7-9 しあわせな日々
三月も半ばを過ぎ、年度末試験の結果が発表された。
早いものだと、セレスティーナは思う。
冬季休暇が明けてから、もう一か月以上が経っていた。
自分はまだ身体強化や護身術のような激しい運動を禁じられているけれど、魔術実習には少しずつ参加できるようになった。食事も以前より随分増えた。
毎日のように魚や卵、野菜の入ったスープをいただいて、午前と午後には果物や焼き菓子まで出てくる。
前の世界では、食べたいと思っても食べられなかったようなご馳走ばかりだ。
それを毎日、美味しくいただいている。
夢のようだった。
そこまで考えてから、セレスティーナは小さく首を振った。
――これが、夢なのでしたね。
そう思うと、自然に口の端が上がる。
「セラ様!」
後ろから、弾んだ声に呼ばれた。
振り向くと、ミアが満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくるところだった。手には、返された試験結果だろう紙を握りしめている。
試験の日には相当緊張している様子だったが、どうやら良い結果が出たらしい。
「ミア様。結果が出たのですね」
「はい! 見てください!」
差し出された紙を受け取る。
自分の結果などよりも、余程気にかかる。
前回の試験では、四属性を合わせてようやく一年生の平均点に届いた。それでもミアは随分喜んでいたけれど、今回は違う。
筆記も、魔術実技も、いくつもの科目で平均点を上回っている。
「まあ……」
思わず声が漏れた。
「ミア様。こちらも、こちらも平均点を超えておりますわ」
「はい!」
「魔術も、得意な水属性は、前回より随分上がっておりますね」
「そうなんです。実技も、最後までちゃんと崩れずできたんです!」
ミアが嬉しそうに笑う。
セレスティーナも、自然と頬が緩んだ。
「おめでとうございます、ミア様」
「ありがとうございます! セラ様に教えていただいたところ、ちゃんとできました」
「ですが、これはミア様が毎日努力された結果すよ」
「それでもです。セラ様に見ていただかなかったら、こんなにできるようにはなりませんでした」
嬉しそうに笑う顔を見ていると、胸の奥が少し温かくなった。
本当に、可愛らしい方だと思う。
――はーちゃん、この子かわいいでしょ。
ふと、声を思い出した。
セレスティーナは瞬きをした。
最近は、あまり思い出さなくなっていた。
忘れたわけではない。忘れるはずもない。
ただ、学院で授業を受けて、皆と食事をして、放課後にはラウンジへ行って。迷宮へ行ったり、魔術を教えたり、休暇には領地へ帰ったり。
毎日幸せなことがたくさんありすぎて、いつの間にか、あの声を思い出すことは少なくなっていた。
ちーちゃんが好きだった漫画。
その中で、何度も可愛いと言っていた女の子が、今、自分の目の前で笑っている。
漫画の中で見たよりも、ずっとよく笑う。
嬉しい時には目を輝かせるし、困れば眉が下がる。怒る時には意外なほど強い声を出すことも知った。
そのミアが今、自分が役に立ったと言ってくれている。
本当に、幸せな夢だとまた思った。
「何だ、もう結果を見たのか?」
声に振り返ると、アレクサンダーたち三人がこちらへ歩いてくるところだった。
ミアは待ちきれないように成績表を掲げる。
「見てください! 前より上がったんです!」
「お、本当だ」
アレクサンダーがしげしげとながめ、ジークバルトとトビアスもその横から覗き見た。
「随分上がったな」
「はい!」
アレクサンダーに褒められて、ミアがまた嬉しそうに笑う。
セレスティーナはその顔を眺めながら、先ほど蘇った声をもう一度思い出した。
良かった。
ちーちゃんが好きだった子が、ちゃんと笑っている。
そう思うだけで、じんわりと胸が暖かくなった。
その日の放課後も、いつものように五人でラウンジへ向かった。
試験も終わったので、今日は教本は広げない。
茶と菓子を前に、ミアの成績表をもう一度眺めては、どこが上がった、次はここも狙えると話す。
そのうちアレクサンダーも、自分の成績表を卓上へ出した。
「俺も前より随分上がったぞ」
どことなく得意げな声だった。
「まあ。本当でございますね」
セレスティーナも覗き込んだ。
特に魔術実技が大きく伸びている。以前は構築を急ぐあまり制御が甘くなることがあったけれど、最近はずっと安定していた。
「実技はかなり上がった。筆記も前よりいい」
「殿下も、毎日練習なさっておりましたものね」
「まあな」
「セレスティーナ嬢にずっと見てもらってたからだろ」
ジークバルトが笑った。
アレクサンダーの顔から、少しだけ得意げな色が消え、僅かに口の先がとがる。
「それだけじゃないだろ。俺だって練習した」
「そうか?」
「そうだよ」
少し憮然としたアレクサンダーを見て、セレスティーナは微笑んだ。
「殿下の実力でございます」
アレクサンダーが黙った。
「わたくしは少しお手伝いしただけですもの。殿下ご自身が何度も練習なさったからこその結果ですわ」
「……そうか」
「はい」
何故か、アレクサンダーが少しだけ視線を逸らした。
「……まあ、そうだな」
先ほどまであれほど自慢げだったのに、急に歯切れが悪くなった。
セレスティーナは不思議に思ったけれど、ジークバルトが何やら面白そうに笑っているので、何かおかしなことを言ったわけではないらしい。
「そういえば、ミア」
トビアスが何事もなかったように茶器を置いた。
「プロムの準備は大丈夫そう?」
「……プロム?」
ミアがきょとんとした。
セレスティーナも目を瞬いた。
「あら?」
三人の視線が、今度はセレスティーナへ向いた。
「いや、ミアはともかく」
トビアスが苦笑する。
「セレスティーナ嬢は、どうしてそんな顔をしてるんだい?」
「……そのような顔とは?」
「今、初めて聞いたみたいな顔」
「…………」
プロム。
そういえば、漫画にも少しだけその光景があった。
華やかな広間。色とりどりのドレス。音楽に合わせて踊る生徒たち。
けれど、あれは確か二年目だったと思うのだが。
――二年目だけではなかったのですね。
納得してから、元のセレスティーナの記憶を辿る。
そう言えば、学院に入学した頃から、年度末にはプロムがあるからと、きちんと準備を整えていたと分かった。
「……いえ。覚えております」
「今の間は何だったんだよ」
アレクサンダーが呆れたように言う。
「少々、失念していただけでございます」
「それを忘れてたって言うんじゃないのか?」
「公爵家から衣装も届いておりますので、問題ございません」
数日前、大きな衣装箱が届いていた。
エマからも年度末の夜会用だと説明された記憶もある。
トビアスはまだ少し疑わしそうだったが、今度はミアへ向き直った。
「学院では毎年、年度末にプロムがあるんだ。卒業する上級生を送る意味もあるけど、在校生も参加する」
「毎年……」
「学院には下位貴族の子女も多いからね。そこまで堅苦しいものではないけれど。ただ、ダンスがあるんだよ」
ミアの顔が強張った。
「ダンス……」
「サンティエ家で習ってるんだろ?」
「習っていますけど、人前で踊ったことはありません」
「一週間あるんだから、練習すれば大丈夫だろ」
アレクサンダーが横から簡単そうに言った。
「アレク様は毎年出てるからそんなこと言えるんです」
「俺だって最初はあっただろ」
「それはもっと小さい頃でしょう?」
二人のやり取りを聞きながら、セレスティーナは茶を一口飲んだ。
この二人も、仲が良さそうで本当によかったと思う。
トビアスが笑ってから、ミアへ尋ねた。
「衣装は? サンティエ家から何か届いてない?」
「あ」
ミアが止まった。
「そういえば、大きな荷物が届いていました」
「たぶんそれだね」
「試験のことで頭がいっぱいで……まだ中を見てませんでした」
「お前ら似たようなことしてるじゃないか」
アレクサンダーが呆れたように、ミアとセレスティーナを見比べた。
セレスティーナは心外だと思って首を傾げた。
「わたくしは中身を存じております」
「プロム自体を忘れてただろ」
「失念していただけでございます」
「だから同じだって」
ミアが笑い出した。
つられてジークバルトも笑う。
セレスティーナには少し違うように思えたけれど、楽しそうなので、それ以上反論するのはやめておいた。
「まあ、プロムは一週間後だから」
トビアスが話を戻した。
「今日は二人とも帰ったら衣装を確認すること。特にミアは、サイズが合わなかったら直す時間も必要だからね。詳しいことは明日また相談しよう」
「はい」
「承知いたしました」
そろそろ帰る時間だった。
五人でラウンジを出て、いつもの場所まで歩く。
「それでは、また明日」
セレスティーナが頭を下げる。
「おう。また明日」
アレクサンダーも軽く手を上げた。
それから、もう一言。
「今日もちゃんと寝ろよ」
あまりにも自然な口調だった。
この一か月、何度聞いただろう。
最初の頃は、何故毎日のように睡眠時間を確認されるのか不思議だったけれど、今ではすっかり別れの挨拶のようになっている。
セレスティーナも、いつものように答えた。
「承知しております」
「ならいい」
それで話は終わった。
ミアにも手を振られ、ジークバルトとトビアスにもまた明日と声をかけられる。
セレスティーナは心地よい気分のまま、寮の自室へ戻った。
その夜。
食事の前に、エマと共に届いていた衣装箱の中身を確認した。
落ち着いた色味のドレスに、揃いの靴と装飾品。必要なものはすべて公爵家で用意されていた。
問題はなさそうだった。
寝支度を整え、少し早いと思いながら、アレクサンダーの声を思い出した寝台へ入る。
目を閉じると、久しぶりに漫画の一場面が浮かんだ。
華やかな広間。
綺麗なドレスを着たミア。
そして、彼女へ手を差し出すアレクサンダー。
「……殿下が、ミア様をエスコートされていましたね」
小さく呟く。
確か、あれは二年目のプロムだった気がする。
来年には、自分もあの光景を見ることになるのだろうか。
今日の二人を思い出す。
魔術の練習をするようになってから、以前より随分よく話すようになった。
きっと、このまま仲良くなっていくのだろう。
それなら、とても良いことだと思う。
けれど。
セレスティーナはふと、別のことに気づいた。
「……セレスティーナは、もっと殿下に嫌われていたと思うのですが……」
漫画の中では、そうだったはずだ。
少なくとも、成績が上がったことを得意げに報告してくるような関係ではなかった。
毎日のように食事を一緒にして、放課後に同じ卓を囲むこともなかった。
帰り際に、今日もちゃんと寝ろなどと言われることも。
ミアもそうだ。
真っ先に自分を探して、嬉しそうに試験結果を見せてくれる。
ジークバルトも、トビアスも。
気づけば、明日も会うことが当たり前になっていた。
漫画とは、少し違う。
けれど。
セレスティーナは布団の中で、わずかに頬を緩めた。
「これは本当に、優しい夢なのですね」
明日になれば、また皆に会える。
アレクサンダーもミアも、漫画とは少し違うが仲睦まじそうに見える。
それならきっと、自分はきちんと役に立っているのだろう。
そう思いながら、セレスティーナは静かに目を閉じた。




