9-2 夢の森
プロムから数日が過ぎ、学院では新年度の授業が始まった。
年度末も午前の補講は続いていたから、登校する朝の支度に変わりはない。ただ、セレスティーナが向かう教室は、去年より一つ上の階になっていた。階段を上がる途中、開いた窓から風が入り、制服の裾を揺らした。
教室の扉を開けると、見慣れた顔がいくつもこちらを向いた。
「セラ様、こちらです!」
窓際で、ミアが手を振っている。その前ではジークバルトが椅子の背に腕をかけ、トビアスと話していた。アレクサンダーも顔を上げる。
「おはよう。そこ、空いてるぞ」
「おはようございます、殿下。皆様も」
ミアの隣へ鞄を置く。新しい教室は窓が大きく、机の上まで朝の光が届いていた。
二年次は自由席になった。どこへ座るか相談した覚えはないのに、五人は自然とこの辺りに集まっている。以前なら声をかけるために席を立っていたが、今はミアが隣にいて、前の三人も振り向けば話せる距離だった。
「午後は、別の教室へ行くんですよね」
ミアが時間割を広げた。午前には共通課程の科目が並び、午後には魔術科の授業が記されている。
「はい。魔術科は東棟でございますね」
「場所は分かるんですけど、時間を間違えそうで。午前の授業が終わっても、ここで待ってしまいそうです」
「ミア様がお忘れでしたら、わたくしがお声をかけます」
「お願いします。セラ様も忘れていたら、私が言いますね」
「まあ。それなら安心でございますね」
二人で笑っていると、ジークバルトが振り返った。
「二人とも忘れたら、俺が連れていけばいいのか?」
「ジークは訓練場でしょう?」
「途中までは一緒だろ」
「それで君まで遅刻しないでね」
トビアスが言い、ジークバルトは「しないって」と笑った。
やがて教師が入ってきた。セレスティーナは新しい教本を開き、日付を書き込む。隣ではミアが筆記具を揃え、前の三人もこちらへ向けていた椅子を戻した。
窓から見える庭は去年と少し違っていた。それでも、授業が始まるまでのひとときは、いつもと同じだった。
昼になると、五人は揃って食堂へ向かった。
セレスティーナの前には、小さなパンと温かなスープ、魚料理の皿がある。付け合わせの野菜も、食べやすい量にしてもらった。初めは料理を減らしていただくことが申し訳なかったが、残さず食べられるならその方がよい、と教わっている。
向かいでは、ジークバルトが午後の実習について話していた。
「今日は最初だから、剣の扱いを見てもらうらしい」
「一年次にも見てもらっていたでしょう?」
ミアが尋ねると、ジークバルトは頷いた。
「あれは全員の授業だっただろ。騎士科だと、もう少し細かく見てもらえるんだ」
「それで、朝からあんなに楽しそうだったんですね」
「分かるか?」
「分かりますよ。教本を開くより、剣を持つ方が嬉しそうです」
アレクサンダーが吹き出した。ジークバルトも否定せず、肉を一切れ口へ運ぶ。
「政務科は何をなさるのですか?」
セレスティーナが尋ねると、トビアスが鞄から薄い冊子を出した。
「最初は領地の収支を見るらしいよ。授業用の資料をもらった」
「昼飯の時くらいしまっておけ」
アレクサンダーが言う。
「殿下が、午後は何をするんだって聞いたんでしょう」
「朝に聞いたんだよ」
「今、答えを見つけたから」
トビアスは平然と冊子をしまった。ミアが笑い、セレスティーナもつられて頬を緩める。
スープを飲んでから、魚を小さく切り分けた。柔らかく火が通っていて、口へ運ぶとほろりと崩れる。話を聞きながら食べているうちに、皿の上には最後の一切れだけが残っていた。
「そうだ。今日は、こちらにしたんです」
ミアが小さな包みを卓へ置いた。
開かれた包みの中には、丸い焼き菓子が並んでいる。表面には細かく刻んだ木の実が散り、蜂蜜の甘い香りがした。
「昨日とは違うお菓子でございますね」
「はい。これは柔らかくて食べやすいそうなので、お願いしてみました」
もともとは、セレスティーナが食事の合間にも何か食べられるように、とミアが用意してくれるようになったものだった。初めは二人で分けていたが、ジークバルトが一つもらい、アレクサンダーも手を伸ばし、いつの間にか五人で食べるようになっていた。
包みも、最初より少し大きくなっている。
手配や支払いについてはサンティエ家とやり取りをしているらしいが、セレスティーナは詳しく知らない。一度、毎日のようにいただいてよいのかと尋ねたところ、アレクサンダーに呆れた顔をされた。
「菓子くらいで、そんなに気にするなよ。俺たちも食ってるだろ」
ミアも、皆で食べた方が楽しいから、と笑った。
それ以来、セレスティーナは礼を言って、美味しくいただくことにしている。
「今日は木の実か」
アレクサンダーが包みを覗き込んだ。
「蜂蜜も入っています。アレク様、昨日の果物のお菓子も気に入ってましたよね」
「うまかったな」
「最後の一つ、取ってましたものね」
「お前が、もういらないって言ったからだろ」
「少し考えていただけです」
「食べるか聞いたら、首を振ったぞ」
「お茶を飲んでから考えようと思ったんです」
ジークバルトが笑い出した。
「それは分からないだろ、ミア」
「分かってます。だから今日は、先に取ります」
ミアは一つ選び、小皿へ置いた。アレクサンダーも笑いながら手を伸ばす。
セレスティーナは最後の魚を食べ、フォークを置いた。空になった皿へ目を落としていると、アレクサンダーと視線が合う。彼は一度皿を見てから、小さく頷いた。
どことなく満足そうだった。
「お前も食べるか?」
菓子の包みをこちらへ寄せてくれる。
「はい。いただきとうございます」
「セラ様、こちら、あまり硬くないですよ」
ミアが、自分の菓子を割って見せてくれた。セレスティーナも一つ受け取り、少しだけかじる。
蜂蜜の甘さと、木の実の香りが広がった。
「大変美味しゅうございます」
「よかった。次にお願いする時も、これを入れてもらいますね」
ミアの顔が明るくなる。その隣で、ジークバルトが二つ目に手を伸ばし、トビアスに「皆の分を残してね」と言われていた。
「まだあるだろ?」
「午後にも食べる分だよ」
「ああ、そうか」
ジークバルトは素直に手を引っ込めた。ミアが残った菓子を確かめ、放課後にも一つずつありますね、と包みを閉じる。
セレスティーナは菓子を持ったまま、四人の顔を順に見た。
去年は、昼になればミアを探していた。声をかけてもよいだろうかと迷ったこともある。今は午前の授業が終わると、誰からともなく食堂へ向かい、こうして同じ卓を囲む。
ミアが笑っている。殿下も、ジークバルト様も、トビアス様も。
その中で、自分も菓子をいただいていた。
「セラ様?」
呼ばれて顔を上げる。
「お茶、もう少し飲みますか?」
「……はい。ありがとうございます」
ミアが茶器を寄せてくれた。セレスティーナは礼を言い、残った菓子をもう一口食べた。
昼食を終えると、午後の授業へ向かう生徒たちが、廊下でそれぞれに分かれていった。
「じゃあ、また後で」
ジークバルトが訓練場の方へ歩き出す。トビアスはアレクサンダーを促し、反対側の階段へ向かった。
「終わったら、いつものところでな」
アレクサンダーが振り返って言った。
「はい、殿下」
「ジークが遅かったら、お菓子を食べて待ってますね」
ミアが言うと、少し先にいたジークバルトが振り向いた。
「俺の分は残しといてくれよ!」
「授業が終わったら、ですよ」
ミアは念を押し、笑いながらセレスティーナの隣へ戻ってきた。
「行きましょう、セラ様」
「はい」
午後は別々の場所で学ぶ。それでも、終わればまた会える。皆様が何を習われたのか聞いて、ミアと一緒に菓子の包みを開くのだろう。
セレスティーナは鞄を持ち直した。
明日も、きっと同じように席へ向かい、昼には五人で食事をする。
そう思うだけで、足取りが少し軽くなった。こんなに長く続いている夢なのだから、もう少し先を望んでもよいだろうか。
明日も、明後日も、その次の日も。
ミアがこちらを振り返る。セレスティーナは微笑み返し、一緒に東棟へ向かった。
放課後、ラウンジにはまだ三人の姿がなかった。
ミアと並んで座り、午後に配られた資料を広げる。魔術科で閲覧できる文献の一覧には、セレスティーナが読んだことのない題名もあった。
「セラ様、これ、全部読むんですか?」
「いえ、まずはこちらを拝見したいと思っております」
指で示すと、ミアが覗き込んだ。
「……三つ?」
「はい。こちらも気になるのですが、先に三つを」
「よかった。全部って言われるかと思いました」
ミアが笑ったところへ、アレクサンダーとトビアスがやってきた。
「何の話だ?」
「セラ様が読みたい本の話です」
「もう増やすのかよ」
「今まで拝見したことのない資料でございますので」
セレスティーナが答えると、トビアスが一覧へ目を向けた。
「あとで、読んだ話を聞かせてもらえる?」
「もちろんでございます」
「僕もそれは少し気になってたんだ」
隣からアレクサンダーも覗き込み、ミアが二人に見えるよう資料を寄せた。
しばらくして、ジークバルトが少し髪を乱して入ってきた。ミアが包みを持ち上げると、彼はほっとした顔をする。
「残ってた」
「ちゃんと残してありますよ」
「ありがとう。腹が減った」
「先にお茶を飲んだら?」
トビアスに言われ、ジークバルトは椅子へ腰を下ろした。剣を持つ位置を直された、と話し始める彼へ、皆が顔を向ける。
授業は別々だったのに、話すことは前より増えた。
セレスティーナはミアから受け取った菓子を小皿へ置き、ジークバルトの話に耳を傾けた。
その夜、夢の中で紙をめくる音がした。
白いページの向こうに、木々が広がっている。夏の日差しが枝葉の間から落ち、細い道にまだらな模様を作っていた。学院の建物が、木立の隙間に小さく見える。
その道を、ミアが走っていた。
何かから逃げている。振り返った彼女の前へ、黒い影が飛び出した。鋭い爪。人の背丈ほどもある身体。迷宮で見たことのある、魔物の姿だった。
「ミア様!」
呼んだはずなのに、声は届かない。
ミアの足が止まり、影が跳ねたところで、景色が途切れた。
セレスティーナは寝台の上で目を開けた。
窓の外はまだ暗い。胸元へ手を当てると、鼓動が速かった。今のは自分が森を歩く夢ではない。ちーちゃんに借りた漫画の、見覚えのある場面だった。
初夏の学院裏の森。ミアが魔物に襲われる。
そこまでは、覚えている。けれど、なぜミアが森へ入ったのか、あの魔物はどこから来たのかが分からない。ページの前後を思い出そうとすると、木漏れ日と、振り返ったミアの顔ばかりが浮かんだ。
結局、誰が助けに来たのだったろう。
「……困りましたね」
以前も、漫画で見た場面を夢に見たことがある。迷宮の九階層へ一人で降りた、あの夏だ。今回はまだ、森に何がいるのかさえ分からない。
セレスティーナは寝台を抜け、窓辺へ寄った。夜明け前の庭は静かで、学院裏の森まではここから見えない。
今日、ミアは菓子を分けてくれた。午後の授業へ一緒に向かい、放課後には皆で話した。帰り際には、明日もまた、と笑っていた。
その声は、まだ覚えている。
セレスティーナは胸元へ添えた手を握った。漫画の場面を思い出そうとしても、黒い影が跳ねた先がどうしても出てこない。
もう一度、寝台へ戻った。
今すぐできることはなかった。明日、まずは森について聞いてみよう。ミアがあそこへ入る理由も、魔物が現れる理由も、何か分かるかもしれない。
目を閉じると、昼食の卓で笑っていたミアの顔が浮かんだ。
明日も、あの席でお話しできる。
セレスティーナはそう思い直した。けれど、眠るまでにはしばらくかかった。




