7-7 少しずつ近づく
セレスティーナが倒れてから、数日が経った。
あの日に比べれば、随分よくなったのだろうと思う。
少なくとも、廊下を歩いていて急に足が止まることはなくなった。階段ではまだ手すりに手を添えることがあるけれど、初日のように足を持ち上げ損ねることもない。
それでも。
「セラ様」
「はい?」
椅子から立ち上がったセレスティーナの身体が、ほんの少し横へ揺れた。
ミアは反射的に腕へ手を伸ばす。
けれど、触れるより先に、セレスティーナは机へ指先をついた。
ほんの一瞬だった。
「大丈夫ですか?」
「はい」
いつもの返事。
セレスティーナは何事もなかったように鞄を持った。
「少し、立ち上がるのが早かったようです」
「目の前、暗くなりませんでした?」
「少しだけです。もう戻りました」
前なら、そこで終わっていた。
大丈夫と言っている。
普通に立っている。
なら、大丈夫なのだろうと。
今は、もう少し見る。
顔色は悪くない。呼吸も普通。手も震えていない。
「じゃあ、少しゆっくり行きましょう」
「はい」
二人で教室を出る。
セレスティーナの歩幅は休暇前より少し小さい。まっすぐ歩いているのに、時々、足元だけが柔らかいところを踏んでいるように身体が揺れる。
けれど、それも数日前よりはずっと少なくなった。
昼食のために食堂へ着く頃には、アレクサンダーたちも合流していた。
「今日は何にします?」
ミアが尋ねる。
食堂には、その日に頼める料理の見本が並んでいる。
セレスティーナはその前で、難しい問題でも出されたような顔をしていた。
「……こちらのお魚は、どのくらいの大きさでしょうか」
「見本と同じくらいじゃないですか?」
「こちらの方が、少し小さく見えます」
「そうですね」
白身魚を煮た料理と、焼いた魚。
セレスティーナは二つを真剣に見比べている。
「セレスティーナ嬢」
後ろからトビアスが声をかけた。
「一番小さい料理を探してない?」
「……そのようなことは」
少し間があった。
「ありますね?」
ミアは思わず聞いた。
「残してしまいますので……」
「残していいって先生に言われたでしょ」
「それは、そうなのですが」
まだ納得できないらしい。
結局、煮た魚の方を注文し、いつものパンとスープも頼んだ。
五人で席につく。
休みの前まで、セレスティーナの昼食はパンとスープだけだった。
今はそこに主菜が一皿増えている。
量だけを見れば、それほど多くはない。
ミア自身の七割くらいだろうか。
ジークバルトの膳と比べれば、半分ほどしかない。
それでもセレスティーナには多いらしい。
最初は普通に食べていたけれど、やがて速度が落ちた。
「もういっぱいですか?」
ミアが聞く。
セレスティーナが少し申し訳なさそうに頷く。
「……はい」
魚が三分の一ほど残っている。
スープも少し。
パンは半分近い。
「じゃあ、そこまでですね」
「もう少しでしたら」
「無理するなって言われただろ」
向かいからアレクサンダーが言った。
セレスティーナは魚とアレクサンダーを交互に見た。
「残してしまうのですが…」
「医師が言うんだ。良い通りにしてればいいだろう」
「……そういうものでしょうか」
「そういうものだろ」
アレクサンダーは自分の食事へ戻った。
セレスティーナはまだ少し迷っていたけれど、やがてカトラリーを置いた。
ミアはその皿を見る。
初日よりは食べている。
昨日よりも、ほんの少し多い。
本当に少しずつだけれど。
「セラ様、増えてますよ」
「何がでしょうか」
「食べられる量です」
セレスティーナが自分の皿を見る。
「……そうでしょうか」
「はい」
「でしたら、明日はもう少しいただけるかもしれませんね」
少しだけ嬉しそうだった。
「無理に増やさなくていいですからね」
「はい」
返事はいい。
ミアは最近、それだけは学んだ。
食事を終えて少し経つと、いつものように菓子の包みを開いた。
「セラ様、今日はこれです」
セレスティーナが見る。
その瞬間、ほんの少し表情が明るくなる。
「木の実でございますか?」
「はい。蜂蜜も入ってるそうです」
「美味しそうですね」
さっきまで魚を前にあれほど困っていたのに。
一つ受け取って、口にする。
「……美味しいです」
本当に幸せそうに食べる。
アレクサンダーが呆れたように言った。
「お前、やっぱり菓子なら食えるんじゃないか」
「こちらは小さいですから」
「毎回それ言うよな」
「実際に小さいです」
「まあ、食ってるならいいけど」
ミアは何となく笑ってしまう。
セレスティーナが不思議そうにこちらを見た。
「どうかなさいましたか?」
「いいえ。何でもないです」
午後の授業が終わると、いつものようにラウンジへ向かった。今日はトビアスとジークバルトは用があると同行していない。
アレクサンダーは普通の顔をしてついてきた。
まず茶を飲む。
セレスティーナは食堂に頼んだ果物をいくつか食べる。
それから少し休む。
最初の日に医師から言われたことを、皆でそのまま続けている。
今日は林檎だった。
「セラ様、もう一つ食べます?」
「いただきます」
素直に手を伸ばす。
甘いものや果物については、もうあまり遠慮しなくなった。
そこは少し嬉しい。
「じゃあ、そろそろ行きますか?」
ミアが尋ねると。
「はい」
セレスティーナの顔が、明らかに変わった。
さっきまで穏やかに茶を飲んでいたのに、急に目が生き生きする。
「昨日は水属性の構築まででしたので、本日は放出まで行ってみましょう。ミア様は構築自体はもう安定しておりますから、あとは魔力を流す時に――」
「歩きながら始めるな」
アレクサンダーが言った。
「……申し訳ございません」
「演習場着いてからにしろ」
「はい」
ミアは少し笑った。
演習場へ着くと、セレスティーナは長椅子へ座った。
これは、最初に決めたことだった。
長く立ち続けない。
自分で魔術を使わない。
基本的には座ったまま、ミアたちを見る。
初日は「座ったままでは失礼では」と言っていたけれど、今は少し慣れたらしい。
「では、昨日と同じところからお願いいたします」
「はい」
ミアは杖を構える。
水属性の基礎術式。
小さな水球を作り、標的まで飛ばす。
以前なら、形を作ることだけで精一杯だった。
今は違う。
頭の中で術式を組む。
魔力を流す。
水球が生まれた。
「そのままです」
後ろからセレスティーナの声が飛んでくる。
「放つことを考える前に、一度形を安定させてください」
「はい」
「右側が少し薄くなっています」
ミアは水球を見る。
言われてみれば、ほんの少しだけ歪んでいる。
魔力を足そうとする。
「足さなくて大丈夫です」
「え?」
「反対側を少し減らしてみてください」
言われた通りにする。
形が整った。
「あ」
「その状態です。では、標的を見てください」
水球が飛ぶ。
標的の中央より少し右。
ぱしゃりと弾けた。
「できた!」
「はい。今のはとても綺麗でした」
嬉しい。
前なら、偶然できたのかもしれないと思った。
でも今は、何を直したのかが分かる。
「もう一回やっていいですか?」
「もちろんでございます」
もう一度。
今度は最初から左右の魔力の量を意識する。
水球を作る。
少し歪む。
自分で減らす。
整う。
飛ばす。
さっきより中央に近い。
「セラ様!」
振り返る。
セレスティーナが嬉しそうに拍手をしていた。
「素晴らしいです、ミア様。今度はご自身で修正なさいましたね」
「はい!」
「では次は、もう少しだけ構築を速くしてみましょう。先ほどの感覚を残したまま――」
言いながら、セレスティーナが立ち上がった。
「こちらからでしたら、術式の流れが――」
一歩踏み出したところで、身体がわずかに揺れる。
「おい」
横で見ていたアレクサンダーが声を上げた。
セレスティーナはすぐに姿勢を戻した。
「問題ございません」
「そういう話じゃない。座っとけ」
「ですが、ミア様からですと、わたくしの位置では少し――」
「手本なら俺がやる」
「殿下が?」
「基礎だろ」
アレクサンダーが隣の的を見やった。
「俺がやれば見えるんだろ?」
「……はい」
「じゃあ座ってろ」
セレスティーナは少しだけ迷ってから、長椅子へ戻った。
「お願いいたします」
「はいはい」
アレクサンダーがミアの隣に立つ。
「見てろよ」
「はい」
杖を構えた。
術式を組み、水球を作る。
形を整えるまでの流れは、ミアより少しだけ速い。
そのまま標的へ放つ。
水球が中央近くで弾けた。
「さすがです!」
思わず声が出た。
「まあ、基礎魔法はいいんだよ」
そう言いながらも、少しまんざらでもなさそうだった。
「問題は圧縮なんだよな……」
アレクサンダーはぶつぶつ言いながら、隣の標的へ向き直った。
もう一度水球を作る。
今度はそのままでは放たず、形を保ちながら少しずつ魔力を圧縮していく。
後ろからセレスティーナが声をかけた。
「殿下」
「何だ?」
「休暇前より、随分流れがよくなりましたね」
アレクサンダーが少しだけ振り返る。
「まあな」
短い返事だった。
けれど、やっぱり少し嬉しそうに見えた。
「ただ、最後に一度に押し込もうとなさる癖は残っております」
「……褒めて終われよ」
「申し訳ございません」
「謝るな」
ミアは吹き出した。
「笑うなよ」
「だって」
「じゃあ、お前もやれ」
「はい!」
隣に並ぶ。
水球を作る。
「ミア、右」
「分かってます」
「今直しただろ」
「自分で気づいたんです」
「本当か?」
「本当です!」
後ろから、セレスティーナの声がした。
「今のはミア様ご自身で気づいていらっしゃいましたよ」
「ほら!」
「はいはい」
何だか楽しい。
セレスティーナに時々直されながら、アレクサンダーと同じ標的を狙う。
どちらが早く形を整えられるか。
どちらが中央へ近づけられるか。
いつの間にか、少しだけ競争のようになっていた。
「今の私の方が真ん中でした!」
「でも遅かっただろ」
「速さだけじゃないです」
「実戦なら速い方がいい」
「授業です!」
「殿下、ミア様」
後ろからセレスティーナが声をかける。
「どちらも正しいのですが、まずは正確に構築できることを優先なさった方がよろしいかと」
「ほら」
「なんで殿下が勝ったみたいな顔するんですか!」
もう一度。
今度はアレクサンダーが火属性に変えた。
「水よりこっちの方がやりやすい」
「得意属性だからじゃないですか?」
「たぶんな」
小さな火球が浮かぶ。
圧縮する。
「殿下、先ほどより滑らかです」
「だろ?」
もう少し。
さらに少し。
「アレク様、それ以上は――」
火球がぶれた。
「あっつ!」
アレクサンダーが手を振る。
「アレク様!」
ミアは慌てて駆け寄った。
指先が赤くなっている。
「見せてください」
「これくらい平気だって」
「駄目です」
手を取る。
光を集める。
赤くなった指先を包むように魔力を流す。
ほんの数秒。
熱を持っていた皮膚が元へ戻った。
「……もう大丈夫です」
アレクサンダーが自分の指を見る。
曲げる。
伸ばす。
それからミアを見た。
「お前、治すの早くなったな」
「え?」
「前より早いだろ」
胸の奥が、少しだけ跳ねた。
褒められた。
ただそれだけなのに。
「……アレク様がお怪我をするからです」
ミアは少し怒った顔を作った。
「俺のせいかよ」
「そうです。練習する機会を増やさないでください」
「治ったんだからいいだろ」
「よくありません」
「ミア様のおっしゃる通りです」
後ろからセレスティーナも加わった。
「殿下、先ほどは少々圧縮なさりすぎでした」
「お前までそっちにつくのかよ」
「事実でございますので」
「ほら、アレク様」
「分かったよ」
アレクサンダーが面倒そうに答える。
けれど、本気で嫌がっているわけではないことは、何となく分かった。
ミアは自分の手を見る。
もう光は消えている。
前より早くなった。
自分では気づいていなかった。
それにアレクサンダーが気づいてくれたことが、少し嬉しかった。
「ミア様?」
セレスティーナに呼ばれ、顔を上げる。
「次は風属性もなさいますか?」
「はい!」
ミアは的に向き直った。
またアレクサンダーの隣に立つ。
「今度は負けませんからね」
「いつ勝負になったんだよ」
「さっきからです」
「勝手に決めるな」
言いながら、アレクサンダーも杖を構える。
その横で魔術を使うのが、楽しかった。
以前なら、王太子と二人で同じ的を狙うだけで緊張していたと思う。
今は失敗すれば笑われるし、こちらも言い返す。
アレクサンダーが失敗すれば、ミアも笑う。
その後ろから、セレスティーナが時々助言をくれる。
それだけだった。
それだけなのに、休暇に入る前よりも、アレクサンダーが少し近くにいるような気がした。
訓練を終える頃、セレスティーナは最後まで長椅子に座っていた。
帰ろうとして立ち上がる。
その身体が、またほんの少し揺れた。
数日前ほどではない。
けれど、まだ消えてはいない。
アレクサンダーも気づいたらしい。
「ゆっくり立てよ」
「……はい」
セレスティーナは一度長椅子へ手をつき、そのまま数秒待った。
それから歩き出す。
足取りも、まだ少しだけふわふわしている。
でも、初日よりはずっといい。
昼食も少しずつ増えている。
長く立たないようにすることも、以前より素直に聞いてくれるようになった。
何より。
「ミア様、明日は地属性も確認してみましょう。前回の試験では最も安定しておりましたので、少し難しい術式へ進んでもよろしいかと」
魔術の話をするセレスティーナは、とても楽しそうだった。
「はい。お願いします」
ミアは答えた。
その隣からアレクサンダーが口を挟む。
「明日もやるのか?」
「やりますよ。アレク様も来ます?」
「暇だったらな」
「今日もそう言って来たじゃないですか」
「うるさい」
ミアは笑った。
明日もきっと、同じようにお茶を飲んで。
セラ様が少し果物を食べて。
それから演習場へ行く。
アレクサンダーも、たぶん来る。
そう思うと。
明日の放課後が、少し楽しみだった。




