7-4 公爵令嬢の休暇
セレスティーナの目が開いた。
焦点の合わない瞳がしばらく天井を見つめ、それからゆっくりと横へ動く。
「セラ様」
寝台の横に座っていたミアが呼ぶ。
「……ミア様?」
掠れた声が返った。
その瞬間、アレクサンダーは知らず詰めていた息を吐いた。
よかった。
声が出る。
こちらも見えている。
少なくとも、目を覚まさないわけではなかった。
「セラ様、分かりますか? ここ、医務室です」
「医務室……」
セレスティーナが二度ほど瞬きをする。
少し考えるような間があった。
「ああ……」
何かを思い出したらしい。
「申し訳ございません。躓いてしまったようで」
誰も答えなかった。
ミアが口を開いたまま止まる。
ジークバルトが眉を寄せ、トビアスは何とも言えない顔をした。
アレクサンダーも、すぐには何を言えばいいのか分からなかった。
代わりに、医師がため息をついた。
「躓いたんじゃない。失神したんだ」
「失神」
セレスティーナが繰り返す。
「はい。セラ様、全然起きなかったんですよ」
「左様でございましたか」
「左様でございましたか、じゃない」
思わず口を挟む。
セレスティーナがこちらを見る。
「殿下」
「お前、三十分くらい意識なかったんだぞ」
「三十分も」
そこでようやく、少し驚いた顔をした。
それでも、ひどく取り乱す様子はない。
「ご心配をおかけして、申し訳――」
「それもいい」
先回りして止める。
セレスティーナは口を閉じた。
医師が寝台の横へ椅子を寄せる。
「起き上がるな。そのままで答えろ。気分は」
「特に問題はございません」
四人の視線が一斉に集まった。
医師まで黙った。
「……お前は今後、その言葉を使うな」
「ですが」
「歩いている途中で失神した人間が言う言葉じゃない」
「……はい」
納得したかどうかは怪しい。
医師は額に手を当て、次いで瞼や手首を確認した。
「熱はない。脈は少し速いな。頭痛は」
「ございません」
「吐き気」
「ございません」
「眩暈」
「今はございません」
「今は?」
セレスティーナが止まる。
「冬の間にあったのか」
「……時折」
アレクサンダーは眉を寄せた。
「お前、それ昼に聞いた時、ないって言っただろ」
「昼にはございませんでしたので」
「そういう意味で聞いたんじゃない」
「左様でございますか」
本気だった。
医師が片手を上げ、アレクサンダーを黙らせる。
「分かった。聞き方を変える。立ち上がった時に、目の前が暗くなることは」
セレスティーナが少し考える。
「……時折」
「どのくらい待てば戻る」
「すぐに。数秒ほどかと」
「壁や机に手をつくことは?」
「ございます」
ミアの顔が強張った。
「セラ様、それ……いつからですか?」
「いつから……」
セレスティーナは考えた。
「正確には覚えておりません」
「冬の初めからか、最近か」
「初めの頃には、なかったと思います」
医師が何かを書き留める。
「階段で、脚が重いと感じることは」
「本日も少し」
「今日だけか」
「……いいえ」
「いつ頃から」
「分かりません。ですが、上れなくなったことはございません」
アレクサンダーは思わず口を開きかけたが、医師に手で制された。
「歩いている時、足元が浮くような、床を踏んでいる感覚が遠いような感じは」
今度は返事が早かった。
「ございます」
「あるのかよ」
とうとう声が出た。
「殿下」
「だってお前、昼に――」
「歩けておりましたので」
「歩けてたら何でもいいのか」
セレスティーナが黙る。
医師は淡々と続けた。
「動悸は。何もしていないのに心臓が速くなることはあるか」
「……時折」
「息切れ」
「階段を上った時には」
「以前からか?」
「以前よりは、少し」
「手足が冷える」
「冬ですので」
「部屋の中でもだ」
少し考えて。
「はい」
「指先が震えることは」
「細かな作業の後には」
「立っているだけで、脚に力が入りにくいことは」
沈黙。
「あるな?」
「……時折」
医師の声が少し低くなった。
「食欲は」
「ございます」
「空腹を感じるかと聞いている」
「……」
今度は長かった。
「以前ほどは、感じないかもしれません」
「少し食べただけで満腹になる?」
「はい」
「食べようと思えば食べられるのか」
「必要であれば」
「今日は昼食を残したそうだな」
「十分いただきましたので」
「苦しかった?」
「苦しいというほどでは。ただ、それ以上いただきますと、少し重くなる気がいたしました」
医師が息を吐いた。
セレスティーナは不思議そうな顔をしている。
自分が答えた一つ一つに、何の意味があるのか分かっていないらしい。
アレクサンダーには、逆に分かり始めていた。
一つなら、たぶん、気にしなかった。
立ち上がった時に少し暗くなる。
冬だから手が冷たい。
階段だから息が切れる。
疲れたから脚が重い。
食事が豪華だから少量で満足する。
どれも、一つずつなら、何でもないように聞こえる。
だが。
全部ある。
しかも、それは今日初めて現れたものではない。
セレスティーナは、ずっと前から身体を削りながら歩いていた。
ただ、歩けていた。
話せていた。
笑えていた。
魔術まで上達していた。
だから誰も、それを危険だとは思わなかった。
アレクサンダーも同じだった。
見えていたはずなのに、見ていなかった。
「体重は」
医師が聞く。
「存じません」
「休暇前と比べて減った自覚は?」
「ございません。エマには、痩せたと言われました」
「どの程度」
「制服を仕立て直す必要がある程度には」
医師がセレスティーナの腕を見る。
袖に隠れているが、手首だけでも休暇前より細い。
アレクサンダーも今になって気づいた。
朝から見ていたはずなのに。
笑っていた。
喋っていた。
魔術まで以前より上手くなっていた。
だから、痩せたと言われても、あまり深刻に考えなかった。
いや。
深刻に考えたくなかったのかもしれない。
痩せた身体で、それでも以前より上手くなった魔術を見せられて。
本人が嬉しそうに笑っていて。
その笑顔を前にして、まさかそれが、身体が限界に近づいている証拠だとは思いたくなかった。
医師はしばらく黙ってから、言った。
「今言った症状は、一つ一つなら珍しいものじゃない。だが、これだけ重なって、体重まで落ちて、最後に失神したとなれば話は別だ」
セレスティーナが医師を見る。
「身体がかなり消耗している可能性がある。少なくとも『歩けるから問題ない』状態じゃない」
「……はい」
返事はした。
けれど、まだ理解しきれていない顔だった。
「睡眠は?」
医師が聞く。
「概ね五時間ほどです」
「それは昼にも聞いた」
アレクサンダーが言う。
「六時間は寝ろって言っただろ」
「はい。気をつけてはいたのですが」
「気をつけて五時間なのか」
「以前はもっと短い日もございましたので」
「以前と比べるなって昼にも言ったな?」
「……はい」
医師がまた片手を上げた。
「順番に聞く。休暇中、一日はどう過ごしていた」
「一日、でございますか?」
「朝起きてから寝るまでだ」
セレスティーナは少し考えた。
「六時に起床しておりました」
そこは普通だった。
「身支度を整えまして、七時から朝食を一時間ほど」
「朝食に一時間?」
「お食事をしながら、会話や礼法のご指導をいただいておりましたので」
公爵令嬢なら、そういう教育もあるだろう。
まして将来の王太子妃だ。
アレクサンダーにも、幼い頃から食事中の会話や作法を教える教師がいた。
「それから?」
「八時から午前の講義でございます」
「何時まで」
「正午までです」
四時間。
まあ、それも分かる。
学院の午前授業と大きく変わらない。
「正午から昼食をいただきました」
「それも教育か?」
「はい。朝とは異なる地方のお料理を用意していただき、産地や歴史、相手との会話の広げ方などを」
医師が何かを書き留める。
「午後は」
「魔術と護身術を」
「何時間」
「日によりますが、合わせて四時間ほどでございます」
アレクサンダーは少し眉を寄せた。
午前に四時間。
昼食も教育。
午後に四時間。
「そのあとは?」
「講義でございます」
「まだあるのか?」
思わず聞いた。
セレスティーナがこちらを見る。
「はい」
「何時まで」
「十九時頃まで」
今度はトビアスも黙った。
「十九時から夕食をいただきます」
「それも?」
「はい。正餐の作法や会話をご指導いただきました」
「その後は」
「二十時から、湯浴みや身体の手入れをしていただいておりました」
そこでアレクサンダーは少しだけ息を吐いた。
ようやく休みらしいものが出てきた。
「二時間ほどかけて、髪や肌の手入れ、マッサージまでしていただけたのです」
セレスティーナの声が少し明るくなる。
「大変気持ちがよろしゅうございました」
「……なら、そこで多少は休めてたのか」
「はい。身体を動かす必要がございませんでしたので」
「身体を?」
嫌な言い方だった。
「他にも何してた」
「魔術の構築を」
アレクサンダーは黙った。
「……何?」
「発動しなければ、ほとんど魔力を消費いたしませんので。構築と解除を繰り返しておりました」
「マッサージされながら?」
「はい」
「二時間?」
「ずっとではございません。湯浴みの間は難しいですし、髪を整えていただいている間も、時折お話を――」
「そういう話じゃない」
頭が痛くなってきた。
「それで、二十二時だな」
医師が淡々と続ける。
「そこから寝るのか?」
「いいえ」
やっぱりか。
アレクサンダーは額を押さえた。
「その日の復習と、先生方からいただいた課題を」
「何時まで」
「概ね零時から一時頃までには」
「起床は」
「六時でございます」
誰も喋らなかった。
六時に起きる。
七時から教育。
八時から講義。
昼食も教育。
午後は魔術と護身術。
その後また講義。
夕食も教育。
二時間の身体の手入れ中には魔術の練習。
それから復習と課題。
零時から一時に眠る。
そして、また六時に起きる。
「……まさか毎日じゃないよな?」
ジークバルトが聞いた。
「はい?」
「休みの日は?」
セレスティーナが不思議そうにジークバルトを見る。
「学院がお休みでしたので」
一瞬。
誰も意味が分からなかった。
「いや」
ジークバルトが言い直す。
「そうじゃなくて。その予定がない日」
「特にはございませんでした」
「二か月?」
「はい」
「ずっと?」
「はい」
あっさりした返事だった。
「ですが、とても充実しておりました」
そして。
本当に嬉しそうに笑った。
「八名もの先生にご指導いただける機会など、そうございません。以前より分かることも増えましたし、魔術も速くなりました」
それは今日、見た。
確かに速くなっていた。
休暇前より明らかに。
だからこそ、余計に訳が分からなかった。
いや。
分からないのではない。
分かりたくなかっただけだ。
セレスティーナは、壊れかけている身体を抱えたまま、成果だけを差し出していた。
上達した魔術。
増えた知識。
身についた作法。
それらが目に見えるから、誰も、その代わりに失われたものを見ようとしなかった。
睡眠。
食事。
体重。
体力。
そして、本人が自分の身体を気にかける感覚。
「食事は」
医師が言った。
「毎日三食食べたんだな」
「はい」
今度は迷いなく答える。
「各地の名産を使った、大変素晴らしいお料理をご用意いただきました」
「量は」
「量?」
「どのくらい食べていた」
セレスティーナが少し考える。
「朝は、スープとパン、付け合わせと、それから肉料理を少々。果物や菓子が添えられることもございました」
「全部食べたのか」
「いいえ。必要な分だけいただきました」
「必要な分ってどれくらいだ」
「……」
セレスティーナが困った顔をする。
「腹いっぱいになるまでか?」
「いいえ」
「じゃあ、何を基準にしてた」
「王太子妃となる者は、食事そのものより会話を優先し、口へ運ぶ量にも気を配るようにと教わりましたので」
アレクサンダーは顔を上げた。
「何だそれ」
「正餐の場では、お食事をすることだけが目的ではございません。会話や交流を――」
「それは知ってる」
アレクサンダーだって王族だ。
正餐の場で好きなだけ食べ続けていいわけではないことくらい知っている。
「だからって食わなくていいって意味じゃないだろ」
「食べております」
「どれくらいだ」
「ですから、スープと、お肉を少々と――」
「昼は」
医師が遮る。
「魚料理の日でしたら、魚を少しと、付け合わせを。パンもございました」
「夜」
「同じように」
「それで足りていたのか」
「はい」
即答だった。
「空腹は」
「特には」
「食事中、苦しかったり、食べにくかったりは」
「コルセットを着けておりましたので、たくさんいただくのは少々難しかったですが」
「待て」
アレクサンダーは思わず声を上げた。
「それで食う量減ってたんじゃないのか?」
「ですが、先生にも今程度で結構だと」
「……」
また。
怒る先がなくなった。
教師は食事作法を教えたのだろう。
食卓には毎日、豪華な料理が並んでいた。
誰も食事を抜かせてはいない。
セレスティーナ自身も三食きちんと席についている。
コルセットを締めて。
少量を食べて。
それで満足したと思って。
誰も止めなかった。
誰も、止める理由を見つけられなかった。
「お前」
自分の声が低くなった。
「二か月、ろくに食わないで、寝ないで、一日中勉強してたのか?」
セレスティーナの眉が寄った。
「食べております」
「そこじゃない!」
医務室に声が響いた。
医師がじろりと見る。
「王太子殿下」
「……悪い」
前にもここで怒鳴って叱られた。
アレクサンダーは息を吐いた。
「でも、先生。これで倒れた理由になるのか?」
「十分候補にはなる」
医師が答える。
「今の話だけでも、慢性的な睡眠不足と疲労はある。食事量も足りていない可能性が高い。そこに、立ちくらみ、動悸、息切れ、脚の脱力、食欲の低下。それだけ揃って、二か月で目に見えて痩せている」
医師がセレスティーナを見る。
「身体が出していた警告を、お前が一つずつ『まだ動ける』で捨てていた可能性が高い」
セレスティーナが黙った。
「今日の失神は、突然何もないところから起きたわけじゃない」
その言葉だけは。
アレクサンダーにも、妙に重く聞こえた。
突然ではなかった。
今日、廊下で倒れた瞬間に始まったのではない。
もっと前から。
立ち上がるたびに。
階段を上るたびに。
食事を残すたびに。
眠れない夜を重ねるたびに。
身体は何度も、もう無理だと告げていた。
それを、セレスティーナは「まだ動ける」と言って退けた。
そしてアレクサンダーも。
「大丈夫そうだ」と、同じように見過ごしかけた。
「少なくとも今日は休ませる。食事も取らせる。しばらく激しい運動は禁止だ。学院へ戻すかどうかは、その後判断する」
「ですが」
やっぱり来た。
「魔術も以前より上達しております」
「知ってる」
「王国史の授業でも、以前より内容を理解できました。頭もよく働いておりましたし」
「それも見た」
「でしたら」
「お前、さっき倒れただろ」
セレスティーナがようやく黙った。
そこだけは、反論できないらしい。
「セラ様」
ミアがそっと呼んだ。
「はい」
「頭は、ちゃんと働いてたんですよね」
「はい」
「魔術も使えた」
「はい」
「毎朝起きられたんですか?」
「はい」
「歩けました?」
「もちろんでございます」
ミアが少し迷ってから、聞いた。
「じゃあ、身体は?」
セレスティーナが止まった。
「……身体、でございますか?」
「はい」
妙な質問だった。
けれど。
アレクサンダーには、ミアが何を聞きたいのか何となく分かった。
セレスティーナは考えている。
指が動く。
腕も動く。
話せる。
頭も回る。
魔術も上達した。
毎朝起きて、一日の予定を全部こなした。
だから。
身体も大丈夫だった。
おそらく、そう言おうとしたのだろう。
けれど。
今日。
歩いている途中で、その身体が突然動かなくなった。
セレスティーナはしばらく黙っていた。
やがて。
「……分かりません」
小さく答えた。
それを聞いて、アレクサンダーは胸の奥を掴まれたような気がした。
分からない。
自分の身体なのに。
だが、たぶん、こいつにとっては本当にそうなのだ。
身体が何を訴えているのか分からない。
どこまでが普通で、どこからが危険なのかも分からない。
動ける限りは大丈夫だと思っている。
動けなくなった時には、もう遅いのに。
「今日は寝ろ」
医師が言った。
「それから食べろ」
「はい」
「学院へ戻るのはそれからだ」
「……はい」
明らかに声が沈んだ。
「何だ」
「いえ」
「言え」
セレスティーナは少し迷った。
「……せっかく、学院が始まりましたのに」
ミアが困ったような顔をする。
ジークバルトはため息をついた。
トビアスは額を押さえている。
アレクサンダーも同じ気分だった。
それでも。
ふと聞きたくなった。
「セレスティーナ」
「はい」
「お前、冬休み」
少し迷う。
「……楽しかったのか?」
セレスティーナが目を瞬いた。
何を聞かれたのか分からない、という顔だった。
それから。
柔らかく笑った。
「はい。とても」
迷いはなかった。
「毎日たくさんのことを教えていただきました。お母様にも、以前より王太子妃としての自覚が出てきたと仰っていただけましたし」
嬉しそうだった。
「魔術も上達いたしました。ミア様にお教えしたいことも、たくさん増えました」
ミアを見る。
「本当に、とても楽しい冬休みでございました」
アレクサンダーは何も言えなかった。
痩せて。
まともに食べられなくなって。
五時間しか眠らず。
朝から晩まで勉強して。
立てば目の前が暗くなって。
階段では息が切れて。
足元の感覚までおかしくなって。
それでも。
こいつにとっては。
本当に、楽しい冬休みだったのだろう。
その笑顔に嘘は感じられなかった。
だからこそ、怖かった。
苦しいのに笑っているのではない。
苦しさを、苦しいと認識できないまま笑っている。
限界を越えているのに、得られた成果だけを見て、成功したと思っている。
このままでは、次に倒れるまで、本人は何も変えようとしない。
次は、今日のように目を覚ますとは限らない。
その考えが浮かんだ瞬間、アレクサンダーの背中を冷たいものが走った。
「……そうか」
それしか言えなかった。
セレスティーナは、まだ少し不思議そうにこちらを見ている。
どうしてそんなことを聞くのか。
たぶん、分かっていない。
医師が毛布を掛け直した。
「話は終わりだ。寝ろ」
「ですが、先ほど三十分ほど――」
「寝ろ」
「……はい」
「それから起きたら食べろ」
「はい」
今度は素直だった。
目を閉じる直前。
セレスティーナが、ほんの少しだけ残念そうに言った。
「ミア様への魔術のお話は、また明日でもよろしいでしょうか」
「はい」
ミアが答える。
「明日じゃなくてもいいですから。ちゃんと元気になってから教えてください」
「……はい」
セレスティーナは目を閉じた。
アレクサンダーは、その横顔を見る。
目を閉じると。
やはり、痩せていた。
どうして朝には、それがこんなにも目につかなかったのだろう。
楽しいと言って笑っていたからか。
魔術が上手くなったと喜んでいたからか。
それとも。
こいつ自身が、何も悪いことなど起きていない顔をしていたからか。
違う。
見えなかったのではない。
見ようとしなかったのだ。
アレクサンダーは、セレスティーナが歩けていることを、話せていることを、笑えていることを、無事の証拠にしていた。
その裏で、身体が何度も発していた警告を。
「まだ動ける」という一言で、本人と一緒に見過ごしていた。
もう、同じことはできない。
眠っているかどうかだけ見ていればいいわけではない。
食べているか。
休んでいるか。
立った時に目の前が暗くならないか。
階段を上って脚が動かなくならないか。
本人が「動ける」と言っていても、その身体が何を訴えているのか。
本人に聞いても、たぶん本人にも分からない。
ならば。
分からないままにしてはいけない。
アレクサンダーは、目を閉じるセレスティーナの手首を見た。
細い。
思っていたより、ずっと細い。
その手が、今日まで何事もなかったように魔術を組み上げていた。
その足が、限界を隠したまま廊下を歩いていた。
その身体が、本人の知らないところで、何度も助けを求めていた。
そして今日、とうとう立っていられなくなった。
アレクサンダーは、そっと拳を握った。
なぜ、こんなに嫌な気持ちがするのか、分からない。
セレスティーナが倒れたからか。
自分が見過ごしていたからか。
それとも、本人が何も知らないまま笑っていることが怖いのか。
どれも、たぶん違う。
あるいは、全部なのかもしれない。
ただ。
もう、目を離さないようにしたいと思った。
眠っているかどうかだけではなく。
食べているか。
休んでいるか。
立った時に目の前が暗くならないか。
階段を上った時に、脚が重くなっていないか。
本人が大丈夫だと言っていても、その顔色や呼吸がどうなっているのか。
そういうものを、少しずつ見ていきたいと思った。
セレスティーナが自分の身体のことを分からないのなら。
せめて、自分が気づけるようになりたい。
アレクサンダーは、眠る彼女の手首をもう一度見た。
細い。
思っていたより、ずっと細い。
そのことだけが、いつまでも頭から離れなかった。




