9-10 大地を流れるもの
翌朝も、教室にはいつもと同じ顔ぶれがあった。
窓際の席へ向かうと、ミアがこちらに気づいて手を振った。セレスティーナはその歩き方を確かめながら、隣へ腰を下ろす。
「おはようございます、ミア様。おみ足はいかがですか」
「おはようございます。もう何ともありませんよ。セラ様こそ、腕は?」
「問題なく動きます」
鞄から教科書を取り出して見せると、ミアは安心したように笑った。
前の席では、ジークバルトが肩を回していた。
「俺は少し脚に残ってるな」
「あなたでも?」
トビアスが意外そうに顔を上げる。
「剣を使うのと、森の中を一日歩くのは違うだろ。昨日、結構あちこち回ったし」
「俺も階段が長く感じた」
アレクサンダーが言った。セレスティーナは少し驚いて、三人を見た。
自分も今朝は、階段を上がる足が普段より重かった。動けないほどではないので気にせず来たが、皆も同じなのだという。
「セラ様も、疲れていますか?」
「……階段では、少々」
「それなら、今日はゆっくり歩きましょうね」
ミアが穏やかに言ったところで、近くの席から挨拶が飛んできた。五人もそれぞれに返し、教科書を開く。
昨日の森のことを話す者はいなかった。
教師が入ってくると、椅子を引く音が重なる。黒板に書かれた文字を写し、問いかけに答え、次の授業のために本を入れ替える。窓から入る風は柔らかく、遠くの実習場からは掛け声が聞こえた。
セレスティーナが隣を見ると、ミアは真剣な顔で筆記をしていた。時折、書き留めるのが間に合わず、こちらのノートへ目を向ける。
少しだけノートを寄せると、ミアが声を出さずに「ありがとうございます」と唇を動かした。
昼食も、いつもの五人で取った。
「朝より歩きやすくなりました」
ミアがスープの匙を置いて言う。セレスティーナも頷いた。
「わたくしも、今は普段と変わりません」
「食事は?」
アレクサンダーの視線が、セレスティーナの皿へ向く。
「いただいておりますよ」
「見れば分かる。食べられそうかって聞いてるんだ」
「はい。こちらのお魚、おいしゅうございます」
答えると、アレクサンダーは頷いて自分の食事へ戻った。
ミアはそのやり取りを見て笑い、ジークバルトは午後の実習について話し始める。トビアスが昨日の疲れを指摘すると、「始めたら動くだろ」と返して、今度は三人から顔を見られていた。
セレスティーナも、思わず頬を緩めた。
午後には、それぞれの課程へ分かれる。ミアと魔術科の教室へ向かい、いつも通り授業を受けた。今日は術式を読み解く時間が多く、森を歩いた翌日の脚にはありがたかった。
放課後、ラウンジへ着くと、アレクサンダーとトビアスが先に来ていた。
この部屋も、以前はほかの生徒が使うことがあった。だが、五人が毎日のように集まるうちに、アレクサンダーのいる時間を避ける者が増え、いつの間にか夕方には空けておかれるようになっていた。
今日も、ほかには誰もいない。
少し遅れてジークバルトが入ってくると、トビアスが立ち上がった。扉を閉め、鍵を回す。
ミアが顔を上げた。
「鍵までかけるんですか?」
「念のため。途中で誰かが入ってきたら、話を止めないといけないから」
トビアスは席へ戻り、セレスティーナの手帳を卓上に置いた。その隣には、昨日使った地図が広げられる。
「報告は、昨夜送った」
アレクサンダーが口を開いた。
「魔物が集まっていた場所と、倒した後に小さな動物が残ったこと。それから、あの妙な魔力の流れと、ミアが光を使った後に変わったことも」
ミアは自分の手へ目を落とした。
「私、何をしたのか、ちゃんと説明できていませんけど……」
「分かってるところだけ書いた。お前が全部説明できるようになるまで、報告しないわけにもいかないだろ」
「はい」
「森は、まだ閉じておく。魔物がいなくなったかどうかは、俺たちだけじゃ確かめきれないからな。父上には、魔力の流れについても調べてもらうよう頼んだ」
「昨日、地下へ向かったと言っていたね」
トビアスがセレスティーナを見る。
「はい。溜まっていたものが、下へ流れていくように感じました。ただ、どこまで続いていたのかは分かりません」
「地面の下に、ああいうのがあるのか」
ジークバルトが地図の窪地を指した。
セレスティーナは少し考えた。昨夜、寝台に入ってからも、あの感覚を思い返していた。森で見たものによく似た話を、以前どこかで読んだ気がしていたのだ。
「……魔脈、というものかもしれません」
アレクサンダーが顔を上げる。
「魔脈?」
「大地の下を流れる魔力の地脈でございます。古い文献で、その名を読んだことがあります」
「ああ。建国の話に出てくるやつか」
ジークバルトが言った。トビアスも、思い出すように頷く。
「大地の力に、聖女が道を与えたという話だね」
「聖女が?」
ミアが四人を見た。
「私、そのお話は知りません」
「わたくしも、詳しい仕組みを知っているわけではございません。伝説として読んだものですので」
セレスティーナはそう断ってから、記憶を辿った。
建国王の偉業を記した本の中に、聖女の働きを語る箇所があった。王が国の礎を築いた頃、大地の力が乱れ、人々の暮らせない土地があったという。聖女はその地へ赴き、溢れた力を鎮め、再び大地の下へ導いた。
その力の通り道が、魔脈と呼ばれていた。
「わたくしの読んだものでは、地下を流れる水にたとえられておりました。普段は見えなくても、地の下には流れがある。そこから溢れた力が土地を荒らし、聖女が流れる道を整えた、と」
ミアは卓上の地図へ視線を落とした。
「……昨日みたいに、ですか?」
「似ているようには思います」
セレスティーナが答えると、トビアスが続けた。
「ただ、昨日のものが本当に魔脈なのかは、まだ分からない。昔話と似ているだけかもしれないから」
「俺は、聖女が荒れた土地を鎮めたってところしか覚えてないな」
アレクサンダーが眉を寄せる。
「魔脈のことまで、授業で習ったか?」
「歴史書では、建国期の出来事として少し触れられている程度でございます。詳しい話は、伝承を集めた本の方にございました」
「それなら俺も、子供の頃に聞いた方かもしれない」
ジークバルトが言った。
「王が魔物を倒して、聖女が土地を鎮める話だったと思う。剣の方は覚えてるんだけどな」
「ジークらしいね」
トビアスが笑った。ジークバルトは否定せず、地図へ目を戻す。
ミアはしばらく黙っていた。それから、両手をそっと重ねる。
「私、昨日は、何かが引っかかっているような感じがしたんです」
四人の視線が向いた。
「うまく言えませんけど。そこにあるのが変で、こっちへ行けばいいのに、って……光を使ったら、その感じがなくなりました」
「流れる方が、分かったのでございますか?」
「分かったというほど、はっきりしていません。でも、そうしたらよさそうだなって」
ミアは困ったように笑った。
「これだと、王宮の方にも説明できませんよね」
「いや、今のままでいい」
アレクサンダーが言った。
「昨日は聞けなかった話だ。分からないところを、無理に言葉にしなくていいから」
トビアスが紙を引き寄せ、ミアの言ったことを書き留める。
セレスティーナは、その横で地図を見た。
魔物の姿が消え、小さな動物の身体が残ったこと。倒しても、次の休日には別の魔物が現れたこと。そして、森の奥に溜まっていた魔力。
「動物たちも、あちらの力に触れていたのでしょうか」
「それで魔物になった、と?」
トビアスに問われ、セレスティーナは頷いた。
「もともと、あの森にいたものなのかもしれません」
「だとしたら、倒しても減らなかったのは……」
ジークバルトが言いかけ、窪地の印を見る。
「別の動物が、また魔物になってたってことか」
「可能性はあるね。巣を探しても見つからないわけだ」
トビアスはペンを止めた。
「でも、これも調べてもらおう。僕たちが見たのは、倒した後の姿だけだから」
セレスティーナは頷いた。
一人で歩いていた時には、まだ奥に魔物がいるのだと思っていた。もっと探して、見つけたものを倒せば、いつか終わるはずだった。
けれど、ミアが気づいたものは、足跡でも巣でもなかった。
「ミア様がいらっしゃらなければ、わたくしはまた、魔物を探していたと思います」
ミアが顔を上げる。
「セラ様の記録があったから、あそこまで行けたんですよ」
「そうだな。何も分からないまま五人で入ってたら、もっと時間がかかってた」
ジークバルトも頷いた。
「だからって、一人で続けてよかったって話にはならないからな」
アレクサンダーに言われ、セレスティーナはすぐに頷く。
「承知しております。次に気にかかることがございましたら、まず皆様にお話しいたします」
「うん。その方が、僕たちも早く手伝える」
トビアスが書き終えた紙をアレクサンダーへ渡した。
魔脈という名と、ミアの感じたこと。動物が魔物になった可能性も、昨日の報告に加えて伝えることになった。セレスティーナが読んだ本は、公爵家の書庫にあったものだ。正確な書名を確かめるため、家へ問い合わせることにする。
「学院の図書室にも、同じ話が載っているかもしれません」
「魔術科の資料室にも、ありそうですね」
ミアが言うと、セレスティーナは頬を緩めた。
「明日、ご一緒に探してみましょうか」
「はい。私も、ちゃんと読んでみたいです」
「授業の後にな」
アレクサンダーが付け加える。
「あと、閉まる時間まで居座るなよ」
「……承知いたしました」
「今、少し間があったな」
ジークバルトが笑った。ミアもつられて笑いながら、菓子の皿を卓上の中央へ寄せる。
トビアスは地図と手帳を重ね、立ち上がって扉の鍵を開けた。廊下から、生徒たちの話し声が聞こえてくる。
森のことは、まだ分からないところが多い。王宮で調べてもらっても、すぐには答えが出ないかもしれなかった。
それでも明日、ミアと本を探すことは決まった。
セレスティーナは渡されたお茶を両手で受け取り、隣へ腰を下ろしたミアに微笑んだ。
その夜、セレスティーナはまた、夢を見た。
開かれた漫画の頁がある。見覚えのある制服を着た生徒たちが、学院の催しについて話し合っていた。
ミアもその輪の中にいる。何か手伝えることがないかと尋ね、任された仕事に嬉しそうに頷いていた。
そこへ、銀髪の少女が現れる。
セレスティーナだった。
すみれ色の瞳が、ミアの手元へ向けられる。次いで、彼女を取り囲んでいた生徒たちへ。
「その方にお任せするおつもりですの?」
静かな問いかけだった。
けれど、それまで話していた者が口を閉じた。ミアへ渡されかけていた紙が、卓上へ戻される。
「ほかに、適任の方がいらっしゃるでしょう」
銀髪の少女は、ミアを見なかった。そこにいることさえ認めないように、生徒たちへ話しかけていた。
誰も逆らわない。
別の役目を尋ねても、もう決まっていると言われた。手伝いを申し出ても、今は必要ないと断られる。ミアは笑って頷いていたが、その笑顔は頁をめくるごとに小さくなっていった。
やがて、廊下に一人で立っている姿になった。
教室からは、楽しそうな話し声が聞こえている。
ミアはそちらを一度だけ見て、踵を返した。
次の頁には、学院裏の森が描かれていた。
なぜ、そこへ入ったのか。
ずっと分からなかったことが、今は分かった。
誰かの邪魔にならないところへ。何をしているのか尋ねられず、役目を断られることもないところへ。
ミアは木々の間を歩いていた。足元の小さな花に目を留め、少しだけ表情を緩める。
その後ろで、黒い影が動いた。
セレスティーナは息を止めた。
ここからは、知っている。
ミアが振り返る。獣が口を開き、木の間から飛び出してくる。彼女は逃げようとして足をもつれさせ、地面へ手をついた。
立ち上がって、走る。
枝が頬を切った。膝が木の根にぶつかる。倒れかけても、後ろから近づく音に追い立てられ、足を動かし続けた。
怯えた桜色の瞳。
息をするために開かれた口。
制服の袖から覗く腕には、細い傷が幾つもあった。
以前の夢は、そこで途切れていた。
けれど今度は、次の頁が開いた。
「ミア!」
アレクサンダーがいた。
その隣をジークバルトが駆け抜け、トビアスの魔法が獣とミアの間へ立ち上がる。飛びかかってきた魔物の爪が、彼女へ届く直前だった。
アレクサンダーがミアの腕を取り、後ろへ引いた。ジークバルトの剣が獣を迎える。
三人は、いなくなったミアを探していたのだ。
ミアはアレクサンダーの服を握っていた。助かったと分かっても、すぐには指が離れなかった。
その後の頁には、昨日見た窪地があった。
魔物を倒した三人が周囲を確かめる中、ミアが中央へ目を向ける。そこにあるものが気にかかると告げ、自分の手を見つめる。
白い光が広がった。
森の奥に溜まっていた力がほどけ、地の下へ流れていく。
昨日と、同じだった。
違うのは、その場所にセレスティーナがいないことだった。
ミアが三人へ微笑みかける。けれど帰ろうとすると、足を引きずった。逃げる間についた傷は、腕にも膝にも残っている。
アレクサンダーが背を向け、屈んだ。
ミアは少し躊躇ってから、その背へ身体を預ける。ジークバルトが彼女の鞄を持ち、トビアスが隣を歩いた。
学院へ戻る道で、ミアはアレクサンダーの肩へ顔を伏せていた。
そこで、頁が閉じた。
目を開けると、寝台の天蓋があった。
窓の外はまだ暗い。部屋の中には、誰の声も聞こえなかった。
セレスティーナはしばらく、動けずにいた。
夢の続きを、思い出したのだ。
ちーちゃんに借りた漫画で、ミアは助かっていた。アレクサンダーたちが間に合い、魔物を倒し、ミアは森の異変を鎮めた。
昨日、五人で見つけたものも、あの話の中にあった。
それなら、よかったと思うべきなのかもしれない。
ミアは今、部屋で眠っている。傷も治り、今日も一緒に授業を受けた。明日は資料室へ本を探しに行く約束をしている。
けれど、教室の前に立っていたミアの顔が消えなかった。
手伝いたいと申し出て、断られて。
それでも笑って、邪魔にならないように一人で離れていった。
森へ行かなければよかったのではない。
学院に、いられなくしたのだ。
セレスティーナは布団の上で指を握った。
わたくしのせいだった。
あの魔物が現れた理由は、まだ分からない。大地の下を流れる力を、自分が乱したわけでもない。
けれどミアが、その魔物のいる森へ入った理由は。
あの銀髪の少女が、彼女の居場所を奪ったからだった。
セレスティーナは右腕へ手を添えた。昨日、ミアが治してくれたところだ。そこにはもう、傷も残っていない。
漫画の中のミアは、あちこちに擦り傷を負っていた。歩けなくなり、アレクサンダーに背負われて帰った。
自分は昨日、ミアへ傷がつかなくてよかったと思っていた。
そのミアを、傷つく場所へ追いやったのが自分だったとは、知らずに。
今は、あのようなことをしていない。
そう考えても、胸の重さは消えなかった。漫画の中で冷たく問いかけた少女は、自分と同じ顔をしていた。周囲が黙ったことも、誰もミアへ役目を渡さなくなったことも、容易に思い浮かべられた。
公爵令嬢の言葉は、それだけで人を遠ざけられる。
セレスティーナは布団を胸元まで引き上げた。
明日、隣の席でミアは笑ってくれるだろう。一緒に本を探すことを、楽しみにしてくれているかもしれない。
その顔を思い浮かべるほど、夢の中で一人になった彼女が、はっきりと見えた。
目を閉じても、眠りは戻ってこなかった。




