8-2 婚約者
「…………は?」
セレスティーナがミアを見たまま、アレクサンダーは立ち止まった。隣ではミアまで「えっ」と声を上げている。
なぜミアが驚くのかはともかく、セレスティーナの発言は分からなかった。明日、自分が誰を迎えに行くかなど、考えるまでもないことだと思っていた。
「お前、何でそうなるんだよ」
「先ほどまで、お二人は楽しそうに踊っていらっしゃいましたので」
「練習してたんだろ」
「はい。ですから、明日もご一緒なのかと」
セレスティーナはごく自然に答えた。ミアは慌てて両手を振る。
「無理です! 本当に無理です!」
アレクサンダーは思わず彼女を見た。
「いや、まだ誘ってないけど」
「そういう意味ではなくて……! アレク様に正式にエスコートされて入場するなんて、私には無理です」
ミアは一息に言い切ってから、困ったように眉を下げた。
学院のプロムには、社交界へ出る前に経験を積むという意味もある。一人で参加する生徒も、友人同士で会場へ向かう生徒も珍しくない。ジークバルトとトビアスも、明日はそれぞれ単独で参加する予定だった。
だが、王太子が女性を迎えに行き、正式にエスコートして入場するとなれば話は違う。誰を選んだのか、周囲が勝手に意味を探し始める。ミアも家庭教師からそう教わっていたのだろう。
「注目されますし、その、きっと色々な意味に取られてしまいます。私、そんなつもりで練習していたわけでは……」
「分かった。分かったって」
そこまで必死に否定しなくてもいいのに、とアレクサンダーは思った。別に誘っていない。だから断られたわけでもない。それでも胸の辺りに、軽く指で押されたような感覚が残った。
「ミア様。申し訳ございません。わたくしが早合点をいたしました」
セレスティーナが頭を下げると、ミアはまた慌てた。
「セラ様が謝ることじゃありません。私がびっくりして、変な言い方をしてしまって」
「……そういうわけだから」
アレクサンダーはセレスティーナへ向き直った。
「お前はちゃんと来いよ。俺の婚約者なんだから」
「ミア様がお望みでないのでしたら、承知いたしました」
「ああ」
答えは得たはずなのに、妙に引っかかった。ミアが望んでいたらどうするつもりだったのか。尋ねても、セレスティーナは不思議そうな顔をするだけだろう。
「明日は遅れるなよ」
「はい。支度を整えてお待ちしております」
いつも通りの丁寧な返事を聞いて、アレクサンダーは話を終わらせた。ジークバルトが横で何か言いたそうにしていたが、先に歩き出すことにした。
翌日、アレクサンダーは約束の時刻にセレスティーナの部屋を訪れた。
王宮から届いた正装は淡い白灰色で、襟元には紫の宝石が留められている。支度を手伝った者から、婚約者の瞳の色に合わせたものだと聞いた時には、そういうものかと思って身につけた。今になって、自分がそれをつけて彼女の扉の前に立っていることが少し気になった。
扉が開く。
銀髪のセレスティーナが、濃紺のドレスをまとって立っていた。
重厚な生地を幾重にも重ね、金銀の刺繍とサファイアで飾った、公爵令嬢にふさわしい装いだった。深い青はアレクサンダーの瞳の色に近い。何年も前から婚約者として夜会に並んできた彼女が、一瞬だけそこにいるように見えた。
けれど、セレスティーナはアレクサンダーと目が合うと、柔らかく笑った。
「お待たせいたしました、殿下」
「……よく似合ってる」
用意していた挨拶より先に、言葉が出た。自分で口にしてから少し驚く。
セレスティーナも目を瞬いたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。殿下も、大変よくお似合いでございます」
「……ああ」
エスコートのため近づいて、今度は肩と腕の細さが目に入った。
冬季休暇の後、以前よりずっと痩せて戻ってきた姿は覚えている。食事の量が増え、顔色もよくなった。だから、この一か月で随分戻ったのだと思っていた。制服では手首くらいしか見えなかったが、肩を出すドレスを着ると、まだ細いことがよく分かる。
元の身体に合わせて作られたはずのドレスも、今は生地の重みばかりが目立った。
――大丈夫なのか、これ。
そう思う前に綺麗だと思ったことが、アレクサンダーには妙に引っかかった。
「殿下?」
「いや。行こう」
セレスティーナが手を重ねる。廊下へ出ると、彼女はドレスの裾を乱さず、ゆっくりと隣を歩いた。
ミアたちとは会場へ向かう途中で合流した。
先にこちらへ気づいたミアが、顔を輝かせて手を振る。淡いピンクのドレスは軽やかで、桜色の瞳によく似合っていた。髪には小さな飾りが留められている。昨日、迷っていると言っていたものだろう。
「……かわいいな」
また、考えるより先に言っていた。
ミアがぴたりと止まり、頬を赤くする。アレクサンダーも一瞬遅れて、自分の隣に婚約者がいることを思い出した。
――待て。俺、セレスティーナの前で何を言ってる?
だが、当のセレスティーナはミアを見て、心から嬉しそうに笑った。
「本当に。ミア様によくお似合いです」
「ありがとうございます……。セラ様も、すごく綺麗です」
「まあ。嬉しゅうございます」
ミアの視線が、セレスティーナの胸元のサファイアと、アレクサンダーの襟元とを行き来した。
「お二人の宝石、お互いの瞳のお色なのですね」
「……そうだな」
アレクサンダーは自分の襟元へ触れた。セレスティーナもサファイアへ目を落とし、「公爵家で用意してくださったものです」と穏やかに答える。ミアは二人を見比べて、また「お似合いです」と笑った。
何と返せばいいのか分からないうちに、ジークバルトがセレスティーナへ目を向けた。
「……セレスティーナ嬢、今日やけに歩き方安定してないか?」
「身体強化を少々」
「身体強化?」
アレクサンダーが聞き返すと、セレスティーナは裾を少し持ち上げた。
「こちらのドレスは布地が幾重にも重なっておりますので。足腰に、軽く力を添えております」
「そんなことをしないと動けない服を着ているのですか」
トビアスが呆れた顔をする。
「あなた、そんなものまで使えたのですか」
「ええ。騎士の方が用いるものを、簡単にですが」
「簡単に、って……」
ジークバルトが彼女の足元を見た。セレスティーナは重い裾をまとったまま、普段より安定して立っている。
「無理に魔力を使ってないだろうな」
「ほんの少しでございます。持続させることにも問題はございません」
「その言い方は聞き飽きた」
アレクサンダーが言うと、セレスティーナは顔を上げた。
「今日は補助程度にしろ。少しでも普段と違ったら、問題になる前に言えよ」
「……承知いたしました」
一呼吸置いてからの返事だったが、以前のように「問題ございません」で押し切ろうとはしない。そのことに少し安心して、アレクサンダーは会場へ向かった。
入口には案内役の侍従が立っていた。ミアたちは先に広間へ通され、アレクサンダーとセレスティーナだけが別の扉へ案内される。
王太子とその婚約者は、最後に揃って入場する。幼い頃から何度も経験してきた手順だ。アレクサンダーは侍従にうなずき、セレスティーナと待機用の休憩室へ入った。
広い室内には柔らかな椅子が並び、卓には茶と冷たい飲み物、食べやすい大きさの菓子が用意されている。扉の向こうから聞こえる人声は遠く、ここだけ夜会の始まる前のように静かだった。
セレスティーナが椅子に腰を下ろす。侍女が注いだ茶を受け取ったが、菓子には手を伸ばさない。アレクサンダーは向かいに座りかけて、彼女の腕をもう一度見た。
「ダンスに体力使うんだから、軽く食べておけよ」
セレスティーナが目を見張った。
「……殿下が、わたくしにお菓子を勧めてくださるのですか?」
「何だよ、その顔」
「いえ。以前でしたら、入場前の所作をご確認なさるかと思いまして」
「お前の所作を俺が確認する必要ないだろ」
昔のセレスティーナなら、菓子を勧められても同じように驚いたかもしれない。ただ、そこから返ってくる言葉も表情も、今とは違ったはずだ。アレクサンダーは目の前の顔を見て、ふと返事に詰まった。
銀髪も、すみれ色の瞳も、王太子の婚約者として隙のない装いも、よく知っている。なのに、華奢な腕で茶器を持ち、こちらを見上げている彼女は、記憶の中の誰とも重ならなかった。
「殿下?」
「……お、お前がそんな細い腕してるのが悪い」
「腕、でございますか?」
セレスティーナは自分の腕へ目を落とした。何か言い返されるかと思ったが、彼女は少し考えたあと、菓子皿から小さな砂糖菓子を一つ取った。
「では、いただきます」
上品に口へ運び、茶を飲む。アレクサンダーはようやく自分の杯へ手を伸ばした。
これまで、セレスティーナと二人で入場を待つ時間は気詰まりでならなかった。互いに必要なことだけを話し、あとは扉が開くのを待つ。今日も同じだけの時間が用意されていたはずなのに、彼女が二つ目の菓子をつまみ、茶器を置く頃には、案内の声がかかった。
「もうか」
「早うございますね」
セレスティーナも同じことを思ったらしい。アレクサンダーは立ち上がり、彼女へ手を差し出した。
広間の扉が開く。
ざわめきの中を、セレスティーナと並んで進んだ。周囲の視線が集まるのはいつものことだった。アレクサンダーは王太子として、彼女はその婚約者として、最初の一曲を踊る。
音楽が始まると、アレクサンダーはセレスティーナへ手を差し出した。
「行くぞ」
「はい、殿下」
手を取って広間の中央へ進む。昨日までの練習では制服だったから、ドレスをまとった彼女と踊るのは久しぶりだった。
腰元へ腕を添えたところで、アレクサンダーはわずかに手を止めた。いつもの力加減では、細い身体を押してしまいそうな気がする。かといって、緩めすぎては重いドレスを支えられない。
セレスティーナがこちらを見上げた。
「いかがなさいましたか?」
「……何でもない」
一歩踏み出す。セレスティーナは迷いなくついてきた。
練習の時より、足取りが軽い。幾重にも重なった裾が床を滑り、彼女はそれに少しも引かれずに回った。身体強化を使っていると聞いていなければ、あの細い身体のどこにこれだけの力があるのか、本気で疑ったかもしれない。
――身体強化って、ダンスが上手くなる魔法だったか?
そんなわけはない。セレスティーナ自身が、昔から上手いのだ。次にどちらへ進むかを伝える前から、身体が自然についてくる。
一度回ると、銀の髪が肩の上で揺れた。薄く化粧を施された顔はいつもより華やかで、灯りを受けた髪も、普段より光沢を帯びて見える。濃紺のドレスが翻り、その中をセレスティーナは不思議なほど軽く進んだ。
けれど、手を取れば確かに温かい。腰に添えた腕には、彼女が向きを変えるたび、わずかな動きが伝わってくる。
アレクサンダーは力加減を気にしながら、もう一度彼女を導いた。セレスティーナはぴたりとついてくる。近くで見る腕はやはり細く、片手に収まった指先も軽かった。
綺麗だ、とまた思った。
「殿下、随分お上手になられましたね」
セレスティーナが言った。
「……そうか?」
「はい」
彼女は、今朝扉を開けた時と同じように柔らかく笑った。
なぜだか、胸の奥が一度だけ妙な音を立てた。
アレクサンダーは眉を寄せる。
――なんだ、今の。




