7-2 雲を踏む
午後最初の授業は、王国史だった。
休暇前に出されていた課題の確認から始まり、教師がいくつか問いを投げる。
「では、北部三領における街道整備が進められた理由を。レーヴェン嬢」
「はい」
セレスティーナは立ち上がった。
交易路の確保。
冬季に孤立しやすい地域への物資輸送。
国境付近における軍の移動経路。
それぞれについて簡潔に答える。
「結構です。座りなさい」
「はい」
席へ戻る。
何の問題もない。
むしろ、冬休みに教わった内容と重なる部分が多かった。
教師の話が以前よりよく分かる。
教本に書かれている内容だけではなく、その政策が領地経営にどう影響するのかまで考えられる。
やはり、冬の二か月は無駄ではなかった。
次の授業でも同じだった。
法学。
魔術理論。
どれも以前より理解しやすい。
頭はよく働いていた。
少なくとも、セレスティーナはそう感じていた。
午後の実技では、それがもっとはっきりした。
「では、指定された標的へ。初級魔術のみ。威力より速度と精度を優先するように」
教師の指示に従い、生徒たちが順番に魔術を放っていく。
セレスティーナの番になる。
右手を上げる。
氷の矢を構築する。
放つ。
着弾を待たず、次を組む。
一つ。
二つ。
三つ。
構築。
発動。
次。
冬の間に何度も繰り返した動作だった。
考えるより先に、術式が形になる。
標的へ氷の矢が次々と突き刺さった。
最後の一本が当たる。
静かになった訓練場で、教師が時計を見る。
「……速くなったな」
「ありがとうございます」
素直に嬉しかった。
「休暇中も訓練を?」
「はい。魔術教師にご指導いただきました」
「精度も落ちていない。結構です」
「ありがとうございます」
席へ戻る。
その途中、ミアと目が合った。
ミアが嬉しそうに笑う。
セレスティーナも笑い返した。
早く教えてあげたい。
ミアなら、きっともっと上手くなる。
休暇前には一年生の平均まで届いた。
ならば次は、その先だ。
そんなことを考えているうちに、実技の授業も終わった。
「セラ様、すごかったです!」
教室を出るなり、ミアが駆け寄ってくる。
「ありがとうございます」
「前よりずっと速くなってましたよね?」
「はい。構築の方法を少し変えたのです」
「教えてください!」
「もちろんでございます。先ほど申し上げた第三層なのですが――」
「だから歩きながら授業を始めるなって」
後ろから声がした。
振り向けば、アレクサンダーたちも出てくるところだった。
「ですが、放課後になりました」
「そういう意味じゃない」
「では、どのような意味で?」
「せめて座ってやれ」
「ああ」
それなら分かる。
「では、いつもの訓練場へ参りましょうか」
「はい!」
ミアが元気よく答える。
五人で廊下を進んだ。
教室棟から訓練場へ向かうには、中央階段を一階まで下りなければならない。
その手前で、ミアがふとセレスティーナを見た。
「セラ様」
「はい?」
「……いえ」
「何でしょう?」
「なんでもないです」
妙だった。
けれど、ミアがそう言うのなら何でもないのだろう。
歩き続ける。
午前中にも言われた。
歩き方が変わった、と。
自分ではよく分からない。
ただ、以前より歩幅を小さくするよう教わった。
上体を揺らさない。
視線を下げない。
足音を立てない。
ドレスの裾を乱さない。
今は制服だから、領地で練習していた時よりずっと簡単だ。
そのはずだった。
けれど。
足元が、少し遠い。
床を踏んでいる感覚が薄い。
一歩ごとに、身体がふわりと前へ運ばれていく。
雲の上を歩くというのは、こういうものだろうか。
そんなことを考えた。
「セレスティーナ嬢」
今度はジークバルトだった。
「はい?」
「やっぱり、ちょっと歩くの遅くなったな」
「左様でございますか?」
「ああ。まあ、そういう歩き方を習ったんなら、そのせいかもしれないけど」
「そうだと思います」
それ以外に理由は思いつかなかった。
授業は受けられた。
問題にも答えられた。
魔術も使えた。
しかも、休暇前より速くなっている。
具合が悪いはずがない。
階段へ着く。
セレスティーナは自然に手すりへ手を置いた。
一段。
足を下ろす。
二段。
三段。
「セラ様、第三層って、どこを変えるんですか?」
隣を歩くミアが尋ねる。
「基礎式そのものは変えません。魔力を流す順番を少し変えるのです」
「順番?」
「はい。通常ですと、外側まで構築してから魔力を――」
一段。
「――流しますが、先に中心へ――」
もう一段。
「――少量だけ通しておくと、次の――」
足が止まった。
「セラ様?」
「はい?」
ミアを見る。
「どうしました?」
「……いえ」
ミアの方が首を傾げた。
セレスティーナも首を傾げる。
何だったのだろう。
話の続きを考える。
「次の構築へ移る際の――」
階段を下りる。
一段。
二段。
足が床へつくまで、いつもより少し長い。
けれど。
問題はない。
「セレスティーナ」
アレクサンダーの声がした。
「はい?」
「手すり、ずっと掴んでるぞ」
言われて、右手を見る。
確かに握っていた。
「階段ですので」
「お前、前はそんな歩き方してなかっただろ」
「冬の間に――」
「歩き方を習ったのはもう聞いた」
「では、問題ございません」
「なんでそうなる」
トビアスが小さく笑った。
「殿下。今それを聞いても、たぶん答えは変わらないよ」
「分かってる」
アレクサンダーが眉を寄せる。
「セレスティーナ。どっか具合悪くないか?」
「ございません」
今度はすぐに答えられた。
「頭痛は?」
「ございません」
「眩暈」
「ございません」
「気持ち悪いとか」
「いいえ」
本当に、どれもなかった。
「ならいいけど……」
納得していない顔だった。
心配をかけてしまったらしい。
けれど。
何もないのだから、どうしようもない。
「殿下。ご心配いただきありがとうございます」
「……別に礼が欲しいわけじゃない」
「はい」
階段を下りきる。
そこから訓練場へ向かう渡り廊下を進んだ。
外から冷たい風が吹き込んでくる。
気持ちがよかった。
少しだけ、頭がはっきりしたように思う。
やはり何の問題もない。
訓練場へ着けば、ミアに教えることができる。
冬の間に覚えたこと。
試したこと。
速くなった方法。
考えるだけで楽しい。
「ミア様」
「はい」
「先ほどの続きなのですが」
「はい!」
「中心部へ流す魔力は、本当に僅かでよいのです。多すぎますと、そのまま発動してしまいますので――」
話しながら、別棟へ続く短い階段へ差しかかった。
今度は上りだった。
一段目へ足を乗せる。
二段目。
三段目。
右手を手すりへ置く。
「最初は、発動しても危険のない水属性で練習するのがよろしいかと――」
四段目。
五段目。
足が重い。
そう思った。
けれど。
それはおかしなことではない。
階段を上っているのだから、平らな廊下より重いのは当然だ。
「――思います」
次の段へ足を上げる。
つま先が、石段の縁に当たった。
「あ」
身体が前へ傾く。
腕を掴まれた。
「危なっ」
ジークバルトだった。
すぐ後ろを歩いていたらしい。
引かれて、身体が戻る。
「申し訳ございません」
「大丈夫か?」
「はい。少し躓きました」
「いや……」
ジークバルトが腕を離さない。
「セレスティーナ嬢、本当に大丈夫か?」
「はい」
答える。
普通に話せる。
どこも痛くない。
「足が少し上がらなかっただけでございます」
「それを大丈夫って言うのか?」
アレクサンダーが前へ出てきた。
「医務室行くぞ」
「必要ございません」
「ある」
「足を少し引っかけただけでございます」
「昼からずっと変だろ」
「そうでしょうか」
「そうです」
今度はミアだった。
思いがけず強い声に、セレスティーナは目を瞬く。
「セラ様、朝からちょっとふわふわ歩いてます」
「冬の間に歩き方を――」
「それだけじゃない気がします」
「ですが」
セレスティーナは少し考えた。
どう説明すれば、安心してもらえるだろう。
「授業も問題なく受けられました。王国史の問いにもお答えできましたし、魔術も休暇前より速くなっております」
「それは見たけど」
「でしたら、問題ございません」
「だからなんでそうなるんだよ」
アレクサンダーが額を押さえた。
「とにかく医務室だ」
「ですが、これからミア様に――」
「魔術は明日でもできるだろ」
「……」
それはそうかもしれない。
けれど。
せっかく約束したのに。
二か月ぶりに会えたのに。
「セラ様」
ミアが心配そうにこちらを見ている。
その顔を見ると、これ以上断るのもよくない気がした。
「……承知いたしました」
アレクサンダーが息を吐いた。
「最初からそう言え」
「申し訳ございません」
「謝らなくていい」
それも以前に言われた気がする。
セレスティーナは手すりを握り直した。
医務室へ行くのなら、まずこの階段を上らなければならない。
あと数段。
問題ない。
一歩。
足を上げる。
石段へ置く。
次。
右足に力を入れる。
身体を持ち上げる。
そのはずだった。
「あ…」
声が出た。
右足が、動かなかった。
いや。
動いているのかもしれない。
分からない。
視界の端が、急に暗くなる。
「セレスティーナ?」
アレクサンダーの声。
返事をしなければ。
問題ないと。
そう思った。
「だい――」
そこまでだった。
膝から力が消えた。
身体が落ちる。
けれど、石段へぶつかる衝撃は来なかった。
「セレスティーナ!」
誰かに腕を引かれた。
声が近い。
遠い。
どちらなのか、分からない。
「セラ様!」
ミア様。
そう思った。
返事を。
心配をかけてしまう。
目を開けなければ。
けれど。
どうすれば目を開けられるのかが、分からなかった。
「おい、セレスティーナ!」
肩を揺すられる。
何かが頬に触れる。
声は聞こえているような気がする。
それなのに。
身体が一つも動かなかった。
最後に思ったのは。
ミア様に、まだ何も教えて差し上げていない。
ということだった。
そこで。
何も分からなくなった。




