9-9 森の奥で
「ミア様!」
セレスティーナは反射的に全身へ魔力を込めた。
一息で魔物の正面へ飛び込み、ミアとの間に氷の障壁を重ねる。一枚、二枚、三枚。獣は目の前に現れた氷に一瞬怯んだが、勢いは止まらなかった。前脚が障壁を砕き、破片がセレスティーナの頬をかすめる。
次を作るより早く、魔物が跳んだ。
「セラ様!」
斜め後ろから腕を引かれた。セレスティーナはミアと折り重なるように地面へ倒れ込む。魔物の身体が頭上を越え、その爪が右腕をかすめた。遅れて、血が散る。
魔物は二人の先に着地し、すぐに振り返った。
セレスティーナは泥に手をついて起き上がる。右腕が熱い。けれど指は動く。戻ってくる魔物の前脚を氷で地面へ縫い止めた。
「ミア様、離れてくださいませ!」
「はい!」
ミアの手から光が放たれた。窪地を白く照らされた魔物が目を閉じ、頭を振る。氷を割ろうと暴れる前脚へ、セレスティーナはさらに魔力を注いだ。
「二人とも、伏せろ!」
ジークバルトの声が飛ぶ。
セレスティーナがミアの肩を抱いて身を低くすると、魔物の横から剣が入った。アレクサンダーの炎が逃げ道を塞ぎ、トビアスの術で盛り上がった土が後ろ脚を取る。ジークバルトがもう一度踏み込み、獣は動かなくなった。
窪地が静かになった。
先に襲ってきた三体も、離れた場所に倒れている。セレスティーナは泥の上に座り込んだミアへ振り向いた。
「ミア様、お怪我は」
「セラ様、腕!」
ミアは座ったまま、セレスティーナの右腕を取った。爪のかすめたところから血が流れている。
「わたくしは、この程度でしたら――」
「動かさないでください」
ミアが傷へ手をかざす。柔らかな光が広がり、開いた皮膚が塞がった。ミアはその跡をもう一度確かめ、やっと手を離す。
「ありがとうございます。ミア様は、どこも――」
「私は大丈夫です」
ミアが立ち上がろうとして、顔をしかめた。左足を地面につけた途端、身体が傾く。
「ミア様!」
セレスティーナは慌てて肩を支え、その場へ座らせた。
「おみ足を見せてくださいませ」
「ちょっとひねっただけです。セラ様の腕の方が――」
「腕はもう、ミア様が治してくださいました」
セレスティーナはミアの左足首に手を添えた。先ほどまでの慌てた声が静かになる。腫れのある場所を確かめ、真剣な顔で治癒魔法をかけた。
「いかがですか。動かしてみてください」
ミアが足首をそっと回す。
「さっきより、ずっと楽です」
「もう一度、失礼いたします」
「えっ、もう大丈夫ですよ?」
セレスティーナは答えず、足首の外側にもう一度魔力を流した。ミアが足を動かすのを見守り、少しでも動きが鈍ると、また手をかざす。
三度目に入ろうとしたところで、近寄ってきたトビアスがセレスティーナの手をそっと止めた。
「セレスティーナ嬢、もう痛みがないなら、そこでおしまい」
「ですが、先ほど少し動かしづらそうに――」
「ひねった足を気にしてるだけかもしれない。治癒を重ねるより、立って確かめよう」
「ほら、俺が支えるから」
アレクサンダーがミアへ手を差し出した。セレスティーナも反対側へ回ろうとして、ジークバルトに肩を押さえられる。
「セレスティーナ嬢も一回落ち着け。腕を治してもらったばかりだろ」
「……はい」
ミアはアレクサンダーの手を借りて立ち、ゆっくり数歩歩いた。左足にも体重をかけられる。
「痛くないです。セラ様、ありがとうございます」
「本当に、どこにも?」
「はい。今度は本当です」
ミアが笑った。セレスティーナは足元をもう一度見てから、ようやく頬を緩める。
「……怖かった」
ミアが息を吐く。セレスティーナは、何度もミアの全身を確認した。
「わたくしも、恐ろしゅうございました。ミア様に何かあったら…」
自分の怪我などよりよほど怖いと思った。
ミアが少し苦笑する。
「セラ様が前にいらしたときは、私の方が怖かったです」
互いを見て、二人はまた相手の服についた泥を払い始める。アレクサンダーが「泥は帰ってから落とせ」と言うまで、どちらも自分の服を見なかった。
ジークバルトが倒れた魔物を見回した。
「思ったより危なかったな。もう帰ろう」
アレクサンダーも頷いた。先ほど決めた通りだ。五人は窪地を出ようとした。
「……待ってください」
ミアが中央を指さす。
「ここだけ、まだ気になります」
魔物が固まっていた場所には、浅く窪んだ地面がある。足元に気をつけながら少し近づくと、セレスティーナにも分かった。空気の中の魔素が、そこへ集まっている。
トビアスが足を止めた。
「こんな流れ方は見たことがない」
目に見える風は吹いていない。それなのに、その場所だけ魔力が幾重にも巻き、同じところを巡り続けているようだった。
「これが、魔物に力を与えているのでしょうか」
ミアが小さく言った。
「分からない。これ以上近づくのは――」
アレクサンダーが止める前に、ミアは自分の手を見つめた。
「……どうすればいいのか、分かる気がします」
「ミア?」
「少しだけ、やってみてもいいですか」
怖さが消えたわけではないのだろう。ミアの声はまだわずかに震えている。それでも彼女は、窪地の中央から目を逸らさなかった。
アレクサンダーは周囲の魔物が動かないことを確かめ、ジークバルトに目を向ける。ジークバルトが剣を持ったまま頷いた。
「俺たちがここにいる。変だと思ったらすぐやめろ」
「はい」
ミアは両手を前へ差し出した。
柔らかな光が指先に灯る。いつもの治癒魔法より広く、木々の根元まで白く照らした。光は窪地の中央に触れ、渦を描くように広がる。
一瞬、辺りが眩しくなった。
セレスティーナが目を開けた時、先ほどの息苦しいほどの魔素は消えていた。
「……なくなっています」
ミアも驚いた顔で周囲を見ている。
セレスティーナは窪地に意識を向けた。魔素が尽きたわけではない。そこに留まっていたものが、ゆっくりと動いている。
「流れが、地下の方へ向かっております」
「地下へ?」とトビアスが聞き返す。
「はい。先ほどまでは、こちらで留まっていたように感じました」
トビアスは地面を見下ろした。
「何かの理由で魔力の流れが滞って、ここに溜まっていた……それが魔物と関係しているのかもしれない」
「もう魔物は出なくなるんでしょうか」とミアが尋ねる。
「それは、まだ分からない」
答えたトビアスも、表情は明るい。セレスティーナが一月調べても分からなかったことが、今は五人の目の前にあった。
アレクサンダーが窪地を見回し、それからミアとセレスティーナの足元を見た。
「今日はここまでだ。帰って父上に報告する」
「そうだな。二人とも、歩けるか?」
ジークバルトの問いに、ミアが数歩進んで見せた。セレスティーナも右腕を動かす。
「問題ございません」
「本当に?」とミアが聞く。
「ミア様こそ、おみ足は」
「もう痛くないです」
二人で顔を見合わせると、アレクサンダーが呆れたように息をついた。
「分かったから、今度は俺たちにも見えるところを歩けよ」
帰る前に、窪地に残った死骸を片づけた。黒い靄の消えた後には、四体とも小さな動物の姿に戻っている。トビアスが土に穴を開け、セレスティーナが風で死骸を集めた。アレクサンダーが火を灯す間、ジークバルトは周囲を警戒し、ミアは少し離れて待った。火が消え、熱が引いたことを確かめてから土を戻す。
五人はそろって窪地を離れた。セレスティーナは一度だけ振り返る。魔物が集まっていた森の奥には、もうあの妙な重さを感じなかった。
帰り道では、誰も先を急がなかった。
ジークバルトが枝を払い、トビアスが手帳の印を確かめる。行きには何度も足を止めて方角を探していたミアも、今は皆と同じ速さで歩いていた。
沢を渡ったところで、ミアが大きく息を吐いた。
「……帰り道って、こんなに長かったんですね」
「行きはあちこち見てたからな」
アレクサンダーが振り返る。
「足、痛むか?」
「痛くはないです。でも、疲れました」
セレスティーナもすぐに足元へ目を向けた。ミアはそれに気づくと、念を押すように笑う。
「捻ったところじゃありませんよ。両方です」
「……それでしたら、よろしゅうございました」
「よくはないだろ。休もうぜ」
ジークバルトが道の脇の倒木を示した。五人は鞄を下ろし、腰を落ち着ける。
座ってみると、セレスティーナも脚がずいぶん重いことに気づいた。行きには容易に越えられた木の根が、帰りには少し高く感じられたのは、そのためだったのかもしれない。
水を飲んでいると、隣のミアが鞄を開けた。
「少し残しておいてよかったです」
取り出した包みには、焼き菓子が三つ入っていた。ミアは数を確かめ、少し困った顔になる。
「五人分には足りませんね」
「割ればいいだろ」
アレクサンダーが一つを取って二つに割った。差し出された片方を受け取ってから、ミアはその断面を見比べる。
「アレク様の方、小さくありませんか?」
「同じくらいだろ」
「そうでしょうか」
「細かいな。食えよ」
ミアはまだ少し気にしていたが、一口食べると、ほっとしたように目元を緩めた。
残る二つも分け、セレスティーナの手には半分より少し大きな菓子が渡された。ジークバルトが、最後に残った小さな欠片を口へ放り込む。
「次は、もう少し多く持ってくるか」
「今日も、出発した時には一番多かったよね」
トビアスに言われ、ジークバルトは空になった自分の包みを覗いた。
「だから足りると思ったんだよ」
「ジークが足りないなら、私たちはもっと持ってこないといけませんね」
「ミアは余っただろ」
「最後に食べたくなると思って、取っておいたんです」
その言葉に、セレスティーナは手元の菓子を見た。
「わたくしも、次は帰りの分を分けておきますね」
「そうしてくれ。途中で全部食ったら、帰りに分けられないからな」
アレクサンダーが言った。ジークバルトは何か言い返しかけ、結局、水筒へ口をつけた。
ミアが笑う。トビアスも肩を揺らしていた。
セレスティーナは隣へ目を向けた。ミアは菓子を食べながら、左足の位置を少し変えている。その動きに、つい視線が下がった。
「ミア様、本当に痛みはございませんか」
ミアは足元を見てから、セレスティーナへ笑いかけた。
「ありませんよ。私は少し捻っただけですし、セラ様が治してくださいましたから」
「ですが、お帰りになるまでに、また――」
「セレスティーナ嬢」
トビアスが、呆れたように眼鏡へ触れた。
「ミアが捻挫で済んでよかった、とは言わないけど。あなたは魔物の正面へ飛び込んだんだよ。すぐに治療したとはいえ、腕から血も流していたでしょう」
セレスティーナは自分の右腕を見た。袖には裂け目があるが、その下の皮膚はきちんと閉じている。
「こちらは、ミア様が治してくださいましたので」
「ミアも、あなたが治したよね」
「……はい」
「じゃあ、自分の腕と同じくらい、ミアの言うことも信じてあげて」
言われて、セレスティーナは隣を見た。ミアが小さく頷く。
「痛くなったら、ちゃんと言います。だから、セラ様も言ってくださいね」
「承知いたしました」
「お前の場合、痛みがなくても、腕を動かしづらかったら言うんだぞ」
アレクサンダーに付け加えられ、セレスティーナはもう一度頷いた。
ミアは安心したように菓子の残りを口へ運ぶ。その姿を見て、セレスティーナもようやく自分の分を食べ始めた。
あの爪が、ミアへ届かなくてよかった。
隣で頬を緩めている彼女を見ていると、そればかりが浮かんでくる。けれどミアも、自分の腕を見て同じように心配してくれたのだろう。傷へ手をかざしていた時の、真剣な顔を思い出した。
セレスティーナは右手の指をゆっくりと動かした。問題なく動くことを確かめると、こちらを見ていたミアへ、小さく微笑んだ。
休憩を終えて歩き出すと、先ほどより足が上がった。今度は木の根を越える前に、ミアが声をかけてくれた。
「ここ、少し高いですよ」
「ありがとうございます」
差し出された手を借りて越えた。すぐ向こうで待っていたアレクサンダーが二人を確かめ、それから歩き始める。
木々の間に学院の屋根が見えた頃には、話題は夕食のことになっていた。
「今日は何だったかな」
ジークバルトの言葉に、トビアスが呆れたように笑う。
「さっき食べたばかりなのに」
「半分だぞ」
「私はスープが飲みたいです。温かいもの」
ミアに言われると、セレスティーナも、その香りを思い浮かべた。部屋へ戻ればエマがいて、着替えを手伝ってくれる。食事の前に、服を汚してしまったことも伝えなければならない。
「セラ様、明日、お疲れが残っていたら教えてくださいね」
「ミア様もでございますよ」
「はい。午前の授業で、眠くならないといいんですけど」
「今日は早く寝ろよ、二人とも」
アレクサンダーの声に、ミアと一緒に返事をした。
明日も同じ教室へ行く。隣にはミアがいて、近くには三人がいる。
セレスティーナはもう、森の奥を振り返らなかった。皆と並んで、学院へ続く道を歩いた。




