10-3 同じ卓に
セレスティーナが、木の衝立の向こうへ歩いていった。
ほんの数歩、離れただけだった。それなのに、姿が隠れた途端、そこに人がいる感じまで薄くなる。
ミアは衝立をじっと見つめた。向こうにいると分かっているから、まだ意識を向けていられる。何も知らずにそばを歩いていたら、そのまま通り過ぎてしまうかもしれなかった。
「レーヴェン嬢、結構です。戻ってください」
教師に呼ばれ、セレスティーナが顔を出す。銀の髪が見えた途端、ミアは少しほっとした。
今日の魔術科の授業は、野外で行動するときに役立つ魔法の演習だった。気配を薄めること、離れた相手の方向を探ること、それから、見えない場所に人がいるかを確かめること。
大きな炎や氷を出す魔法とは違う。けれど、説明を聞いていると、森でも迷宮でも、使えそうな場面がいくつも思い浮かんだ。
セレスティーナは、どれも予習してきたらしい。
教師が手順を説明すると、ほとんど迷わず魔法を使った。離れた相手の方向も正しく示し、人の存在を探る練習では、衝立の向こうに何人いるかまで答えてしまった。
「今日の課題は、そこに人がいると確かめられれば十分です」
そう言われても、セレスティーナは真剣な顔で頷いている。
十分、というところが、ミアとはずいぶん違う気がした。
ミアは、相手の方向を探る魔法で少し苦戦した。あらかじめつけた魔法の目印へ意識を向けるはずが、周囲まで探ろうとしてしまう。
右だと思ったら左にいて、近くだと思ったら、もう一枚向こうの衝立だった。
「目印をつけたときの感覚を、もう一度思い出してください」
教師に言われ、目を閉じる。
セレスティーナの手首に触れたときの、ひんやりとした肌。そのとき、指先から流した魔力。
今度は、左の少し奥に、細い引っかかりがあった。
「……こちらです」
「はい、ミア様」
返事を聞いて、すぐに目を開いた。
衝立から出てきたセレスティーナが、嬉しそうにこちらを見ている。
「今のは、分かりました!」
「合っておりましたね」
つい声が大きくなり、ミアは慌てて口元を押さえた。セレスティーナは少しも気にせず、柔らかく笑っていた。
最後には、後から来る者のために道標を残す練習をした。
土魔法で作った矢印を、曲がり角の手前へ置いていく。セレスティーナが先に出発し、ミアは少し待ってから、その跡を辿った。
木立の前、植え込みの切れ目、二枚の衝立の間。立ち止まって見回せば、ちゃんと次の矢印が見つかる。
最後の印に従って曲がると、木陰でセレスティーナが待っていた。
「迷われませんでしたか?」
「はい。すごく分かりやすかったです」
交代してミアが作った矢印は、少し太くて、先が丸くなった。それでも、セレスティーナは迷わず辿ってきてくれた。
「どちらへ進めばよいか、よく分かりましたよ」
そう言われると、不格好な印も、少し立派に見えた。
放課後、ラウンジで演習の話をすると、ジークバルトが面白そうに身を乗り出した。
「道標か。それは便利だな」
「はい。後から来る人も、同じ道を通れますから」
「ミアも作れたのか?」
アレクサンダーに聞かれ、ミアは頷いた。
「少し丸くなりましたけど、ちゃんと分かる形にはなりました」
「丸い矢印って、どんなだよ」
「先が、ちょっと丸いだけです!」
ジークバルトが笑う。セレスティーナはすぐに、とても分かりやすかったと付け加えてくれた。
気配を薄める魔法の話になると、トビアスがセレスティーナへ目を向けた。
「あなたは、そちらも問題なかったのでしょう?」
「授業で求められるところまでは。ですが、まだ難しいですね」
ミアは少し驚いた。
教師には、これ以上できなくてもよいと言われていたはずだ。セレスティーナも聞いていたのに、どこが難しかったのだろう。
「熟達した方ですと、すぐそばにいらしても、触れるまで気づかれないそうです。わたくしには、まだそこまでは」
セレスティーナは真顔だった。
トビアスは、真顔で眼鏡へ触れた。
「それは、暗殺者の技能では?」
「……そうなのでしょうか」
「少なくとも、二年次の演習で目指すところではないと思います」
アレクサンダーが額へ手をやり、ジークバルトは声を立てて笑った。
ミアも笑いながら、少し安心する。
セレスティーナが難しいと言っていたのは、自分が今日習ったことより、ずっと先の話だったらしい。
次のお茶会の練習では、いつもの白いテーブルクロスの上に、いくつもの花が並べられていた。
淡い桃色、白、黄色。小さな花器に生けられたものもあれば、まだ束になっているものもある。花があるだけで、見慣れた講義室が少し違って見えた。
「綺麗ですね……」
ミアが呟くと、隣のノエルも頷いた。肩甲骨の辺りまで伸びた髪が、ゆるく波打ちながら揺れる。
「家の庭にも、少し似た花が咲きます」
「この白いのですか?」
「はい。もう少し、小さいのですけれど」
「ノエルの家のは、道のところまでいっぱい咲くんです」
コレットが加わった。それからノエルへ顔を向け、少し声を落とす。
「あそこ、今年も咲いてるかな」
「きっと咲いてると思う。お母様、切らずに残してくださるもの」
二人だけで話すときの声は、最初に同じ卓へ座ったときより、ずっと近かった。
ミアが聞いていることに気づくと、ノエルは少し頬を染める。
「すみません。家の話ばかり」
「聞きたいです。私、そういうお花がたくさんあるところ、好きです」
コレットが嬉しそうに笑った。
「それでしたら、春が一番綺麗です。畑へ行く道も、川のそばも、お花がいっぱいで」
話を聞いていると、二人の故郷が少しずつ見えてくる。広い庭だけではなく、畑や川があって、幼い頃には二人でそこを歩いたのだという。
立派な所作でお茶を飲む二人も、子どもの頃には一緒に花を摘んでいた。そのことを知ると、ミアはもう少し、いろいろ聞いてみたくなった。
今日の課題は、用意する茶と菓子に合わせて、卓上の花を選ぶことだった。
ノエルは白い花を、コレットは小さな黄色い花を手に取った。ミアは桃色の花を選んでから、三つを並べて首を傾げる。
「どれも綺麗ですけど、全部入れると多いでしょうか」
「お菓子にも、色がありますものね」
セレスティーナは、見本として置かれた皿へ目を向けた。
淡いクリーム色の菓子に、赤い果物。葉を添えた小さなサンドイッチも並んでいる。
「こちらのお皿でしたら、白を多めにして、黄色を少し添えるのはいかがでしょう。お菓子も、よく見えると思います」
「では、桃色はなしですか?」
「ミア様のお選びになった花は、こちらに一輪、いかがですか?」
示されたのは、卓の端に置く小さな花器だった。
言われたとおりに挿してみると、それだけで席のそばが明るくなった。ミアが可愛いと声を漏らすと、セレスティーナも嬉しそうに頷く。
ノエルは中央の花器を、そっと動かした。
「このくらいの高さなら、お向かいの方のお顔も見えますね」
「前に教えていただいたこと、覚えてました?」
「はい。忘れないように、書いておきました」
「私もです!」
コレットが元気よく答え、三人で笑った。
セレスティーナも、白い花を持ったまま、柔らかく笑っていた。
さらに次の時間には、卓へ重ねる布を選んだ。
トビアスたちが揃えてくれた見本には、細い縁取りのあるものや、控えめな模様の入ったものがある。白いクロスの上に一枚掛けるだけで、花も皿も、違うもののように見えた。
コレットは一枚広げて、首を傾げる。
「綺麗ですけれど……お皿が、少し見づらくなりますね」
「模様が重なるからでしょうか」
ノエルが言うと、セレスティーナは頷き、別の布を隣へ置いた。
「こちらですと、花もお菓子も目立ちますね」
「布だけで見ると、さっきの方が好きなんですけど」
「わたくしも、あちらの模様は好きです」
コレットが驚いたように顔を上げる。
「公女殿下もですか?」
「はい。でも、今日はお客様にお菓子を楽しんでいただきたいので」
その答えを聞いて、コレットは改めて二枚を見比べた。
自分の好きなものを集めるだけでは、上手くいかない。誰に、何を楽しんでほしいのかを考えるのだと、ミアにも少しずつ分かってきた。
それでも、実際にもてなすのは難しかった。
客役と迎える側に分かれて練習したとき、ミアはお茶の説明までは、前より上手くできた。けれど、その後の話が続かない。
「今日は、よいお天気ですね」
「はい」
客役のコレットが答え、二人とも止まった。
自分で言ったのに、その先が出てこない。
困りかけたところで、セレスティーナが窓へ目を向けた。
「南部では、今頃はもっと暖かいのでしょうか」
「あ、はい。こちらより、少し。晴れた日は、もう上着がいらないくらいです」
「では、お庭のお花も、こちらより早く咲くのですね」
そこから、庭や畑の話になった。
ミアも知っている花の名前が出てきて、つい身を乗り出す。
「それ、私も好きです!」
言ってから、練習だったことを思い出した。少しはしゃぎすぎたかもしれない。
けれど、コレットもノエルも楽しそうだった。セレスティーナも笑っていて、教師には、自然に会話が続いたことを褒められた。
上手な言葉を言わなければと思うと、何も出てこなくなる。相手の話を聞きたいと思えば、尋ねたいことはちゃんとあった。
回を重ねるうちに、二人も自分からセレスティーナへ質問するようになっていた。
花の色や、茶と菓子の組み合わせ。隣の班の女子生徒が、布の見本を持って相談に来たこともあった。その生徒はまだ緊張していたけれど、説明を聞き終えると、ほっとした顔で礼を言って戻っていった。
誰もが急に親しくなったわけではない。
離れたところから、こちらを見ているだけの人もいる。セレスティーナの近くでは、相変わらず言葉を少なくする人もいた。
でも、一緒に考えて、話してみれば、分かることがある。
ミアには、それが嬉しかった。
練習の終わりに、ノエルとコレットが花器を返しに行った。
ミアはセレスティーナと、見本の布を畳んでいた。隣の卓では、別の班の生徒が、先ほど選んだ飾りについて話している。
セレスティーナはそちらへ少し目を向けてから、手元へ視線を戻した。
「……わたくし、皆様のお役に立てているのでしょうか」
小さな声だった。
ミアは手を止めた。
「もちろんです。私も、お二人も、たくさん教えていただいてます」
「でしたら、よいのですが」
「何か、気になることがありましたか?」
セレスティーナは、畳んだ布の端を丁寧に揃えた。
「いいえ。ただ、何度もお尋ねになるのは、お気を遣わせているのかもしれないと思いまして」
ミアは少し考えた。
二人は、最初ほど緊張していない。今日も、自分から話しかけていた。けれど、セレスティーナが何か教えてくれるたび、とても丁寧に礼を言う。
隣の班から来た生徒もそうだった。
セレスティーナには、それが、気を遣っているように見えるのかもしれない。
「聞きたいから、聞いているんだと思います」
ミアが言うと、セレスティーナが顔を上げた。
「セラ様、分からないことを聞いても、ちゃんと教えてくださるでしょう? それに、私たちが選んだものも、一緒に考えてくださいますし」
「……はい」
「だから、お話ししやすくなったんだと思います」
セレスティーナは少しだけ目元を緩めた。それでも、何か考えているような顔だった。
そこへ二人が戻ってきた。
「公女殿下、こちらもお返ししてまいりましょうか」
ノエルが布へ手を伸ばす。
ミアはその声を聞いて、ふと思った。
自分も、最初はそんなふうに呼んでいた。
セラ様と呼ぶようになってから、どれほど近く感じられるようになっただろう。
「あの、お二人とも」
二人がこちらを見る。ミアは一度、セレスティーナへ目を向けた。
「セラ様が嫌でなければですけど……お二人も、セラ様とお呼びになってはいかがでしょう?」
セレスティーナが瞬きをした。
その向かいで、コレットの背筋が、すっと伸びる。
「そんな、おそれ多いです!」
「わたくしたちが、そのようにお呼びするのは……」
ノエルも慌てて首を振った。
やっぱり、急すぎただろうか。
ミアがそう思ったとき、セレスティーナが微笑んだ。
「わたくしは、構いませんよ」
声は、いつもどおり柔らかかった。
けれど、二人の返事を待つ間に、ほんの少しだけ視線が下がった。畳んだ布へ指先を添え、口元の笑みが静かになる。
ミアは、その顔を知っていた。
試食の皿に、好きそうなお菓子が残っていたときと、少し似ている。
ノエルも、セレスティーナを見ていた。隣のコレットへそっと目を向けると、コレットが一度頷いた。
「あの、公女殿下」
「はい」
コレットは先ほどより、少し慎重に言葉を選んだ。
「セレスティーナ様、とお呼びさせていただいても、よろしいでしょうか」
セレスティーナの目が上がった。
ノエルも、小さく続ける。
「わたくしも、そうお呼びしてよろしければ……」
「……もちろんでございます」
返事の後に、柔らかな笑顔が広がった。
さっきよりも、ずっと嬉しそうだった。
コレットがほっとした顔になり、改めて礼をする。
「ありがとうございます、セレスティーナ様」
「次の練習でも、よろしくお願いいたします。セレスティーナ様」
ノエルの声は控えめだったが、今度は、途中で迷わなかった。
セレスティーナは二人を見て、ゆっくり頷いた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ミアも、ほっとして笑った。
同じ卓を囲んで、お茶を飲み、花や布を選ぶ。授業でしていることは変わらないのに、最初に座った日より、四人の間が近くなった気がした。
ノエルが畳んだ布を受け取り、コレットが残りの見本を重ねる。
「こちらは、私が持ちます。セレスティーナ様」
「ありがとうございます、コレット様」
呼ばれるたびに、セレスティーナの口元が、ほんの少し緩む。
その顔を見ていると、ミアまで嬉しくなった。
次の練習も、四人で同じ卓に座る。
当たり前になりかけているそのことが、今日は少し、楽しみだった。




