7-3 少し変
昼食の時から、少し変だとは思っていた。
最初に気づいたのは、痩せたことだった。
二か月ぶりに会ったのだから、そのくらいの変化はあるのかもしれない。セレスティーナ自身も、侍女に言われて制服を仕立て直したのだと、何でもないことのように話していた。
それに、元気だった。
ミアが持ってきた菓子を二つ食べて、美味しいと二度も言った。
冬休みに覚えたことを楽しそうに話して、魔術の話になれば、すぐにでも教え始めそうな勢いだった。
だから。
スープを半分残したことも。
パンを食べきれなかったことも。
少し気にはなったけれど、それだけだった。
お腹いっぱいだと言っていた。
本人がそう言うなら、そうなのだと思った。
午後の授業でも、何もおかしくなかった。
王国史の質問にはすらすら答えていたし、魔術実習では休暇前より明らかに速くなっていた。
むしろ、調子がよさそうに見えた。
だから、放課後になっても。
気になっているのに。
何がおかしいのか、ミア自身にも分からなかった。
歩き方。
たぶん、それだった。
ふわふわしている。
足元がおぼつかないようにも見えるのに、姿勢は綺麗で、歩幅も揃っている。
優雅になったと言われれば、そう見えなくもない。
冬の間に改めて歩き方を習ったのだと聞けば、それで納得できそうだった。
でも。
時々、ほんの一瞬だけ。
次の一歩が遅れる。
階段では、ずっと手すりを掴んでいた。
「セラ様」
一度、呼んだ。
「はい?」
すぐに返事が来た。
いつものセラだった。
「……いえ」
だから、何も言えなかった。
その後もセレスティーナは、ずっと喋っていた。
むしろ普段より饒舌なくらいだった。
冬に教わった魔術のこと。
術式の第三層。
魔力を流す順番。
構築を速くする方法。
ミアが質問すれば、すぐに答えが返ってくる。
楽しそうだった。
二か月の間に覚えたことを、早く教えたいのだということが伝わってきた。
だから。
短い階段でセレスティーナの足が引っかかった時も。
最初は、本当に躓いただけなのだと思った。
「あ」
セラの身体が前へ傾く。
すぐ後ろにいたジークバルトが、その腕を掴んだ。
「危なっ」
引き戻される。
「申し訳ございません」
セレスティーナは普通に立っていた。
「大丈夫か?」
「はい。少し躓きました」
声も普通だった。
ただ、ジークバルトは腕を離さなかった。
「セレスティーナ嬢、本当に大丈夫か?」
「はい」
いつもの答えだった。
「足が少し上がらなかっただけでございます」
それを聞いて、ミアの胸がざわついた。
足が上がらなかった。
それは、ただ躓いたのとは違うのではないだろうか。
アレクサンダーも同じことを思ったらしい。
「医務室行くぞ」
「必要ございません」
「ある」
「足を少し引っかけただけでございます」
「昼からずっと変だろ」
「そうでしょうか」
「そうです」
気づけば、ミアも口を挟んでいた。
セレスティーナがこちらを見る。
「セラ様、朝からちょっとふわふわ歩いてます」
「冬の間に歩き方を――」
「それだけじゃない気がします」
そう言ってから、自分でも困った。
何が違うのか。
説明できない。
顔色が悪いと言い切れるほどでもない。
会話がおかしいわけでもない。
授業も受けている。
魔術なんて以前より上手くなっている。
案の定、セレスティーナはそれを一つずつ並べた。
「授業も問題なく受けられました。王国史の問いにもお答えできましたし、魔術も休暇前より速くなっております」
「それは見たけど」
「でしたら、問題ございません」
「だからなんでそうなるんだよ」
アレクサンダーが額を押さえる。
それでも医務室へ行くことには、どうにか同意してくれた。
よかった。
ミアはそう思った。
医務室へ行けば、先生に診てもらえる。
何もなければ、それでいい。
それだけのことだった。
セレスティーナが手すりを握り直す。
あと数段。
一段上る。
もう一段。
「あ…」
セラが言った。
本当に、小さな声だった。
ミアはすぐ隣にいたから聞こえた。
「セラ様?」
セラは自分の足を見ていた。
その顔に、初めて困惑が浮かんだ。
「セレスティーナ?」
アレクサンダーが呼ぶ。
セレスティーナが顔を上げる。
「だい――」
言葉が途切れた。
膝が折れた。
「セラ様!」
ジークバルトがまだ近くにいた。
咄嗟に腕を掴み、崩れた身体を引き寄せる。
アレクサンダーもすぐに手を伸ばした。
二人に支えられて、セレスティーナは石段へぶつからずに済んだ。
でも。
立たない。
「セレスティーナ?」
アレクサンダーが呼んだ。
返事がない。
「おい」
セラの肩を支えながら、アレクサンダーが顔を覗き込む。
目が閉じていた。
「セレスティーナ」
もう一度。
返事がない。
「セラ様?」
ミアも呼ぶ。
反応しない。
ほんの数秒前まで、喋っていた。
医務室へ行くことにも自分で返事をした。
階段だって自分で上っていた。
なのに。
「おい、セレスティーナ」
アレクの声が変わった。
頬を軽く叩く。
一度。
「セレスティーナ」
もう一度。
まぶたは動かない。
「……殿下」
ジークバルトの声も硬い。
「意識ないぞ」
「そんな」
ミアはセレスティーナの前へ回り込んだ。
「セラ様」
返事はない。
「セラ様!」
駄目だった。
肩が動かない。
眉一つ動かない。
アレクサンダーがもう一度、頬を軽く叩いた。
「おい。起きろ」
それでも。
何もない。
アレクサンダーの顔から、血の気が引いた。
「……なんでだよ」
誰に聞いているのか分からない声だった。
「さっきまで普通に喋ってただろ」
そうだ。
ミアもそう思った。
普通だった。
なんなら。
いつもよりよく喋っていた。
ミアが質問するたび、嬉しそうに答えていた。
術式がどうとか。
魔力の順番がどうとか。
学院が始まるのを楽しみにしていたのだろう。
ずっと楽しそうだった。
それが。
今は、目を閉じている。
「セラ様……」
改めて見る。
そこで。
ミアは息を呑んだ。
痩せている。
朝にも思った。
けれど。
目を開けて笑っていた時には、こんなふうには見えなかった。
閉じた目の下には薄く影がある。
頬の丸みが減っている。
制服から覗く首も細い。
唇にも、あまり色がない。
動かないだけで。
急に。
ひどく生気がなく見えた。
「……こんなに」
どうして。
朝、気づかなかったのだろう。
いや、気づいた。
痩せましたかと聞いた。
昼食を残していることにも気づいた。
歩き方がおかしいことにも。
全部見ていた。
なのに。
セレスティーナが笑っていたから。
普通に喋っていたから。
魔術が上手くなっていたから。
大丈夫なのだと思ってしまった。
「とにかく医務室だ」
ジークバルトの声で、我に返った。
「殿下、俺が抱える」
「…ああ、たのむ」
二人で支えていた身体を、ジークバルトが抱き上げる。
背中と膝裏へ腕を入れ、そのまま持ち上げた。
その瞬間。
ジークバルトの眉が寄った。
「……軽い」
「え?」
「こいつ、軽くなってないか?」
ミアには分からない。
セレスティーナを抱き上げたことなどない。
けれどジークは、以前、迷宮からセラを運び出した一人だった。
ジークバルトが腕の中のセレスティーナを見る。
「前、こんな軽かったか……?」
誰も答えられなかった。
「行こう」
トビアスが言った。
いつもの軽い調子ではなかった。
「話は先生に診てもらってからだ」
ジークバルトがセレスティーナを抱えたまま階段を上る。
アレクサンダーがすぐ横につく。
ミアも追った。
医務室までが、ひどく遠く感じた。
何度もセラの顔を見る。
揺れても起きない。
呼んでも起きない。
ジークバルトの腕の中で、力の抜けた腕が小さく揺れている。
「先生!」
医務室の扉を開けたのは、ミアだった。
医師が机から顔を上げる。
そして四人と、ジークバルトに抱かれたセレスティーナを見た。
しばらく黙った。
「……休み明け早々、今度は何をした」
ため息が落ちた。
「歩いてたら急に倒れたんです!」
「あー、とりあえずそこへ寝かせろ」
ジークが寝台へ向かい、セレスティーナを下ろした。
仰向けに寝かされた身体は、やはり細く見えた。
医師が瞼を開き、呼吸を確認する。
手首へ指を当てる。
「先生」
「静かに」
ミアは口を閉じた。
胸が上下している。
呼吸はしている。
それだけを何度も確認した。
「失神だな」
医師が言った。
「今のところ、呼吸も脈も大きく崩れてはいない」
「じゃあ」
「だからといって正常な人間は歩いている途中で意識を失わん」
それはそうだった。
「何をしていた」
「普通に授業を受けてました」
「その前は」
「昼食を……」
そこまで言って。
ミアは止まった。
「……あまり、食べてませんでした」
医師が顔を上げる。
「どの程度」
「スープを半分くらいと、パンも残して……でも、お菓子は二つ食べてました」
「朝は?」
「分かりません」
「昨夜は」
「……分かりません。五時間は寝ていたとだけは、聞きました」
何も分からない。
二か月、離れていた。
セレスティーナが何を食べていたのか。
冬休みをどう過ごしていたのか。
知っているのは。
八人の先生に教わったこと。
魔術が上手くなったこと。
毎日三食食べていたと言っていたこと。
五時間くらい寝ていたこと。
それだけだった。
「先生」
アレクサンダーが口を開く。
「こいつ、冬の間に痩せたみたいなんだ」
「みたい?」
「本人は気づいてなかった。侍女が制服を仕立て直したって」
医師の眉間に皺が寄った。
「……なるほどな」
それ以上は言わず、再びセレスティーナを診る。
ミアは寝台の横に座り込んだ。
何もできない。
光の魔術なら使えるようになった。
怪我なら治せる。
けれど、どこにも傷はない。
何を治せばいいのか分からなかった。
だから。
ただ待った。
十分。
二十分。
時々、医師が様子を見る。
アレクサンダーはほとんど喋らなかった。
ジークバルトも壁際に立っている。
トビアスは椅子に座っていたが、いつものように冗談を言うことはなかった。
三十分ほど経った頃。
「……ん」
小さな声がした。
ミアは顔を上げた。
セレスティーナの指が動いた。
「セラ様?」
閉じていたまぶたが、ゆっくり開く。
焦点の合わない瞳が天井を見る。
一度。
二度。
瞬きをする。
「セラ様」
もう一度呼ぶ。
今度は。
ゆっくりと。
セレスティーナの目が、ミアの方へ動いた。
よかった。
それだけ思って、急に胸の奥が締め付けられる気がした。




