8-3 プロムのせい
学院のプロムは、少しくらい失敗してもよい場所なのだという。
サンティエ家の家庭教師は、ミアにそう教えてくれた。貴族の子女が本格的な社交界へ出る前に、挨拶やダンスを経験するための催しでもある。まだ完璧に踊れなくても、一人で参加しても、少し足を間違えても構わない。
「ですが、王太子殿下から正式にエスコートを受けるとなれば、話は別でございます」
先生は、その時だけ声を改めた。
アレクサンダーが誰を伴って入場するかは、ただ一緒に会場へ入るというだけの話ではない。たくさんの人に見られ、色々な意味に取られる。王太子の婚約者がいるなら、なおさらだった。
だから昨日、セレスティーナから「殿下は、ミア様をエスコートなさるものと思っておりました」と言われた時、ミアは反射的に声を上げた。
無理。絶対に無理だ。
「私、そんなつもりで練習していたわけでは……」
あんな言い方までしてしまった。アレクサンダーは誘ってもいなかったのに。
その夜、寝台に入ってからもミアは何度か布団の中で身じろぎした。王太子に正式にエスコートされるなんて、とんでもない。断ってよかったはずだ。明日はセレスティーナとアレクサンダーが一緒に入場する。それが自然で、誰も困らない。
なのに、胸の辺りが少し痛かった。
一週間、練習室でアレクサンダーと踊ったことを思い出す。足を間違えそうになると歩幅を合わせてくれた。「できたな」と笑われた時は、嬉しくて次の足が分からなくなった。
ミアは布団を鼻先まで引き上げた。
――緊張してるのかな。
明日は大勢の前で踊るのだ。きっと、そのせいだと思うことにした。
翌朝は、サンティエ家から侍女が来てくれた。
ミアが迷っていた髪飾りも、ドレスに合わせて選んでくれる。髪を結い、淡いピンクのドレスを着せてもらって鏡の前に立つと、いつもの自分だと分かっているのに、誰か別の人のようにも見えた。
「よくお似合いです」
「ありがとうございます。……この靴で、ちゃんと踊れるでしょうか」
「昨日もお試しになったのでしょう?」
「はい。でも、昨日より裾が長く感じます」
侍女に見守られながら、部屋の中を何歩か歩いた。裾は踏まない。靴も脱げない。何度確かめても、胸の落ち着かなさだけは変わらなかった。
アレクサンダーたちと合流するまで、ミアは何度も足元を見た。ダンスの練習をした時より、ずっと緊張していたかもしれない。
けれど、向こうからセレスティーナと並んで歩いてくるアレクサンダーを見つけた時、その緊張を少し忘れた。
「わあ……お似合いです」
淡い色の正装をしたアレクサンダーと、濃紺のドレスをまとったセレスティーナ。セレスティーナの銀髪が青い布地に映えて、二人で並ぶ姿はまるで絵のようだった。
手を振ると、アレクサンダーがこちらを見た。
「……かわいいな」
「えっ」
ミアは立ち止まった。顔が熱くなる。髪飾りを選んでもらってよかった、と急に思ったが、そんなことを言うのもおかしい。何と答えればいいか分からないままセレスティーナを見ると、彼女も嬉しそうに笑っていた。
「本当に。ミア様によくお似合いです」
「ありがとうございます……。セラ様も、すごく綺麗です」
近くで見ると、セレスティーナのドレスには細かな刺繍が施され、サファイアが飾られている。アレクサンダーの襟元には、彼女の瞳と同じ紫の宝石があった。
「お二人の宝石、お互いの瞳のお色なのですね」
口にすると、アレクサンダーはなぜか襟元へ手をやった。セレスティーナは「公爵家で用意してくださったものです」と教えてくれる。本人たちはいつも通りに話しているけれど、今日の装いは二人で一つのようだった。
それから、ジークバルトがセレスティーナの歩き方の違いに気づいた。重いドレスを着るため、身体強化を使っているらしい。皆が次々と心配するのを聞きながら、ミアは一週間前にセレスティーナが練習室で踊った姿を思い出した。
あれだけ綺麗だったのに、今日はもっと綺麗に踊るのだろうか。
入口で侍従に案内され、ミアはジークバルト、トビアスと先に広間へ入った。王太子と婚約者の二人は、最後に入場するため別の部屋で待つという。
広間では、すでに生徒たちが思い思いに過ごしていた。友人同士で衣装を褒め合う人、飲み物を手に談笑する人、菓子の並んだ卓を覗いている人。笑い声を聞いていると、先生の言う通り、失敗しても大丈夫なのかもしれないと思えてくる。
それでもミアは、壁際に立ったまま、練習した足順を頭の中で繰り返していた。
最初は右足。次に左。回る時は、アレクサンダーの足を見ない。
「緊張してる?」
トビアスに尋ねられ、ミアはうなずいた。
「少し。でも、練習したので大丈夫です」
「足元を見る回数も減ったしな」
ジークバルトが笑う。
「今日は踏みません」
「俺の足なら踏んでもいいぞ」
「踏みませんってば」
言い返していると、広間の空気が変わった。
扉が開き、アレクサンダーとセレスティーナが揃って入ってくる。ミアは今しがた繰り返していた足順を、すっかり忘れてしまった。
二人が並んで歩くだけで、周りの生徒たちが道を空ける。アレクサンダーがセレスティーナの手を取り、彼女はそれに応えて広間の中央へ向かった。
最初の曲が始まる。
二人が動き始めると、ミアは思わず息を呑んだ。
一週間前にも上手だと思った。けれど今日は、重いドレスをまとっていることが信じられないほど、セレスティーナの足取りが軽い。青い裾が広がり、灯りを受けた銀髪が揺れる。アレクサンダーも、その動きに少しも迷わずついていく。
二人とも、本当に綺麗だ。
セレスティーナは楽しそうに笑っている。アレクサンダーは、彼女を見たまま何かを言った。少し離れているミアには聞こえない。昔から何度も一緒に踊ってきた二人なのだと、見ているだけで分かった。
その時また、胸がちくりとした。
お似合いだと思うのは本当だった。セレスティーナのことが好きだし、二人のダンスを見られて嬉しい。それなのに、胸の痛みはしばらく消えなかった。
ミアはそっと胸元に触れる。
「……ドレスがきついのかな」
「何か言った?」
隣のトビアスに聞かれ、ミアは首を振った。朝はちょうどよかったはずだが、慣れない服を着て緊張している。きっと、そんなところだろう。
一曲が終わり、広間に拍手が満ちた。
アレクサンダーとセレスティーナが戻ってくる。ミアはセレスティーナへ「とても綺麗でした」と言おうとして、こちらへまっすぐ歩いてくるアレクサンダーに気づいた。
「ミア」
「えっ?」
顔を上げると、アレクサンダーが手を差し出していた。
「踊ろうぜ」
ミアはその手と、彼の顔を見比べた。さっきまで二人のダンスを眺めていたせいで、自分が次に踊ることをすっかり忘れていた。
「でも、私、まだ――」
「一週間練習しただろ。いいから行くぞ」
アレクサンダーがミアの手を取り、歩き出す。
「ま、待ってください。最初は右足でしたよね?」
「そうだよ」
「回るところは、三歩進んでからですよね?」
「覚えてるじゃないか」
「今、確認しないと忘れそうなんです!」
アレクサンダーが笑う。手を引かれて広間の中央へ向かううちに、ミアの胸は急に軽くなった。ついさっきまで何を気にしていたのかも、もう思い出せない。
音楽が始まる。
最初は足順を追うだけで精いっぱいだった。周りに誰がいるのかも、どれくらい進んだのかも分からない。右、左、次は回る。アレクサンダーの手の動きに合わせて、ひとつずつ足を運ぶ。
何度か繰り返すうちに、ようやく余裕ができた。
――ちゃんと踊れてる。
嬉しくなって顔を上げると、アレクサンダーがこちらを見ていた。目が合う。彼は少しからかうように笑った。
「ミア、上手くなったな」
途端に頬が熱くなる。
「い、今、話しかけないでください」
「なんでだよ」
「次が分からなくなります……!」
本当に次の足が曖昧になり、ミアは慌てて音楽を聞いた。アレクサンダーは笑いながら歩幅を緩めてくれる。
「ほら、前」
「分かっています!」
「じゃあ、足元を見るなよ」
「アレク様が話しかけるからです」
そう言い返すと、また笑われた。悔しいのに、ミアも少し笑ってしまう。
一歩、もう一歩。先週は、彼の足を踏まないことばかり考えていた。今は音楽に合わせて進みながら、手を取られていることも、近くで笑っている声も気になってしまう。せっかく顔を上げられるようになったのに、目が合うとまた足順が飛びそうだった。
胸が騒がしくて、息も少し苦しい。それでも曲が終わらなければいいのにと思った。
最後の音が鳴る。二人で足を止め、アレクサンダーの手が離れた。
ミアは自分の手を見下ろした。
「……もう終わりなんですね」
「一曲踊りきったな。ほら、大丈夫だっただろ」
「はい」
そういう意味で言ったのではない気がしたけれど、自分でも何を言いたかったのか分からない。ミアは笑って答えた。
昨日から、どうにも胸がおかしい。痛くなったり、苦しくなったり、急に軽くなったり。今はうるさいほど鳴っている。
ミアは胸元へそっと手を当てた。
「……プロムって、こんなに大変なんですね」
まだ知らなかった貴族社会のことが、たくさんあるらしい。
きっと、これは全部プロムのせいだ。




