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9-3 いるはずのないもの

翌日の放課後、セレスティーナはミアと一緒にラウンジへ向かった。


午前の教室でも、午後の魔術科でも、ミアはいつも通りだった。教本の分からないところを尋ね、実習の説明を聞きながら少し緊張して、それでも授業が終わる頃には、次は自分でもできそうだと笑っていた。


昨夜、夢の中で見た顔とは違う。


セレスティーナは隣を歩くミアを見てから、廊下の窓へ目を向けた。建物の向こうに、木々の梢が見える。


あの森だった。


朝から何度か思い出そうとしたが、漫画の続きは分からないままだった。ミアが森へ入った理由も、魔物が現れた理由も、何かと一緒に忘れてしまっている。


ラウンジには、アレクサンダーとトビアスが先に来ていた。ミアが菓子の包みを開いているうちに、ジークバルトもやってくる。


「明日は休みだし、今日はもう少し剣を振っていこうかと思ったんだけどな」


「それで、お菓子にしたんですか?」


ミアが尋ねると、ジークバルトは笑った。


「先にこっちへ来た」


「では、残しておいてよかったですね」


セレスティーナも微笑み、茶器を置いた。四人が揃ったところで、なるべく何気ない調子を心がけて口を開く。


「そういえば、学院の裏には森がございますね。あちらは、どのような場所なのでしょう」


「裏の森?」


ジークバルトが聞き返した。


「散策などで入る方はいらっしゃるのかと思いまして」


「ああ、手前の方ならいるんじゃないか。遠くまで行くような場所でもないけどな」


「魔物は?」


菓子へ伸ばしかけていたジークバルトの手が止まった。


「いないだろ。いたら散策どころじゃない」


トビアスも顔を上げる。


「学院で魔物がいるのは、地下の迷宮だけだよ。裏の森に出たなんて話は聞いたことがない」


「そうでございますか」


セレスティーナは頷いた。やはり、普通ならばいないのだ。


それなら、夢に見た魔物はどこから来たのだろう。初夏までに、何かが変わるのだろうか。


「どうして急に森のことを?」


トビアスに尋ねられ、セレスティーナは窓へ目を向けた。


「先ほど廊下から見えましたので。学院にも、まだ歩いたことのない場所があると思いまして」


あの森には、まだ足を踏み入れたことがない。まずはどんな場所なのか、確かめてみたかった。


「お前、迷宮だけじゃ足りないのかよ」


アレクサンダーが呆れたように言う。


「散策のお話でございます」


「ならいいけど。奥まで行って迷うなよ」


「承知いたしました」


「道を外れなければ、帰ってこられると思うぞ」


ジークバルトが付け加え、今度こそ菓子を取った。ミアは窓の方を見ながら、もう少し暖かくなったら気持ちよさそうですね、と言った。


セレスティーナは、膝の上で指を重ねた。


初夏の木漏れ日の下を走っていた、ミアの姿が浮かぶ。すぐに目の前の彼女へ視線を戻すと、ミアは菓子の包みをこちらへ寄せてくれた。


「セラ様も、どうぞ」


「ありがとうございます」


差し出された菓子を受け取り、微笑み返す。


漫画と違うことは、すでにたくさんあった。森に魔物がいないのなら、あの場面も起きないのかもしれない。


明日は休日だ。


午前中だけ、歩いてみよう。何もいなければ、それで安心できる。


セレスティーナは茶を一口飲んだ。向かいでは、アレクサンダーがジークバルトに午後の実習の話を聞いている。ミアも身を乗り出し、剣の持ち方を変えるだけでそんなに違うのですか、と尋ねていた。


休日の朝、セレスティーナはいつもより早く目を覚ました。


エマが運んできた朝食を食べ、昼までに戻ると告げてから着替える。選んだのは散策用の服ではなく、夏の迷宮演習で使った探索着だった。


「森へお出かけになるのでしたね」


「はい。少し歩いてまいります」


エマは靴紐を結び直し、水筒と小さな紙包みを渡してくれた。


「こちらもお持ちください。お昼までにはお戻りになるのでしょう?」


「ありがとうございます。戻りましたら昼食をいただきます」


「承知いたしました」


エマは身支度を終えると、一歩下がってセレスティーナを見た。何か言いたそうにも見えたが、最後には「お気をつけて」と送り出してくれた。


森を調べるのは、今日が初めてだ。魔物がいると決まったわけではない。午前中だけ歩き、何も見つからなければ帰る。セレスティーナは部屋を出る前に、もう一度そう決めた。


学院裏の森には、建物の脇から続く道があった。木々の間に朝の光が差し、入口に近いところでは鳥の声も聞こえる。地面には人の靴跡が残っていた。散策に来る生徒がいるというジークバルトの話は本当らしい。


セレスティーナは道を外れずに進んだ。ときおり振り返り、帰る方角と目印になる木を確かめる。迷宮のように階層も地図もないのだから、帰り道を見失う方がよほど困る。


迷宮探索をしていた夏は、早く進めることが一番だった。九階層にたどり着くためにと時間を決めることはなかった。


今日は、あの時とは違う。


水も食べ物も持ってきた。時間を決めて帰るつもりだし、九階層へ続く階段のようなものを見つけても、下りはしない。


「……森に階段はございませんけれど」


小さく呟いて、自分でも少しおかしくなる。


道は緩やかな坂になった。枝葉が濃くなり、朝の光が細くなる。一時間ほど歩いていて、ふと呼吸が速くなっていることに気づいた。休むほどでは無い。足もまだ十分に動く。


そこまで考えて、


ーー動けなくなる前に休んでください。


ミアの声が脳裏をよぎった。


セレスティーナは歩みを緩めた。


「十分、休みましょう」


少し考えて、道を少し外れた倒木に腰を下ろした。


エマが持たせてくれた水を少し飲む。


しばらくすると呼吸が穏やかになったのがわかった。


周囲はのどかな鳥の鳴き声が響き、風に揺れる葉擦れの音がする。少し高くなった日差しが、木々の隙間から木漏れ日を落としている。


冬の休みからしばらくは運動を制限されていたが、今では問題なく歩けそうだ。


もう一度休むまで奥に入っても、戻る体力は十分に残せるだろう。


セレスティーナは立ち上がり、再び小道の奥へ向けて歩みを進めた。足元の湿った土を確かめるように足を運ぶ。


しばらくして、ふと立ち止まった。


先ほどまで聞こえていた鳥の声が、いつの間にか遠くなっていた。


風が止んだわけではない。葉は揺れている。それなのに、近くの茂みからは何も聞こえない。


セレスティーナは道の先へ目を凝らした。倒木が一本、行く手を横切っている。その向こう側の土が、大きくえぐれていた。


散策する生徒がつけた跡には見えない。


引き返すなら今だろう。入口からここまで、十分に歩いた。魔物の姿はまだ見ていない。今日のところは森の様子が分かっただけでも、成果と言える。


そう考えた時、倒木の向こうで枝が折れた。


低い唸り声がする。


黒い獣が、木の陰から姿を現した。


四つ足で、狼に似ている。だが背は不自然に盛り上がり、前脚の爪が土へ深く食い込んでいた。口を開くと、歯の隙間から黒ずんだ涎が落ちる。


セレスティーナは息を止めた。


夢で見たものと、まったく同じ姿ではない。それでも、迷宮で何度も向き合った相手と同じ気配だった。


魔物が倒木を蹴った。


セレスティーナは横へ退き、右手を上げる。氷の矢が獣の肩を貫いた。着地を崩した魔物は、それでも止まらず、口を開けて向かってくる。


速い。


二本目を目へ放つ。魔物が頭を振ったところへ、三本目を首筋に通した。黒い身体が道の端へ倒れ、土を掻いた脚が、やがて動かなくなる。


しばらく距離を保ったまま見ていた。再び起き上がる様子はない。


「……本当に、いらしたのですね」


セレスティーナが倒木のそばへ近づくと、獣の身体から黒い靄のようなものが立ち上った。


迷宮で魔物を倒した時にも、似たものを見たことがある。だが、今度は身体が消えなかった。盛り上がっていた背が低くなり、土へ食い込んでいた爪が縮む。黒い影が薄れた後には、小さな獣が横たわっていた。


茶色い毛と、細い脚。先ほど向かってきたものより、ずっと小さい。


セレスティーナは足を止めた。


「……消えないのですね」


獣は動かなかった。氷の矢が貫いたところには傷が残り、毛の間に血が滲んでいる。近づいて確かめても、もう魔物の気配は感じられなかった。


元から、この獣だったのだろうか。


セレスティーナは少し考えたが、答えは分からない。迷宮の魔物とは違う、ということだけは確かだった。


森に魔物はいない。


昨日トビアスはそう言った。けれど、現にここにいた。あのまま散策に来た生徒と出会っていたら、どうなっていたのだろう。


初夏、ミアがこの森で危険に遭う。


夢で見た場面を思い出すと、黒い影へ向かって声を上げた時の感覚まで戻ってきた。まだ四月だ。あの場面までには時間がある。


今日の一体は、先に見つけられた。


セレスティーナが屈もうとした時、別の方角で茂みが揺れた。


風に葉が擦れる音とは違う。重いものが枝を押し分け、ゆっくりと歩いている。


セレスティーナは身を起こし、右手を上げた。


一体では、なかった。


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