10-6 片付けるまで
「学院の外?」
アレクサンダーが聞き返すと、騎士は頷いた。
「門から続く道を、二名が追っております。最初は近くまでかと思われたのですが、印はその先にもございました」
「セレスティーナは?」
「まだ、お姿は確認できておりません」
アレクサンダーは椅子の背へ置いていた手を離した。矢印を残したのなら、誰かに来てほしいのだろう。ただ学院へ戻るだけなら、そんなものは必要ない。
「どれくらい先まで行った?」
騎士が答えた距離を聞いて、ジークバルトが眉を上げた。
「歩いて、そこまで?」
「足跡らしいものもございます。途中で馬車へ乗られた可能性も考えておりますが――」
「身体強化だ」
アレクサンダーが言うと、部屋が静かになった。
森の中で、セレスティーナは自分たちより早く動きながら魔物と戦っていたことがあった。重いドレスを着たプロムの日にも、何事もないような顔で使っていた。
走るために使えば。
「セラ様、演習でも、ほとんど息が上がっていませんでした」
ミアが言った。
「その後、お休みにはなっていましたけど……」
アレクサンダーは騎士へ向き直った。
「馬を用意してくれ。徒歩で探す距離じゃない可能性が高い」
「かしこまりました。追跡の者にも、すぐに知らせます」
騎士が出ていくと、アレクサンダーは扉へ向かった。
「俺が出る。ジーク、来てくれ」
「ああ」
「トビアス、後を頼む」
トビアスは、すぐには頷かなかった。
「殿下までいなくなれば、先生にも説明が必要です」
「警備の確認で出るって伝えてくれ。戻るまで、客の方は任せる」
「分かりました。ただ、何があったか分かり次第、こちらにも知らせてください」
「ああ」
返事をすると、トビアスは手帳を開いた。交代を頼める生徒の名を確かめ、教師へ何を伝えるかを短く整理していく。
その横で、ミアが立ち上がった。
「私も行きます」
アレクサンダーは振り返った。
「お前はここにいろ」
「でも、セラ様が怪我をなさっていたら」
「だからって、お前まで連れていけるか。今朝、何の話をしたと思ってるんだよ」
少し強い声になった。ミアは口を閉じたが、席へは戻らなかった。
「一人で行こうとは、言っていません」
膝の横へ下ろした手を、ぎゅっと握る。
「騎士の方も、ご一緒なんですよね。アレク様とジークもいらっしゃいますし、私は勝手に離れません」
「それでも、何があるか分からないだろ」
「はい。だから、私にもできることがあるかもしれません」
桜色の瞳が、こちらを見ていた。
「セラ様だけでなく、ほかにも怪我をしている方がいらしたら。戻ってきていただくまで、何もできないのは……」
言葉が途切れた。
アレクサンダーは、今朝聞いた夢を思い出した。閉じ込められていたのは、ミアだけではなかったという。
セレスティーナが何を見つけたのか、まだ分からない。けれど、用事の内容を告げられないまま走り出したのなら、少なくとも、ゆっくり戻って説明できる事情ではなかったはずだ。
「殿下」
トビアスが、手帳から顔を上げた。
「騎士の護衛をつけられるなら、治癒のできる者がいた方がよいのは確かです。ミアを狙う相手がいる可能性も、先に伝えておくべきですが」
アレクサンダーは、ミアへ目を戻した。
「絶対、先へ出るなよ」
「はい」
「何か見つけても、一人で近づくな。俺か、騎士の側にいろ」
「分かりました」
すぐに返事があった。それでもまだ落ち着かず、アレクサンダーは一度息を吐いた。
「行くぞ」
三人が部屋を出ると、トビアスも後に続いた。廊下の先から聞こえる話し声に合わせて顔を上げ、すれ違った生徒へ、いつものように挨拶を返す。
アレクサンダーは、その横顔を一度だけ見てから、外へ向かった。
馬が揃ったのは、騎士たちの待機場所だった。
警備を預かる騎士へ事情を伝えると、すぐに一班が同行することになった。ミアはアレクサンダーと同じ馬へ乗せる。手伝われて少し恐々と鞍へ上がった彼女が、アレクサンダーの前に横向きに座る。
「…思ったより、怖いですね」
「やっぱり止めるか?」
「いいえ」
ミアはきっぱりと言った。
アレクサンダーは少し呆れながら、その身体の脇に腕を回して手綱を握る。
「しっかり捕まってろよ」
「…はい」
細い腕がアレクサンダーの服を握る。
こんな時なのに、目の前にある金の髪に、鼓動が少しだけ高まった。
アレクサンダーは息をついて言った。
「行くぞ」
少し進んで、先行した騎士に追いついた。
騎士の一人が、先ほどの報告を確かめている。
「レーヴェン公爵家のご令嬢が、ご自身の足で?」
「土の印を辿れば、途中の足跡も確かめられるそうだ」
「しかし、あの方が……」
アレクサンダーは手綱を握り直した。
「身体強化が使える。馬車を追ってる可能性もあるから、そのつもりで行ってくれ」
「承知いたしました」
門を出ると、すぐに最初の矢印が見つかった。
道の端の土が盛り上がり、先を尖らせている。急いで作ったらしく、形は少し歪んでいたが、指す方角は明確だった。
馬が角を曲がったところで、背後から声がした。
「これ……!」
ミアだった。
「演習のときと、同じです。セラ様、こうして残してくださったんです」
アレクサンダーも、地面へ目を落とした。
次の分かれ道にも、矢印があった。その先にも。
人通りのある道を抜け、家の数が減っていく。車輪の跡と、ところどころに残った小さな足跡を、先頭の騎士が確かめた。
この距離を、走ったのか。
今朝のセレスティーナの姿が浮かんだ。会場に立っていたときも、木箱を抱えたときも、いつもと同じだった。
細い手首。床へ静かに下ろされる足。
馬で進んでも、矢印はまだ続いていた。
「殿下」
横へ並んだジークバルトが、声を落とした。
「ちゃんと、俺たちが来られるようにしてるな」
「ああ」
だから、何かあったのだ。
何もなければ、ここまで来る必要はない。誰にも追ってほしくなければ、これほど分かりやすい跡は残さない。
アレクサンダーは、少し先の道を見た。
どこで待っている。
何を追っている。
もう少しで、追いつけるだろうか。
⭐︎
車輪の音が止まったとき、セレスティーナは木々の陰へ身を寄せた。
道の先に、古い建物があった。
外壁は黒ずみ、窓のいくつかには板が打ちつけられている。屋根の端も傷んでいた。人の住む家というより、使われなくなった作業場のように見えた。
馬車は、その脇へ停まっていた。
男が降り、扉を開ける。コレットの身体が引き出され、紅茶色の髪が力なく揺れた。続いてノエルも運ばれたが、二人とも、まだ目を覚ました様子はなかった。
セレスティーナは木の幹へ手を添えた。
走るのを止めても、呼吸がなかなか整わない。喉が乾いていた。脚は動くが、魔力を巡らせる前より、ずいぶん重くなっている気がした。
最後の分かれ道にも、矢印は残した。ここへ曲がるところにも、作ってある。
皆様は、来てくださる。
そう確かめてから、建物へ意識を向けた。
演習で行った探査は、見えない場所にいる人の気配を確かめるものだった。壁越しでは、近くで使ったときほど細かくは分からない。それでも、幾つもの生気があることは感じ取れた。
男たちが動いている。二人は、その奥へ運ばれていく。
さらに下にも、誰かがいた。
セレスティーナは眉を寄せ、範囲を絞った。地面より下に空間がある。その中に、人の気配が幾つも重なっていた。
弱い。
一人だけではなかった。ほとんど動かない者がいて、その近くにも、細く頼りない生気がある。
閉じられた扉。暗い部屋。床へ横になっていた人。
夢の景色が浮かんだが、今は、その頁を思い返している場合ではなかった。
皆が来るまで、お待ちいただけるだろうか。
道の方へ目を向ける。まだ、何も聞こえない。
ここまで、どれほど走ったのか分からなかった。馬車が速くなるたびに距離を詰め、気配が遠くなりかければ、さらに脚へ魔力を込めた。
残っている魔力は、多くない。
建物へ入って一人ずつ運び出すには、男たちを先に止めなければならない。地下へ下りる道も、閉じられた部屋の扉も分からなかった。
途中で魔力が尽きれば、全員のところまでは辿り着けないかもしれない。
セレスティーナは、もう一度、探査へ意識を集中した。
二人を運んだ男たちが、奥の部屋から離れる。そこにはほかにも人がいて、近くへ寄った気配があった。
地下の人々は、ほとんど場所を変えていない。
今なら、捕らわれた方々だけを囲める。
セレスティーナは幹から手を離し、建物へ向けた。
地下の壁際に、水を集める。薄く広げ、凍らせて形を整えた。人々のいる空間を包むように壁を立て、頭上にも幾重かに重ねる。
内側へ冷気が入りすぎないよう、間を空けた。身体へ触れない位置を選び、崩れるものを受け止められる厚さにする。
続いて、ノエルとコレットのいる部屋にも。
遠くに作るぶん、手元で使うより意識を取られる。指先を動かしながら、囲いの中へ全員が収まっていることを確かめた。
奥の部屋で、人が動いた。
その外でも、動きが変わる。扉へ戻った男が足を止め、別の者が地下へ向かった。
異変に気づかれた。
セレスティーナは、氷の囲いを閉じた。そのすぐ外へ、人の気配が近づく。
誰かが、壁を叩いている。
あの氷を破られてはならない。人々を外へ出そうとされても、今は止めなければならなかった。
入口の方で声が上がった。
「おい、こっちもだ!」
セレスティーナが扉へ張った氷に、男が手をかける。馬車のそばにいた御者も顔を上げ、周囲を見回した。
残った魔力を、確かめる。
全員を守る結界は、できている。けれど、これから一人ずつ相手をして、長く持ちこたえる余裕はなかった。
皆様に、ここだと分かっていただければ。
木々に囲まれた古い建物は、道から少し外れていた。近くまで来ても、矢印を確かめなければ見落とすかもしれない。
音を。
それから、遠くからも見えるものを。
セレスティーナは木の陰から出た。
御者がこちらを見つけ、口を開く。その声が上がる前に、馬車の車輪を氷で挟んだ。入口の男が振り返り、建物の中へ何かを叫ぶ。
セレスティーナは両手を向けた。
建物の内側へ、風を集める。
氷に守られた場所を避け、通路と空いた部屋へ押し込んだ。男たちの立つ床を払い、結界から遠ざけるように流れを作る。
その中心へ、わずかな炎を重ねた。
燃え広がらせるためのものではない。風に乗せ、一瞬だけ大きく膨らませる。
氷の内側に、人々がいる。地下の弱い生気も、まだ感じられる。
そこを守ったまま、セレスティーナは集めた魔力を解き放った。
赤い光が、窓の隙間から噴き出した。
次いで、轟音が響く。
板が外へ飛び、壁が裂けた。炎が屋根より高く立ち上がり、その輪郭は、吹き抜ける風に引き延ばされる。
けれど、赤い色はすぐに薄れた。
後へ続いたのは、木材と土埃を巻き上げる風だった。屋根が持ち上がり、古い壁が外側へ崩れていく。男たちの叫びは、その音の中へ消えた。
セレスティーナは飛んでくる破片を、最後魔力で氷の壁を作り、受け止めた。
木材がぶつかる音が重なった。細かな砂が頬を打ち、視界が白くなる。
火は、残っていない。
結界も、壊れていない。
その中にいる人々の気配を確かめてから、ようやく腕を下ろした。
「…はっ、…はっ…」
息を吸おうとすると、途中でつかえた。もう一度吸い直し、口から吐く。指先を動かすと、少し震えていた。
建物のあった場所へ目を向ける。
崩れた壁の間から、氷が見えた。
今の音は、遠くまで届いただろうか。
⭐︎
轟音が響いたとき、アレクサンダーは顔を上げた。
木々の向こうで、赤い光が膨らんだ。
「あっちだ!」
手綱を引き、馬の向きを変える。先頭の騎士も音のした方を見て、すぐに道を進んだ。
炎は、もう見えなくなっていた。
代わりに、屋根より高く土埃が上がっている。枝の間から木片が飛び、その下で何かが崩れる音が続いた。
「魔術か?」
ジークバルトの声に、アレクサンダーは短く答えた。
「多分な。急ぐぞ」
最後の角にも、土の矢印があった。尖った先は、埃の上がる建物を指している。
道を抜けたところで、騎士たちが先へ出た。
「周囲を確認しろ!」
古い壁が崩れ落ち、木材と石が散らばっていた。脇に停められた馬車の車輪は、氷に挟まれている。
火の手はない。
その向こうに、銀の髪が見えた。
セレスティーナが立っていた。
制服の裾は土で汚れ、髪も肩へ乱れている。こちらへ顔を向けると、少しだけ目を見開いた。
「……殿下」
アレクサンダーは馬を止めた。
ミアを下ろし、自分も飛び降りる。駆け寄ろうとしたところで、セレスティーナが崩れた建物を指した。
「中に、捕らわれた方々が。ノエル様と、コレット様も、いらっしゃいます」
言葉の合間に、息継ぎが挟まる。
セレスティーナはそれでも言葉を続けた。
「地下にも……弱っておられる方が。結界で、お守りして、おりますので」
「分かった。もう喋るな」
アレクサンダーは、騎士へ顔を向けた。
「中の人を助けてくれ。動ける奴がいたら、先に押さえろ」
「はっ!」
ジークバルトも、騎士とともに崩れた壁を越えた。
氷の向こうで、人が身を寄せ合っている。亜麻色の髪と、紅茶色の髪が見えた。コレットがこちらを見て、何かを言おうと口を開く。
その手前には、男が倒れていた。別の男は壁の残骸にもたれ、騎士が近づいても身を起こさなかった。
ミアが一歩踏み出しかける。アレクサンダーが腕を伸ばすと、すぐに止まった。
騎士が足元と周囲を確かめてから、二人を呼ぶ。
「こちらは安全です。ご令嬢方も、意識がございます」
ミアが息を吐いた。
セレスティーナも小さく頷く。その顔には安堵が浮かんでいたが、呼吸はまだ速かった。
「セラ様」
ミアが、その腕へそっと触れた。
「もう、私たちがいますから」
「はい」
「身体強化、まだ使っていらっしゃいますよね?」
セレスティーナの視線が、自分の手へ下がる。
「……こちらを、片づけるまでは」
「片づけるのは俺たちでやる」
アレクサンダーは、目の前へ立った。
「もう走らなくていい。魔術も使うな。強化、切れ」
セレスティーナは崩れた建物を見た。騎士が氷の結界のそばに立ち、ジークバルトが倒れた男の腕を後ろへ回している。
ミアの手が、もう一度、腕へ触れた。
「大丈夫です。セラ様は、休んでください」
「……かしこまりました」
返事をして、セレスティーナが肩の力を抜いた。
次の瞬間、その膝が折れた。
「おい!」
アレクサンダーは咄嗟にその腕を掴んだ。けれど、ふらりとよろめいたセレスティーナはその場へ座り込んでしまった。
「…お前」
「……失礼、いたしました」
片手を地面へつき、立とうとする。
膝が震えた。持ち上がりかけた身体は、すぐにまた下がる。
セレスティーナは自分の脚を見て、少し不思議そうに自身の脚に触れた。息を吸い、吐く。その間隔が、少しも落ち着かない。
「セレスティーナ、もう立つな」
明らかに疲労困憊の様子にも関わらず、姿勢を整えようとする様子に、呆れたアレクサンダーが肩を支えると、セレスティーナは僅かに顔を上げた。
何かを答えようとした唇からは、言葉より先に、荒い息が漏れた。




