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7-8 悪くない日常

三月に入った。


冬季休暇が明けてから、およそ一か月。


その間に何か大きな出来事があったかと聞かれれば、アレクサンダーには特に思いつかなかった。


朝、学院へ行き、授業を受ける。昼になればいつもの五人で食堂へ行き、午後の授業が終わればラウンジで茶を飲む。時々そのまま演習場へ行って、ミアの魔術の練習に付き合う。


一か月前と比べれば、大して変わらない。


けれど、去年の春と比べたら。


「セレスティーナ、今日は何にした?」


「白身魚の香草焼きでございます」


「食えそうか?」


「はい。こちらでしたら」


こんな会話をするようになるとは、欠片も思っていなかった。


セレスティーナの前には、魚料理とパンとスープが並んでいる。隣に座るミアの食事と比べれば、七割程度の量だ。


休暇明け直後はそれでも半分ほど残すことがあったが、最近ではほとんど食べ切るようになった。


「セラ様、今日も全部食べましたね」


「はい。こちらのお魚、とても美味しゅうございました」


「よかったですね」


嬉しそうに笑い合う二人を眺めながら、アレクサンダーは自分の食事を続けた。


もちろん、毎日そう上手くいくわけではない。


昨日は肉料理だった。


最初は普通に食べていたのに、途中から明らかに手が遅くなった。肉を小さく切り、口へ運び、しばらく皿を見つめる。また一切れ切るものの、なかなか手が伸びない。


「もういいんじゃないか?」


声をかけると、セレスティーナは残った肉を見た。


「ですが、まだ残っております」


「さっきから全然進んでないだろ。腹いっぱいなのか?」


「……よく、分かりません」


「気持ち悪いですか?」


ミアが尋ねる。


「いいえ。そのようなことは」


食べたいのに腹がいっぱいで入らない、という感じでもない。


ただ、手が進まない。


そういう時は、好きにさせることにしていた。


「じゃあ、もういいだろ」


「……そうでしょうか」


「先生も、無理に全部食えとは言ってないじゃないですか」


ミアにも言われ、セレスティーナはしばらく皿を見つめていた。


「……もったいないですね」


残念そうに呟いて、ようやくカトラリーを置く。


以前なら、もっと食べさせた方がいいのかと迷ったかもしれない。けれど今は、毎日ある程度食べていることが分かっている。


昼が少なければ、放課後に果物や菓子を食べる。


一食くらい残したところで慌てる必要はない。


それも、この一か月で覚えたことだった。


「昨日、何時に寝た?」


今日の食事を終えたセレスティーナに尋ねる。


「二十二時半頃でございます」


「起きたのは?」


「六時でございます」


「七時間半か」


「はい」


それならいい。


そう思ってから、アレクサンダーはふと気づいた。


去年の春。


こいつが何時に寝ているかなど、考えたこともなかった。


何を食べているのかも知らなかった。知ろうとも思わなかった。


ミアだって、元平民の聖女。それだけだった。


ジークバルトとトビアスは昔から変わらない。それでも、学院へ入ってから一緒に過ごす時間はずいぶん増えた。


誰かが決めたわけでもないのに、昼になれば五人が集まる。


放課後にも、気づけば同じ場所にいる。


「アレク様?」


ミアに呼ばれた。


「何だ?」


「セラ様の睡眠時間を聞いて満足してますけど。食べないんですか?」


「食ってるよ」


「止まってましたよ」


「考え事してたんだ」


「珍しいですね」


「お前、俺を何だと思ってるんだ」


ミアが笑う。


向かいでは、セレスティーナも小さく笑っていた。


この一か月、大きな変化はなかった。


けれど、去年の春から考えれば。


変わったことばかりだった。


三月最初の週。


セレスティーナは定期的な診察のため、医務室を訪れた。


そして当然のように、四人もついていった。


「……今日は何人診察するんだ?」


五人を見た医師が言った。


「セラ様だけです」


ミアが答える。


「なら、どうして全員いる」


「念のためです」


トビアスがさらりと言う。


医師は何か言いたそうな顔をしたが、諦めたらしい。


一通り診察を終えると、椅子へ戻ったセレスティーナを見て頷いた。


「かなり戻ってきたな」


「本当ですか?」


真っ先に聞いたのはミアだった。


セレスティーナも、わずかに目を輝かせる。


「では、もう問題ございませんでしょうか」


「そこまでは言ってない」


すぐに釘を刺された。


「極端に消耗した状態からは抜け出した。それだけだ。体重もまだ完全には戻っていない。ただ、この一か月は順調に回復している」


「食事は今のままでよろしいでしょうか?」


「ああ。最低でも今と同じだけは続けろ。食べられるなら増やして構わないが、無理に詰め込む必要はない。間食も続けていい」


「睡眠も、今まで通りですか?」


「そうだ。減らすなよ」


ミアの質問に医師が答える横で、セレスティーナも神妙に頷いている。


「それから、魔術実習はそろそろ再開していい」


ぱっと顔を上げた。


「本当でございますか?」


明らかに声が弾んだ。


アレクサンダーは思わずセレスティーナを見る。こんなに分かりやすく喜ぶのも珍しい。


「無理のない範囲でだ。いきなり休暇中と同じ量をやるな。短い時間から始めて、問題がなければ少しずつ戻せ」


「はい」


「身体強化や激しい運動は?」


ジークバルトが尋ねた。


「まだ駄目だ。短時間でもやめておけ。護身術もなし。まずは軽い魔術を使って問題が出ないことを確認する」


セレスティーナが少し考えてから尋ねる。


「先生。魔術につきましては、どの程度まで――」


「だから、無理のない範囲だ」


「その範囲を具体的に」


「お前の場合、それを自分で判断するな」


即答だった。


「…………」


「周りに見てもらえ」


セレスティーナが四人を見る。


四人とも、当然のように頷いた。


「……承知いたしました」


医師が笑った。


「その点は心配なさそうだな」


「先生?」


セレスティーナだけが、少し納得していない顔をしていた。


その日の放課後。


茶を飲み、果物を食べてから、五人は演習場へ向かった。


久しぶりにセレスティーナ自身が魔術を使える。


演習場へ入ってから、明らかに歩くのが少し速い。


「走るなよ」


「走っておりません」


「分かってる。先に言っただけだ」


「……はい」


いつもの標的の前まで行くと、セレスティーナは右手を上げ、人差し指を向けた。


「まずは軽いものからでよろしいでしょうか」


「軽いものって?」


「《アイスアロー》を」


「ああ。それなら――」


いいんじゃないか、と。


言い終わる前に、氷の矢が飛んだ。


一本、二本ではない。


ほとんど途切れることなく、十二本ほどの氷の矢が一秒のうちに標的へ殺到する。鋭い音を立てて突き刺さった直後には、もう次が飛んでいた。


次。


その次。


さらに次。


標的が見る間に氷で埋まっていく。


セレスティーナの銀色の髪が魔力の流れに揺れていた。


何より。


楽しそうだった。


「……元気だな」


ジークバルトが呟く。


「一か月我慢してたからねえ」


トビアスが笑った。


アレクサンダーも、すぐに止める気にはならなかった。


一分。


二分。


三分。


最初の標的が氷だらけになると、セレスティーナは隣へ狙いを移した。


四分。


五分。


さすがに声をかける。


「セレスティーナ」


「はい」


返事をしながらも、氷の矢は飛び続けている。


「一回止めろ」


ぴたりと止まった。


「何かございましたか?」


「五分経った」


「……はい」


「連射はそこまで」


分かりやすく残念そうな顔をした。


「特に問題はございませんが」


「問題が出るまでやるなって言われただろ」


「……そうでございました」


「でも、もう終わりじゃなくていいですよね?」


ミアが言った。


「私のお手本、お願いしてもいいですか?」


セレスティーナの表情がすぐに明るくなる。


「もちろんでございます」


本当に分かりやすい。


そこからは、いつもの練習になった。


「ミア様。まずは今まで通りに一度お願いいたします」


「はい!」


ミアが右手を上げる。


指先に集まった魔力が水球を形作り、標的へ飛ぶ。中央から、わずかに右へ逸れた。


「構築は安定しております。ですが、放出の瞬間にまだ少し右へ流れておりますね」


「やっぱりですか」


「はい。では、わたくしがゆっくり行いますので、ご覧くださいませ」


セレスティーナが指先を上げる。


先ほどの連射とはまるで違う。


ミアから見ても魔力の流れを追えるほど丁寧に水球を作り、標的へ放つ。


「最後に放つ際、指先へ意識を向けすぎず、構築した術式をそのまま前へ送り出すように――」


水球が標的の中央で弾けた。


「もう一度やってみます」


「はい」


ミアが真似をする。


「ここですか?」


「もう少しだけ手前です。……はい、そこです」


もう一度。


今度は先ほどより中央に近い。


「とてもよろしいです」


「やった!」


セレスティーナが嬉しそうに拍手をする。


その後も、ミアに見せるために一度。違いを説明するために一度。


セレスティーナ自身が魔術を使う回数は少なかった。


それでも楽しそうに口を出し、時折指先に術式を作って見せる。


「そろそろ二十分だぞ」


アレクサンダーが声をかけると、セレスティーナが振り返った。


「もうでございますか?」


「もうだ」


「まだ問題はございません」


「知ってる。問題がないうちに終わるんだよ」


セレスティーナは少し黙った。


それからミアを見る。


「ミア様、最後に一度だけお願いいたします」


「はい」


ミアが指先を向ける。


最後の水球が飛び、先ほどよりさらに中央へ近づいた。


「とてもよろしいと思います」


セレスティーナが満足そうに微笑む。


「では、本日はここまでにいたしましょう」


自分からそう言って、右手を下ろした。


アレクサンダーは少しだけ眉を上げた。


「何でございますか?」


「いや。何でもない」


一か月前なら。


いや、夏なら。


こいつは止められるまで続けていたのではないか。


もっと前なら、そもそも自分が止めようとも思わなかった。


セレスティーナがどれだけ魔術を使おうが、何時間眠ろうが、昼に何を食べようが。


知ったことではなかった。


「アレク様?」


今度はミアに呼ばれた。


「何だ?」


「またぼーっとしてますよ」


「してない。考え事だ」


「今日、よく考え事しますね」


「俺だって考えるんだよ」


ミアが笑う。


その向こうで、セレスティーナも笑っていた。


ジークバルトとトビアスは、少し離れたところで何か話している。


この一か月、大きなことは何もなかった。


食事をする。


眠る。


茶を飲む。


魔術を練習する。


そんな毎日が続いただけだった。


けれど、入学した頃の自分に今の光景を見せたら。


きっと、何一つ理解できないだろう。


嫌っていた婚約者の食事量を覚えていることも。


元平民の聖女とくだらない言い合いをすることも。


五人でいることが、いつの間にか当たり前になっていることも。


そして。


その日常を、悪くないと思っていることも。


三月。


年度末試験まで、あと少し。


秋の実技試験で、ミアはようやく平均点へ届いた。


今度は、その先を目指している。


「ミア様。もう一度だけ、先ほどの感覚を確認しておきましょうか」


「はい!」


「お前はもう終わりだろ」


「わたくしは使用いたしません。拝見するだけでございます」


「ならいい」


「アレク様も見ていてくださいね」


ミアが言う。


「分かってるよ」


右手を上げたミアの指先に、水が集まり始める。


その隣でセレスティーナが楽しそうに見守っている。


アレクサンダーも、今度は考え事をせず、その魔術を見ることにした。


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