8-1 ダンスの練習
「男性と踊ったことが、一度もないんです」
その日の午後、ミアはラウンジの卓に両手を置いて、深刻そうに言った。
年度末試験からプロムまでの一週間は、例年、準備期間に充てられる。通常の授業は終わり、午前中に二年次へ向けた補講があるだけだ。午後になると、生徒たちは衣装の確認やダンスの練習に出かけたり、友人同士でラウンジに集まったりしていた。
五人も補講を終え、いつもの卓を囲んでいる。昨夜、サンティエ家から届いていた衣装を開け、ドレスも確認できたらしい。淡い色のドレスで、寸法にも問題はなかった。ただ、衣装箱を開けたことで、プロムが一週間後に迫っているという実感まで湧いてしまったようだった。
「家庭教師の先生には、ステップを教わっています。でも、いつも一人で足を動かすか、先生に手の位置を直していただくだけで。人前で踊ったこともありません」
「じゃあ、これから練習すればいいだろ」
アレクサンダーが言うと、ミアは顔を上げた。
「練習、ですか?」
「授業は午前で終わりだし、練習室も使える。俺が相手になる」
「アレク様が?」
「他に誰がいるんだよ。ジークでもいいけど」
「俺でもいいぞ」
ジークバルトが軽く手を挙げると、ミアは二人を交互に見た。どちらが相手でも緊張しそうだ、と顔に書いてある。
「まずは、見ていただくのがよろしいかもしれませんね」
セレスティーナがそう言うと、アレクサンダーは当然のように彼女へ視線を向けた。
「なら、お前と一曲踊るか」
「承知いたしました」
二人の返事があまりにも早く、ミアは少し目を丸くした。
練習室には鏡が並び、端には使われていない椅子が寄せてあった。試験を終えた生徒たちがあちこちで練習しているため、今日は部屋の空いている時間を確かめてから来た。ジークバルトが場所を空け、トビアスが音楽を流す魔道具を準備する。その間に、アレクサンダーとセレスティーナは向かい合った。
アレクサンダーが手を差し出す。セレスティーナはその手を取り、もう片方の手を肩へ添えた。そこで一度、セレスティーナの視線がアレクサンダーの顔へ上がる。
「どうした?」
「いえ。久しぶりでございますね」
「そうだな」
音楽が始まった。
アレクサンダーが一歩踏み出すと、セレスティーナは迷いなくついていった。足を運ぶ位置も、回る速さも、次にどちらへ進むかも、確かめ合う様子がない。少し離れて踊っているのを見れば、今の二人が普段どんな会話をしているのか、想像もつかないかもしれなかった。
「……すごい」
ミアは思わず呟いた。
セレスティーナの動きは綺麗だった。背筋を伸ばしたまま、足音もほとんど立てずに進んでいく。アレクサンダーも自然に彼女を導き、曲の終わりには二人揃ってぴたりと止まった。
「セラ様、すごくお上手です!」
「ありがとうございます。幼い頃から習っておりましたので」
「俺とも何度も踊ってるしな」
アレクサンダーが手を離す。セレスティーナはうなずき、少しだけ懐かしそうに笑った。
「殿下が次にどう動かれるか、なんとなく分かるのです」
「俺も、お前がついてくるのは分かる」
ジークバルトが「さすが婚約者」と口にしかけ、トビアスに肘で軽くつつかれた。ミアは二人の動きをまだ眺めていた。
「私も、あんなふうに踊れるでしょうか」
「今日いきなりは無理だろ」
「……ですよね」
「でも、一週間ある。まずは一曲、止まらず踊れるようになればいい」
アレクサンダーが手を差し出した。ミアはその手を見つめてから、おそるおそる指先を重ねた。
さっきまでセレスティーナと踊っていた時と同じ姿勢になった途端、ミアの肩が強張る。
「近くありませんか?」
「踊るんだから、これくらいだろ」
「そうですけど……」
「足元ばっかり見るなよ。前に進めなくなるぞ」
「見ないと、足を踏んでしまいます」
「踏んでもいいから、まず動いてみろって」
よくないです、とミアは答えたが、音楽が始まったのでそれ以上は言えなかった。
最初の数歩はうまくいった。ミアがほっと息をついたところで、アレクサンダーが向きを変える。次がどちらの足だったか分からなくなり、ミアは彼の靴のすぐ横へ足を下ろした。
「わっ、ごめんなさい!」
「まだ踏んでない」
「今、踏むところでした!」
「じゃあ、次は踏まないようにすればいい」
アレクサンダーが笑う。ミアは少しむくれて、それからもう一度、彼の手を握り直した。
二度目は、回るところまで進めた。三度目には足を止めずにすんだが、終わった時にはミアの顔がすっかり真剣になっていた。
「難しいです……」
「最初よりずっとよくなったぞ」
「本当ですか?」
「本当。さっきは俺の足ばかり見てただろ。今は前を向けてる」
ミアの表情がぱっと明るくなる。
セレスティーナは椅子に座り、二人を見守っていた。アレクサンダーが何か言うたびに、ミアは困った顔をしたり、言い返したり、嬉しそうに笑ったりする。以前よりもずっと気安く話しているのが分かって、セレスティーナも自然と笑みを浮かべた。
「楽しそうでございますね」
「ミアは必死だけどね」
隣に座ったトビアスが言う。
「それでも、お二人とも楽しそうです」
「そうだね」
アレクサンダーの声に合わせて、ミアがもう一度足を動かす。今度は二人とも笑っていた。
翌日も、その次の日も、五人は午前の補講を終えるとラウンジに集まり、空いた練習室へ向かった。ジークバルトが相手を代われば、ミアは相手によって歩幅や動きが少し違うことを知った。トビアスには間違えやすい箇所を見つけてもらい、セレスティーナとは足順をゆっくり確かめた。
それでも、曲を通して踊る時には、アレクサンダーの手を取ることが多かった。
「今度は大丈夫です。たぶん」
「その『たぶん』は何だよ」
「間違えたら、そちらへ避けてください」
「俺任せか」
そう言いながらも、アレクサンダーはミアの歩幅に合わせた。ミアがうまく回れれば、先に笑って「できたな」と言う。ミアもつられて笑うものだから、次の足を間違えてしまうことがあった。
一週間が経つ頃には、一曲を止まらずに踊れるようになっていた。
「終わった……!」
曲が止まると、ミアはその場で息をついた。
「お疲れさまでした、ミア様。とてもお上手でしたわ」
セレスティーナが拍手をすると、ミアは照れたように笑った。
「まだ、余裕は全然ありません。でも、これなら当日も踊れそうです」
「踊れるって。今日、間違えなかっただろ」
アレクサンダーが言うと、ミアは嬉しそうにうなずいた。
翌日は、いよいよプロムだった。練習室を片づけ、五人は一緒に廊下を歩く。衣装の話になり、ミアはドレスに合わせる髪飾りをまだ決めかねていると話した。明日の朝にはサンティエ家から侍女も来るというので、その時に相談するらしい。
いつもの別れ道に着いたところで、アレクサンダーがセレスティーナを振り向く。
「明日は俺が迎えに行くから、支度して待ってろよ」
セレスティーナは足を止めた。
「……わたくしを、でございますか?」
「他に誰がいるんだよ」
不思議そうに、セレスティーナはミアを見た。
「てっきり殿下は、ミア様をエスコートなさるものと思っておりました」
「…………は?」
「えっ」
アレクサンダーとミアの声が重なった。
セレスティーナだけが、なぜ二人がそんなに驚いているのか分からなかった。




