9-4 減らない魔獣
木の間から現れた獣は、先ほどのものより背が低かった。それでも、その身体に不釣り合いなほど大きな口を開け、こちらへ向かってくる。
氷の矢を放つ。獣は頭を振って避け、そのまま地面を蹴った。
セレスティーナは倒木を挟むように退いた。跳び越えてきたところへ二本目を放ち、着地の直前に、もう一本を首筋へ通す。
獣が土の上へ倒れた。
動かなくなるのを待つと、今度も黒い靄がほどけていった。残ったのは、先ほどとは種類の違う、小型の動物の死骸だった。
セレスティーナは周囲へ目を向けた。茂みの奥にも、木々の間にも、動くものは見えない。
これ以上、奥へ進むのはやめておこう。
エマには昼までに帰ると伝えてある。ほかにも魔物がいるかもしれないが、今日、一度に確かめる必要はない。
ただ、このまま置いて帰るわけにもいかなかった。
セレスティーナは木の根から離れた場所を選び、土へ魔力を流した。地面がゆっくりと窪み、湿った土が両側へ寄る。周囲の枯れ葉も除けてから、風の魔法で二つの死骸を穴の中へ移した。
「……失礼いたします」
小さく告げ、火を灯す。
炎は穴の内側に留めた。毛が焦げる臭いが立ち、セレスティーナは風下を避けて立つ。燃え残りが動くことはなく、やがて炎だけが低く揺れるようになった。
火が消えた後も、しばらく待った。熱が残っていないことを確かめてから、寄せておいた土を戻す。穴が埋まり、表面を均すと、そこには掘り返した跡だけが残った。
迷宮なら、倒した後には何も残らなかった。
セレスティーナは土を見下ろし、それから鞄の中の手帳を取り出した。入口から辿った道と倒木の位置、二体の魔物が現れたことを書き留める。倒した後に、小さな動物の身体が残ったことも添えた。
なぜ、こんな違いがあるのだろう。
考えても分からない。だが、ここに魔物がいることは分かった。
ほかにもいるのなら、ミアが森へ来る前に見つけて減らせばいい。休日の朝なら授業を休まずに済む。水と食べ物を持ち、今日のように休んで、時間を決めて戻ればよい。
帰り道、また一時間ほど歩いたところで、足の重さに気づいた。息をするように脚に魔力を通す。
ーーお前、動きすぎるな。
今度はアレクの声を思い出した。
セレスティーナは少し考える。
呼吸は少し早い気がする。脚はほんの少し重い。魔力を通せば気にならないと思った。
あと少し歩けば、寮には問題なく帰り着くだろう。
「…お水は、飲む事にいたしましょう」
見回した範囲に、膝ほどの高さの岩があったので、腰を下ろした。
水を一口含む。
頭がすっきりする気がした。
エマに渡された菓子を見つけ、そっと口を付けた。
優しい味がすると、とても幸せな気持ちになった。
食べ終えてほんのわずかな間、脚の重さを確かめる。
腕にも脚にも震えは無い。魔力も十分に残っている。
これなら、きっと大丈夫だ。
ミアにも、アレクサンダーにも、なにも心配をかけることはないと思った。
ちゃんとできている。
セレスティーナは、優しい夢の優しい人たちを想って、ほんのり微笑んだ。
何事もなく寮に戻り、エマに声をかける。
昼食には間に合った。エマに何か変わったことはなかったかと尋ねられ、森は静かで歩きやすかったと答える。帰り道は実際に静かだったし、予定どおり戻れている。
何も問題はないと思った。
週が明けても、学院の日々は変わらなかった。
朝、教室へ入ればミアが隣の席から顔を上げる。午前の授業が終わると五人で食堂へ向かい、午後にはそれぞれの課程へ分かれる。魔術科の教室まで歩く間、ミアはその日に使う教本を胸に抱えて、今日は何を習うのでしょうね、と話した。
セレスティーナは隣を歩きながら、彼女の横顔を見た。
森の道を走っていた時のように、息を切らしてはいない。後ろを振り返ることもなく、窓から入る風に髪を押さえている。
「セラ様、昨日のところ、もう一度聞いてもいいですか?」
「はい。どちらでございますか?」
教室へ着くと、ミアは教本の端へ挟んだ紙を開いた。授業の後に自分で書き直したらしく、図のそばには小さな字で疑問が並んでいる。
セレスティーナが説明すると、ミアは指先で図を辿った。
「……あ、そういうことだったんですね。こっちから考えてました」
「そちらも間違いではございません。ただ、こちらを先に確かめますと――」
「ここが分かるんですね」
ミアが顔を上げた。桜色の瞳が明るくなり、嬉しそうに笑う。
その顔を見て、セレスティーナはほっとした。
夢の中で見たミアは、こんなふうには笑っていなかった。何かを必死に見つめ、足を止めた彼女へ、黒い影が飛びかかっていた。
あの時の顔を思い出しかけて、セレスティーナは教本へ目を戻す。
今、ミアはここにいる。分からなかったところが分かって、喜んでいる。
「ありがとうございます。これなら、次は自分でできそうです」
「それは、ようございました」
セレスティーナも微笑んだ。
放課後のラウンジでは、ジークバルトが新しい実習の話をしていた。
「二人で組んで、相手を通さないようにするんだ。剣だけ見てると、横を抜けられる」
「ジークでも抜けられるんですか?」
ミアが驚くと、ジークバルトは苦笑した。
「相手も騎士科だからな。俺より上手い奴もいる」
「君、前は剣で勝てればいいって言ってなかった?」
トビアスが尋ねる。
「だから、習ってるんだろ」
「それはそうだ」
アレクサンダーが笑い、ミアもつられて声を上げた。ジークバルトは少し不満そうな顔をしたが、すぐに続きを話し始める。
セレスティーナは茶を飲みながら、四人の声を聞いていた。
森から帰った日も、こうして皆と過ごせた。今日も同じように話ができて、明日もまた、教室で会える。
鞄の中には、森で書いた手帳が入っている。倒木の位置と、二体の魔物。どちらも、ミアが出会う前に倒すことができた。
ほかにもいるかもしれない。
けれど、まだ時間はある。次の休日にも少し確かめれば、あの森を安全にできるかもしれなかった。
「セラ様、どうぞ」
ミアが菓子の包みを寄せてくれる。
「今日は、これが一番美味しいと思います」
「まあ。では、そちらをいただきますね」
選んでくれた菓子を受け取ると、ミアは満足そうに笑った。
あの顔になってほしくない。
セレスティーナは菓子を小皿へ置いた。今、目の前にある笑顔を、漫画の中で見た、怯えた必死な顔にしたくなかった。
森にいるものを、先に見つけて減らす。それなら、自分にもできる。
「美味しゅうございますね」
一口食べて伝えると、ミアは「でしょう?」と嬉しそうに頷いた。
次の休日も、水と菓子を忘れずに持っていこう。休む時間を取り、昼食までには戻ればよい。
セレスティーナは、ミアが勧めてくれた菓子を、もう一口いただいた。
いつもと変わらない、とても、優しい味だった。
次の休日にも、セレスティーナは森へ行った。
前回歩いた道を辿り、倒木まで進む。そこから少しだけ先を調べたところで、四つ足の魔物を見つけた。木の根元で何かを嗅いでいたので、気づかれる前に倒すことができた。
前回と同様に、残った小さな動物の死骸を焼き、土の魔法で埋めた。
先週の二体で終わりではなかったらしい。
次の週は、同じ辺りに二体いた。
セレスティーナは手帳に道順と、魔物を見つけた場所を書き留めた。森の奥から来ているのなら、その方向を調べればよい。数が増える前に見つけられるよう、少しずつ探索する範囲を広げた。
休日の朝に出かけ、昼には戻る。倒した後の死骸も、その都度焼いて埋めた。食事も補食も、エマに渡されたものをきちんといただいた。最初の日に決めた帰る時刻も守っている。
以前より慎重にできていると、セレスティーナは思った。
ただ、魔物だけは減らなかった。
先週見つけた場所へ行けば、別の足跡がある。そこから先へ進むと、また新しい魔物に出会う。奥を調べているはずなのに、どこまで行けば終わるのかは分からなかった。
ある朝、細い沢を越えた先で、背の高い魔物が現れた。
前脚が長く、木々の間をすり抜けるように走る。セレスティーナは氷の矢を放ったが、枝に遮られた。次の一撃は肩に当たったものの、魔物は勢いを落とさない。
横へ退いた時、伸びてきた爪が左の袖を裂いた。
布の下で、腕が熱くなる。
セレスティーナは魔物の足元へ地の術を放った。盛り上がった土に前脚を取られた一瞬を逃さず、開いた脇腹へ氷の矢を撃ち込む。魔物は沢のほとりへ倒れた。
周囲に動くものがいないことを確かめ、セレスティーナは袖をまくった。腕には浅い傷が三本ある。血は出ていたが、指は動く。
「この程度でしたら……」
治癒魔法をかけると、開いた皮膚がふさがった。残った血も、水の術で洗い流す。袖の裂け目だけは元に戻らなかった。
初めて森で怪我をした。ミアたちに話せば、きっと心配するだろう。
セレスティーナはもう一度腕を確かめた。傷はふさがっている。今は出血もしていない。以前の迷宮のように、帰れなくなるほど魔力を使ったわけでもなかった。
「……問題ございませんね」
怪我をしたことより、森に魔物がいることをどうにかしなければならない。セレスティーナは探索を切り上げ、沢の位置を手帳に記してから帰った。
寮で袖を見たエマには、枝に引っかけたと伝えた。あの辺りは実際に枝が多い。エマは破れた服を受け取り、次からはもう少し丈夫なものを用意しましょうかと言った。
「お手数をおかけいたします」
「これも仕事でございます。お嬢様、お腕は?」
セレスティーナは袖を上げて見せた。肌には傷がない。
「何ともございません」
「……それなら、ようございます」
エマはそう答えたが、袖の裂け目をもう一度見ていた。
それからも、森へ入る休日が続いた。
魔物が現れる場所は一定しない。倒木の近くで見つける日もあれば、沢より奥まで歩いて、ようやく足跡を見つける日もある。討伐して帰り、次の週に行けば、また別の気配がした。
巣があるのだろうか。あるなら、もっと奥に違いない。
そう思って進むほど、出会う魔物は手強くなった。最初のように、見つけてすぐ倒せるものばかりではない。茂みを盾に近づいてきたり、矢を受けても止まらなかったりする。
一度、後ろ足で跳ねた魔物を避けきれず、脚に傷を負った。血を止めて皮膚を治し、帰る前には歩き方も確かめた。いつもどおり歩けたので、その日も昼食までに戻った。
手帳には、歩いた道と魔物を見つけた場所が増えていく。身体に残る傷はなかった。探索着のほころびが増えるたびにエマの手を煩わせるのは申し訳なかったが、衣服は直してもらえる。
ミアたちにまで心配をかける必要はないだろう。
四月も終わりに近づいた休日、セレスティーナはこれまでの記録を見直した。
奥へ進むにつれ、魔物のいた場所が遠ざかっている。そう考えていたが、書き留めた印を辿ると、そうとも言い切れなかった。先週は沢の向こうで戦った。けれど、その前には倒木の手前でも足跡を見ている。
気になって、帰り道はいつもよりゆっくり歩いた。
森の入口に近いところは、明るく、鳥の声もする。散策に来た生徒のものらしい靴跡が、柔らかい土に残っていた。
その脇に、別の跡があった。
セレスティーナはしゃがみ込む。深く食い込んだ四つの爪。歩幅は広く、土の崩れ方も新しい。
前にここを通った時には、なかったはずだ。
顔を上げると、木々の間から学院の建物が見えた。




