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10-1 夢の中のセレスティーナ

教室に入ると、ミアが顔を上げた。


「おはようございます、セラ様」


いつもの笑顔だった。


机の上には教科書と、昨夜のうちにまとめたらしいノートがある。セレスティーナが隣へ座ると、ミアはその一頁を開いて見せた。


「昨日の術式、ここまで書いてみたんですけど。この部分は、これで合っていますか?」


セレスティーナは紙へ目を落とした。少し考えてから、頷く。


「はい。よろしいと思います」


「よかった。最後のところだけ、自信がなかったので」


ミアが嬉しそうにノートを引き寄せた。


ここにいる。


腕にも頬にも傷はなく、隣の席で、昨日の授業について話している。セレスティーナはほっとして、それから鞄を膝へ置いた。


教科書を取り出すために、留め具へ指をかける。


ミアのすぐ隣に。


自分が、座っていてよいのだろうか。


「セラ様?」


呼ばれて顔を上げた。ミアが首を傾げている。


「何かありましたか?」


「いいえ。何もございません」


「お疲れが残っていますか? 昨日も、階段が少し重いって」


「今朝は、問題ございませんよ」


心配させないように微笑んだ。ミアはセレスティーナの顔をしばらく見てから、「そうですか」と答えた。


授業が始まると、それ以上は尋ねられなかった。


黒板の文字を写す。教師の説明を聞き、指示された箇所へ印をつける。手も頭も、普段通り動いていた。


ただ、隣から話しかけられるたび、返事が少し遅れた。


ミアはそのたびに待ってくれた。


昼食へ向かう時も、セレスティーナは五人の話を聞いているだけだった。


ジークバルトが実習の話をし、トビアスが何か言い返している。ミアが笑うと、セレスティーナも微笑んだ。


アレクサンダーが、こちらを見る。


「セレスティーナ」


「はい、殿下」


「今日、静かだな」


「そうでございますか?」


「そうだろ」


何か答えなければと思った。けれど、何も思いつかなかった。


「……申し訳ございません」


「謝れって言ってない」


アレクサンダーの眉が寄った。セレスティーナはもう一度微笑み、それからミアへ目を向けた。


ミアもこちらを見ていた。


笑わなければ。


何か、いつも通りの話をしなければ。


そう思うほど、口元に力が入った。


食堂では、いつもの席へ座った。セレスティーナの前には、スープと小さく切った肉料理、付け合わせの野菜が置かれる。


匙を取って、スープを飲んだ。


温かい。


それは分かった。


けれど、何の味だったか、うまく分からなかった。


向かいで、ミアがパンをちぎっている。その手首を見た途端、枝に切られた腕が浮かんだ。


目を上げる。


ミアは何か話していた。口元が動き、ジークバルトが笑っている。


その頬に、細い傷が重なった。


違う。


ここにいるミアには、傷などない。


あれは漫画の中の話だ。今の自分は、ミアを追い出していない。昨日も一緒に授業を受け、同じ卓でお茶を飲んだ。


セレスティーナは肉を一切れ切った。


フォークへ刺して、口へ運ぶ。


噛んでいる間にも、森を走っていたミアが見えた。転んで、立ち上がって、逃げていた。誰にも手伝わせてもらえず、一人で学院を離れた後に。


喉を通すのに、少し時間がかかった。


「セラ様、こちらのお野菜、柔らかいですよ」


ミアの声で、顔を上げる。


「……ありがとうございます」


勧められたものへフォークを伸ばした。けれど、その前に水を飲み、コップを戻すと、もう一度手を動かす気になれなかった。


「食べられないのか?」


アレクサンダーが尋ねた。


皿を見た。まだ三割も減っていない。


「申し訳ございません。少々、考え事をしておりました」


「さっきから止まってたけど」


トビアスもこちらを見ている。


「気分が悪いわけではない?」


「はい。身体には、問題ございません」


「それなら、何を考えてたんだ?」


アレクサンダーの問いに、セレスティーナは唇を開いた。


皆に話すと、約束した。


夢を見たら、一人で確かめに行く前に伝える。今度の夢には、確かめに行く場所もなかったが、それでも話さなければならない気がした。


「昨夜、夢を――」


トビアスがわずかに身を寄せた。


「ここでは、やめておこう」


小さな声だった。


隣の卓では、別の生徒たちが食事をしている。少し離れたところにも、同じ学年の顔があった。


セレスティーナは口を閉じた。


「放課後、いつものところで聞く」


アレクサンダーが言った。


「今は、食べられる分だけ食べろ。無理に全部とは言わないから」


「……はい」


スープへ手を伸ばした。もう一匙飲んだが、それ以上は進まなかった。


放課後のラウンジには、五人がそろった。


トビアスが扉の鍵をかける。ミアはセレスティーナの隣へ座り、鞄を椅子の脇へ置いた。


その近さに、セレスティーナは膝の上で指を重ねた。


「先に、森のことを話しておく」


アレクサンダーが言った。


「騎士が奥まで確認した。俺たちが行った窪地と、その周りも。今のところ、あの辺りに魔物はいないらしい」


「魔力の流れは?」とトビアスが尋ねる。


「異常な溜まり方はしていないそうだ。しばらくは見回りを続けるけど、ひとまず問題はなさそうだって」


ミアが息をついた。


「よかった……」


セレスティーナも頷いた。


もう、ミアが追われることはないのかもしれない。


そう思っても、朝から胸にある重さは、少しも動かなかった。


「それで」


アレクサンダーがこちらへ向き直る。


「今度は、何を見た?」


四人が待っていた。


誰も急かさない。そのことさえ、今は申し訳なかった。


「……森のお話の、続きを」


セレスティーナはゆっくりと答えた。


「ミア様が、なぜ森へ入られたのか。以前は、そこを思い出せませんでした」


ミアが隣で姿勢を正した。


「何か、理由があったんですか?」


「はい」


声が小さくなる。


「学院の催しに、ミア様がお手伝いとして関わろうとなさっていて」


卓上の木目を見た。


「わたくしが、それを嫌ったのです」


誰も、何も言わなかった。


「ほかの方へ任せるよう申し上げて。皆様が、その通りになさって……ミア様には、何も」


重ねた指へ力を込める。


「何も、お任せしませんでした。ミア様は、ほかにもお手伝いできることを尋ねていらしたのに」


ミアは黙って聞いていた。


セレスティーナは顔を上げられなかった。


「それで、お一人になって。森へ入られたのだと、分かりました」


「その夢の中では、ってことだね」


トビアスが確かめる。


「……はい」


その言葉を挟まれると、遠い話のように聞こえた。


けれどセレスティーナには、あの廊下も、ミアの顔も、はっきりと見えていた。


「魔物に追われて、何度も転んでいらっしゃいました。腕にも、お膝にも、傷があって」


息をつく。


「殿下と、ジークバルト様と、トビアス様が探しに来てくださって。間に合って、助けてくださいました」


ジークバルトの表情が引き締まった。


「その後、ミア様が光の魔法をお使いになって、あの場所の地下の魔力の流れが変わりました。そこは、一昨日と同じでございます」


「帰れたんだな?」


アレクサンダーが尋ねた。


セレスティーナは頷く。


「はい。ですが、ミア様はお怪我で歩きづらくなっていらして。殿下がお背負いになって、お帰りに」


そこまで話すと、喉が詰まった。


助かったのだ。


漫画の中でも、ミアは助かっていた。


それでも、傷つけたことがなくなるわけではなかった。


「……わたくしのせいでございました」


ミアがこちらを向いた。


「セラ様」


「ミア様が森へ行かれたのは、わたくしが、学院にいられなくしたからです」


言葉にすると、ますますはっきりした。


自分が何を心配して、一月も森へ通っていたのか。


ミアが襲われることだけを覚えていて、その前に自分がしたことを、忘れていた。


「わたくしは、ミア様をお守りしたいなどと申し上げて」


指先を見つめる。


「そのわたくしが、ミア様を……」


声が途切れた。


四人とも、神妙な顔をしていた。冗談を言う者も、話を遮る者もいない。


セレスティーナはそれを、当然だと思った。


「このように、皆様に優しくしていただく資格など、わたくしにはないのに」


「待てよ」


アレクサンダーが身を乗り出した。


「それは、夢だろう」


セレスティーナは唇を閉じた。


「今、お前がミアにそんなことをしたわけじゃない。夢で自分が嫌なことをしたからって、そこまで――」


「……そう、なのですが」


頷かなければと思った。


四人には、夢だと話している。


自分も、夢を見たのだ。


けれど、夢だから気にしなくてよいとは、どうしても思えなかった。


あれは、ちーちゃんに借りた漫画の中にあった話だった。自分が思いついて見た、ただの悪い夢ではない。


そして今、目の前にいるミアも、アレクサンダーたちも、その漫画と同じ顔をしている。


「セラ様は、私と一緒にいてくださってますよ」


ミアが言った。


「昨日だって、一緒に本を探そうって。お手伝いを断られたことなんて、ありません」


セレスティーナは隣を見た。


桜色の瞳が、心配そうにこちらへ向けられている。


「……はい」


「だから、私を追い出したなんて思わないでください」


優しい声だった。


ここは、優しい夢だから。


ミアはそう言ってくれる。アレクサンダーたちも、自分が何もしていないのだと教えてくれる。


この夢の中では、隣へ座ることを許されている。食事が進まなければ気にかけてもらい、黙っていれば、こうして話を聞いてもらえる。


けれど、本当のセレスティーナは違った。


ミアを見ようともしなかった銀髪の少女を、セレスティーナは知っている。


自分が今いる場所には、もともと、あの少女がいた。


「わたくしは……」


何を伝えればよいのだろう。


夢だけれど、夢ではない。


漫画に描かれていたことで、この世界は、その漫画と同じで。


そこまで考えて、声が止まった。


トビアスが、静かに待っていた。ミアも、席を離れなかった。


セレスティーナは俯いた。


皆が優しいことは、よく分かっている。


分かっているのに、その優しさを自分のものとして受け取ることが、今日はどうしてもできなかった。


「セラ様」


ミアに呼ばれ、セレスティーナは膝の上で重ねた指を緩めた。


「顔を上げてください。私、隣にいますから」


「……はい」


返事はしたが、すぐには動けなかった。


向かいで、アレクサンダーが息をつく。


「お前が気にしてるのは分かった。でも、俺たちが何を言っても、優しくしちゃいけないってことにはならないだろ」


「そうだぞ。今ここで、誰もミアを追い出そうとしてないんだから」


ジークバルトの声が続いた。


トビアスは少し待ってから、静かに言った。


「すぐに気持ちを切り替えなくてもいいよ。ただ、昼からほとんど食べていないでしょう。話してくれたのはよかったけど、そのまま何も食べられないのは良くないと思うよ」


皆に、また心配をかけている。


セレスティーナはゆっくり顔を上げた。四人とも、まだこちらを見ていた。ミアはすぐ隣にいて、目が合うと、ほんの少し頬を緩める。


「申し訳――」


言いかけて、口を閉じた。


また謝れば、皆を困らせるだけかもしれない。


「……お話を聞いてくださって、ありがとうございます」


「はち」


ミアが頷いた。それから、少し考えるように首を傾げる。


「それで、セラ様。その夢に出てきた催しって、何ですか?」


思いがけない問いだった。


「催し、でございますか?」


「はい。私がお手伝いをしようとしていた、っていう」


セレスティーナは夢の中の教室を思い返した。卓上に広げられた紙。生徒たちが相談していたこと。そこまで思い出して、ようやく、その話題に名前がついた。


「……新入生を、お迎えするための」


「ああ、学園祭か」


アレクサンダーが言った。


「そろそろ準備の話が出る頃だな」


「学園祭?」


ミアは今度こそ、はっきり首を傾げた。


「去年、俺たちも見て回っただろ。上級生がいろいろやってたやつ」


ジークバルトに言われ、ミアの目が明るくなる。


「あれですか。お茶をいただいたり、魔術の実演を見せていただいたりした」


「そう。今年は僕たちが新入生を迎える側になる」


トビアスが説明した。


「二年と三年で、クラスごとに何をするか決めるんだよ。大がかりなものばかりじゃないけど」


「そうだったんですね。私、今年はどうなるのか、まだ何も考えていませんでした」


セレスティーナも同じだった。


森のことばかり考えていた。ミアが襲われる場面を避けたくて、休日ごとに木々の間を歩き、足跡を探していた。その間にも、新年度の授業は始まり、学院では次の行事が近づいていたのだ。


「わたくしも、失念しておりました」


「まあ、まだクラスでも決めてないからね」


トビアスが言った。


ミアは少し身を乗り出した。


「何ができるんでしょう。去年のお茶のところ、楽しかったですけど、準備は大変なんでしょうか」


「出すものにもよるだろ。俺は剣舞の実演とかがいいな」


「ジークは、普段の実習と変わらなくない?」


「見る側は一年生だぞ。俺たちだって去年は面白かっただろ」


二人のやり取りを聞きながら、セレスティーナはミアを見た。


楽しそうだった。


今度は、何かを断られる前の顔ではない。自分たちに何ができるのか、知りたくて尋ねている。


ミアが楽しく参加できるように。


そのために、自分は――


「セラ様は、何をなさりたいですか?」


問いかけられて、考えが止まった。


「わたくし、でございますか?」


「はい。私も、一緒にできるものがいいです」


ミアはごく自然に言った。


セレスティーナは返事を探した。自分が関わらなければ、ミアが気兼ねせずに過ごせるのではないかと思ったばかりだった。


けれどミアは、一緒にいることを望んでくれている。


「……ミア様は、ご遠慮なさらず、お好きなものを」


「だから、セラ様と一緒にできるものがいいんです」


ミアが少しだけ頬を膨らませた。


「セラ様、魔術の実演ならできますか? 私が一緒だと、難しいものはできませんけど」


「そのようなことはございません。今のミア様でしたら、できることはたくさんございます」


そこは、すぐに答えられた。


ミアの頬が緩む。


「それなら、何ができるか教えてください。お茶を出すなら、そちらも楽しそうですし」


「まだ何をするか決めてないんだ。お前一人で、ミアがどう参加するかまで決めるなよ」


アレクサンダーが言った。


セレスティーナは顔を上げる。


「ミアが一緒にやりたいって言ってるんだから、まずはそれで考えればいいだろ」


「……はい」


「俺たちもいるしな」


ジークバルトが続けた。


「二人で全部準備するつもりにはなるなよ」


「クラスの催しだからね。五人で全部、でもないよ」


トビアスに訂正され、ジークバルトは頷いた。


「そうだった。じゃあ、俺は剣舞を提案してみる」


「お茶を出してる隣で剣を振るのか?」


「離れてやればいいだろ」


「私は、お茶を運ぶ時に通ってしまいそうです」


ミアが真剣に言った。ジークバルトは少し考えて、「じゃあ、場所も決めないとな」と答える。


その様子に、セレスティーナの口元がわずかに緩んだ。


ミアがすぐにこちらを見た。


「セラ様、やっと笑ってくれました」


セレスティーナは目を瞬いた。


ミアは嬉しそうに立ち上がり、用意してあった菓子の皿を運んできた。卓上の紙を少し寄せ、小さな焼き菓子をセレスティーナの前へ置く。


「今日は、こちらにしました。前においしいっておっしゃっていたので」


見覚えのある菓子だった。


いつものように、お茶も注がれる。ミアが隣へ戻る間に、ジークバルトは皿へ手を伸ばし、トビアスに「まだ全員の分を出してないよ」と止められていた。


セレスティーナは菓子を一つ取った。


「ありがとうございます、ミア様」


口へ運ぶと、薄い縁がほろりと崩れた。


甘い。


噛むと、バターの香りが広がった。昼には分からなかった味が、今はちゃんと分かる。


「おいしいですか?」


ミアが尋ねた。


セレスティーナはゆっくり飲み込んでから、頷いた。


「……はい。とても」


ミアが嬉しそうに笑う。


向かいでは、アレクサンダーが自分の菓子を取り、学園祭で何を出すかという話を続けていた。ジークバルトはまだ実演を諦めておらず、トビアスが使えそうな場所を挙げている。


セレスティーナは、もう一口食べた。


甘いのに、少しだけ喉の奥が熱くなる。


やっぱり、ここは優しい夢だと思った。


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