7-5 ちゃんと見る
医務室を出たあと、四人はしばらく誰も口を開かなかった。
もう授業は終わっている。
本来なら、それぞれ帰る時間だった。
明日も授業がある。それは分かっていた。
けれど。
「……帰るか」
そう言ったのはジークバルトだった。
誰も返事をしなかった。
少しして、トビアスが歩き出した。
「とりあえず、座らない?」
それだけ言って、いつものラウンジへ向かう。
三人も何となくついていった。
昼休みなら生徒たちで賑わっている場所も、この時間には静かだった。
窓際の卓。
いつも五人で使っている場所。
誰からともなく、そこへ座る。
一つだけ椅子が空いた。
いつもなら、そこにはセレスティーナがいる。
今日は医務室で眠っている。
誰も何も話さなかった。
しばらく、ただ座っていた。
最初に口を開いたのはミアだった。
「……私、朝に気づいてたんです」
小さな声だった。
三人が見る。
ミアは空いている椅子を見たまま続けた。
「痩せたなって。だから聞いたんです。セラ様、お痩せになりましたかって」
誰も何も言わない。
「お昼も、全然食べてなくて」
スープは半分。
パンも残した。
その光景を、アレクサンダーも覚えている。
「もういいんですかって聞きました。そしたら、十分いただきましたって」
ミアが両手を膝の上で握った。
「それで、そうなんだって思っちゃったんです」
「……俺もだ」
気づけば、声が出ていた。
ミアが顔を上げる。
「歩き方も変だと思った。昼に五時間しか寝てないって聞いて、またかと思った。でも」
アレクサンダーは言葉を切った。
何度思い返しても。
午後のセレスティーナは元気だった。
「授業で普通に答えてた」
王国史の問いにも。
法学にも。
「魔術なんか、前より上手くなってた」
だから。
大丈夫だと思った。
五時間しか寝ていなくても。
少し痩せていても。
食事が少なくても。
本人が笑っていて、頭が働いていて、魔術まで上達しているのなら。
少なくとも、今日倒れるような状態だとは思わなかった。
「俺、階段で手すり掴んでるの見ても、具合悪くないかって聞いただけだった」
「セラ様、大丈夫って言ってました」
「あいつの大丈夫を信じた俺が馬鹿だった」
「……私もです」
「違うよ」
トビアスが言った。
アレクサンダーとミアが同時にそちらを見る。
トビアスは椅子の背にもたれていた。
「それは、さすがに違う」
いつもの軽い調子ではなかった。
けれど、責めるような声でもなかった。
「僕だっていたんだから。ジークもいた」
「……まあな」
ジークバルトが答える。
「俺も、歩き方変わったかとは聞いた」
「そう。四人とも見てた。四人とも、少しずつ変だとは思ってた」
トビアスが指を折る。
「痩せた。食事が少ない。五時間睡眠。歩き方が変。階段で手すりを使う。足が上がらなくなった」
並べられると。
嫌になるほど分かりやすい。
「でも、それを僕たちが全部知ったのは今日だよ」
誰も答えない。
「二か月会ってなかったんだから。昨日までのセレスティーナ嬢を見てたわけじゃない」
トビアスは続けた。
「朝会った時点で、本人は普通に歩いて、普通に話してた。昼にはミアの菓子を二つ食べて喜んでた。午後の授業には全部ついていって、魔術実習では休暇前より成績が上がってる」
「……うん」
ミアが小さく頷く。
「その人を見て、今日中に倒れるって分かれっていうのは、無理だよ」
「でも」
ミアが言う。
「もっとちゃんと聞いてたら」
「何を?」
トビアスが静かに聞いた。
ミアが止まった。
「眩暈はありますか、って?」
医務室でのやり取りを思い出す。
『今はございません』
「食べてますか、って聞けば?」
『毎日三食いただいております』
「休んでますか、なら?」
『以前よりは随分』
「具合悪くない?」
『ございません』
ミアが黙った。
「嘘はついてないんだよ、あの人」
トビアスがため息をついた。
「そこが一番面倒なんだけど」
「……面倒って」
「面倒でしょ」
少しだけ、いつものトビアスに戻った。
「普通なら『大丈夫』って言われたら、本人の判断も多少は材料にできる。でも今のセレスティーナ嬢の場合、それがどうもできない」
アレクサンダーは医務室での言葉を思い出した。
立てば、目の前が暗くなる。
階段では脚が重い。
足元が遠い。
動悸。
息切れ。
食欲も落ちている。
それでも。
歩けるから。
「問題ございません」
そう言っていた。
「……あいつ、自分でも分かってないんだよな」
「たぶんね」
トビアスが頷く。
「隠してるなら、問い詰めればいい。でも本人が異常だと思ってないなら、聞き方を変えるしかない」
「先生みたいに?」
ミアが聞いた。
「そう。『具合悪い?』じゃなくて、『立った時に目の前暗くならない?』とか。『ちゃんと食べた?』じゃなくて、『何をどれだけ食べた?』とか」
「面倒くさ……」
ジークバルトが呟いた。
「でしょ?」
「でも、やるしかないだろ」
「まあね」
当然のように話が進んでいく。
アレクサンダーは三人を見た。
「……待て」
「何?」
「なんで俺たちがやることになってるんだ」
トビアスが黙った。
ジークバルトも黙った。
ミアだけが、不思議そうにアレクサンダーを見る。
「だって、心配じゃないですか」
「……」
それを言われると終わりだった。
「殿下だって、さっきずっと見てただろ」
ジークバルトが言う。
「うるさい」
「頬まで叩いてたし」
「意識確認だ」
「分かってるよ」
「なら言うな」
少しだけ。
空気が緩んだ。
けれど、ミアはまだ笑わなかった。
「私」
ぽつりと言う。
「セラ様が倒れた時、すごく怖かったです」
誰も茶化さなかった。
「さっきまで喋ってたのに。ずっと楽しそうだったのに。呼んでも全然起きなくて」
膝の上の手が、また握られる。
「目を閉じたら、すごく痩せて見えて」
アレクサンダーも覚えている。
頬を叩いても。
名前を呼んでも。
何も返ってこなかった。
あの顔。
あの細い手首。
「私、もうあんなの嫌です」
ミアが言った。
「うん」
トビアスが答えた。
「だから、次から気づけばいい」
「……気づけますか?」
「一人なら無理かもね」
あっさりした答えだった。
ミアが少し俯く。
「でも四人いる」
その続きに、顔を上げた。
「ミアが食事を見る。殿下は睡眠にうるさい。ジークは身体の動きに気づいた。僕はまあ、全体を見る」
「おい」
ジークバルトが眉を寄せる。
「なんでお前だけ楽そうなんだ」
「全体を見るのは大変なんだよ」
「絶対今決めただろ」
「適材適所ってことで」
「俺は身体の動き担当なのか?」
「今日一番最初に歩き方に気づいたでしょ」
「まあ……そうだけど」
ミアが二人を見る。
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
「私は、ご飯ですね」
「うん。たぶん一番向いてる」
「殿下は睡眠」
「勝手に決めるな」
「じゃあやらない?」
聞かれた。
アレクサンダーは答えなかった。
答える必要もなかった。
トビアスが小さく笑う。
「じゃあ決まり」
「決めるな」
「明日から、ちゃんと見る」
その言葉に。
今度は誰も反対しなかった。
アレクサンダーは空いた椅子を見る。
明日。
医師が許せば、またここに五人で座るのだろう。
セレスティーナはきっと、何事もなかったような顔で来る。
昨日倒れたことより、ミアに魔術を教えることを気にして。
昼食を出せば、「十分いただきました」と言って少し残すかもしれない。
具合はどうだと聞けば。
たぶん。
「問題ございません」
そう答える。
それなら。
もう、その言葉だけを信じなければいい。
顔を見る。
食べた量を見る。
歩き方を見る。
休んだ時間を聞く。
本人が気づかないなら。
誰かが気づく。
一人が見落としても。
四人のうち、誰かが拾えばいい。
「……とりあえず」
アレクサンダーは言った。
「明日の昼は、全部食わせるぞ」
「殿下、それは駄目です」
即座にミアに言われた。
「何でだよ」
「急にたくさん食べたら苦しくなるかもしれないじゃないですか」
「じゃあどうすんだ」
「先生に聞きます」
「……そうしろ」
トビアスが吹き出した。
「もうミアが一番扱い上手いんじゃない?」
「うるさい」
「僕、何も言ってないけど」
「顔が言ってる」
ジークバルトも小さく笑った。
本当に少しだけ。
いつもの空気が戻った。
けれど。
空いている椅子は、まだそこにある。
アレクサンダーはそれを見てから立ち上がった。
「帰るか」
今度は。
三人とも立った。
明日になれば。
また五人になる。
そうでなければ困る。
そして今度こそ。
あいつが何事もない顔をしていても。
ちゃんと見ていようと思った。
ラウンジを出ようとしたところで、トビアスがふと足を止めた。
「……不思議だよね」
「何がだ」
アレクサンダーが振り返る。
トビアスは、空いた椅子を見ながら言った。
「一年前の殿下なら、絶対に信じないよ」
「何を」
「セレスティーナ嬢の寝る時間を気にするなんて」
一瞬、沈黙が落ちた。
ジークバルトが、わずかに口元を上げる。
ミアもアレクサンダーを見た。
「……あいつが自分の体のことも分かってないのが悪い」
アレクサンダーは不機嫌そうに言った。
「放っておいたら、また倒れるだろ」
「ほら」
トビアスが笑う。
「そういうところだよ」
「何がだ」
「別に」
「言え」
「一年前の殿下に聞かせてやりたいなと思って」
「余計なことをするな」
「でも、面白いと思うよ。自分が誰かの睡眠時間を気にして、食事の量まで確認しようとしてるなんて」
「だから、あいつが悪いと言ってるだろ」
「はいはい」
トビアスは笑った。
ジークバルトも肩をすくめる。
ミアだけが、少し嬉しそうにアレクサンダーを見ていた。
「……帰るぞ」
アレクサンダーはもう一度言った。
今度は。
三人とも、素直についてきた。
明日になれば。
また五人になる。
そうでなければ困る。
そして今度こそ。
あいつが何事もない顔をしていても。
ちゃんと見ていようと思った。




