけられてセレスティーナも頷いた。
医師にも早めに休むように言われている。
汗と砂埃を流してもらうだけで、随分とすっきりする。
そのまま寝衣を着せられた。
「もう、寝台へ参りましょう」
身なりが整うと、エマが手を差し出した。
数歩だけ移動し、寝台の端へ腰を下ろす。そこで身体強化を切ると、全身が急に重くなった。掛け布の上へ置いた手にも、少し力が入りにくい。
エマは背へクッションを当て、すぐに食事を運んできた。
小さな卓へ置かれたのは、魚のすり身と野菜を柔らかく煮たスープだった。添えられたパンも、小さく切ってある。
「こちらで、お召し上がりください」
セレスティーナは、寝台と食事を交互に見た。
「……食卓まででしたら、参れますが」
「今日は、こちらで結構です」
「そこまで、病人のようにしていただかなくても……」
首を傾げると、エマはスプーンを渡しかけた手を止めた。
「足が血まみれになるまで走られたと、伺いましたよ」
「靴擦れでございます。ミア様に、治していただきましたので」
「ええ。傷は治っているそうですね」
エマはスプーンを、そっと手へ持たせた。
「では、こちらを召し上がってください。温かいうちに」
セレスティーナは頷いた。
スープは、口へ運ぶとほのかに魚の味がした。柔らかい野菜も、ほとんど噛まずにいただける。喉を通った温かさに、ようやく少し落ち着いた気がした。
エマがそばで、飲み物を用意している。
一口ずつ食べ進めた。半分ほど口に運んだところで、なぜかスプーンを持ち上げるのに時間がかかるようになった。
もう一度、皿へ下ろす。すくうところまではできたが、口元へ運ぼうとすると、重さで腕が途中で止まった。
セレスティーナは自分の手を見た。
少し、待てば。
そう思っていると、エマが小さくため息をついた。
「お嬢様」
「……申し訳ございません。少し、腕が」
「一度お休みした方が良いと思いますよ」
スプーンを受け取られ、皿が遠ざけられた。まだ残っていると目で追ったが、エマはそのまま卓を脇へ寄せる。
「お水を、少しだけ」
支えてもらったカップから、二口ほど飲んだ。
その後は、背中のクッションも外された。エマの手に支えられて横になると、脚を寝台へ上げてもらう。自分でも動かそうとしたが、手伝ってもらった方が、ずっと早かった。
掛け布が胸元まで引き上げられる。
「お休みください」
「……はい」
窓からは、僅かに夕焼けの光が残っているのが分かる。いつもなら、寮に戻ってその日の復習をしているような時間のはずだ。
まだ、随分と早いのに。
ぼんやりとそう思った。エマへ何か伝えたいことがあった気もしたが、言葉になる前に、瞼が下りた。
次に目を開けたときには、部屋は暗かった。
小さな灯りを持ったエマがセレスティーナの顔を覗き込んでいる。
「申し訳ありません。起こしてしまいましたか?」
「…いえ…」
セレスティーナはぼんやりと答えた。
身体が寝台に沈み込むようだ。
水を飲むかと聞かれ、頷いた。
医師にもアレクサンダーにも何度も勧められた。
起き上がるのを手伝ってもらい、グラスに半分ほど水を飲んだ。
「……」
中身が減ったはずなのに、なぜか重みを増したように思えるグラスを手に、もう少し飲むべきかと考えていたら、エマがそのグラスをそっととりあげた。
「…あ……」
「もう少し横になってください」
「…はい…」
促されてまた身体を横たえた。
頭があまり動かない。
水をたくさん飲んだ方がいいのではなかったか。
いつもよりもずっと寝ているはずだとも思う。
もっと何かした方がいい気がする。
それなのに、瞼が自然と落ちていく。
「…おやすみなさいませ」
エマの声が、ぼんやりと聞こえた。
天蓋をそっと下ろしてエマは息をついた。
『小さな子を見るように』
と以前に聖女様に言われたことが気になって、寝る前に少し様子を見に来たらこれだ。
促せば水を飲み、横になるよう言えば従う。けれど、グラスを持ったまま手が下がっても、自分から置こうとはしなかった。
あれほど眠そうなのに、まだ何かしなければと思っているのだろうか。
足音を立てないようにそっと退室し、扉を閉める。
「…ほんと、変なお嬢様だこと」
つぶやいた言葉には、エマが自分で思うより、どこか温かい響きが残るようだった。




