6-4 公爵令嬢の過ごす冬 後半
領地での二か月は、驚くほど早く過ぎていった。
朝六時に起きる。
身支度を整え、重いドレスを纏う。
七時から食事を取りながら、各地の産物や社交について学ぶ。
八時から午前の講義。
正午には再び正餐。
午後は魔術と護身術。
夕方からまた講義を受け、十九時からその日三度目の正餐。
二十時を過ぎれば、湯浴みと身体の手入れ。
二十二時。
使用人たちが下がってから、ようやく一人になる。
それから、その日の復習と課題。
同じような毎日だった。
けれど、一日として同じ日はなかった。
昨日知らなかったことを、今日は知っている。
昨日できなかったことが、今日はできる。
次の日には、また新しいことを教えてもらえる。
セレスティーナには、それが楽しかった。
「もう一度」
魔術教師の声に、セレスティーナは右手を上げる。
氷の矢を構築する。
放つ。
消えるより先に、次を組む。
一つ。
二つ。
三つ。
術式が途切れない。
以前なら、一瞬だけ存在した空白がなくなっていく。
「十二秒」
教師が告げる。
セレスティーナは手を下ろした。
「何本でございましたか?」
「百八十二」
目を見開く。
以前より、また速くなっている。
「もう一度お願いいたします」
「結構です」
「ですが」
「速度だけを上げる訓練ではありません。次は精度を確認します」
「……はい」
少し残念だった。
けれど、教師がそう言うのなら、今度は精度を上げればいい。
十本の標的へ順番に当てる。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
一つ外れた。
「七番が左へ逸れました」
「はい」
「もう一度」
「はい」
楽しかった。
魔術は、やればやるほど変わる。
ほんの少し構築を変えるだけで速くなる。
魔力の流れを整えれば、精度が上がる。
発動せずに術式を解く訓練も、毎晩続けている。
湯浴みの間。
髪を整えてもらっている間。
マッサージを受けている間。
身体を動かせない時間にも、できることはある。
火。
水。
風。
土。
構築。
解除。
構築。
解除。
初めの頃より、随分速くなった。
ミア様にも教えて差し上げられるだろうか。
そう考えると、さらに嬉しくなった。
ミアは普通の魔術を覚えたいと言っていた。
休暇前には、四属性すべてで一年生の平均程度まで使えるようになった。
ならば、次はもう少し先へ進める。
自分は光の魔術だけは使えない。
けれど。
火、水、風、土。
四属性なら、上級まで一通り修めている。
この二か月で、教師から新しく教わったこともたくさんある。
ミアが困った時。
分からないことがあった時。
今までより、もっと力になれるかもしれない。
「……ふふ」
小さく笑ってしまった。
「何か?」
魔術教師に尋ねられる。
「いいえ。失礼いたしました」
表情を戻す。
けれど、胸の奥は少し温かいままだった。
学院を離れてからも。
時々、四人のことを思い出した。
温かなスープを見ると、昼食の時間を思い出す。
珍しい菓子が出れば、ミアなら喜ぶだろうかと考える。
教師に厳しいことを言われた時には、トビアスならどんな顔をするだろうと思う。
護身術の教師に足運びを褒められれば、ジークバルトにも見てもらいたくなった。
そして。
夜。
時計を見ると。
時々、アレクサンダーの声が蘇った。
――お前の三十分は信用できない。
「……」
机の上には、あと二つ課題が残っている。
時計は十二時二十分。
一つなら終わる。
二つは。
少し考える。
――六時間って、六時間ぎりぎりを狙う意味じゃないですからね?
今度はミアの声がした。
「……一つだけにいたしましょう」
自分なりに譲歩した。
それでも時折、日付を越えた。
一時近くになる日もあった。
けれど、それ以上になることはほとんどなかった。
セレスティーナとしては、随分きちんと休んでいるつもりだった。
実際、朝は起きられる。
六時に侍女が来れば、目を開けられる。
着替えられる。
歩ける。
食事も取れる。
授業も理解できる。
魔術も以前より速くなった。
むしろ、余計なことを考える暇がない分、頭は以前より澄んでいるようにさえ感じた。
次に何をするか。
何を覚えるか。
何を直すか。
それだけを考えていればいい。
身体の重さも。
時折、立ち上がった時に視界が少し暗くなることも。
長く座った後、足へうまく力が入らないことも。
次の予定が始まれば、すぐに意識から消えた。
動けている。
ならば、問題はない。
休暇も終わりに近づいたある日。
王都にいた母が、領地へ戻ってきた。
滞在は数日だけだった。
社交期はまだ終わっていない。
それでも、セレスティーナの二か月の成果を確認する時間が設けられた。
応接室へ入る。
「お母様」
「セレスティーナ」
母は、二か月前とほとんど変わらない姿でそこにいた。
華やかなドレス。
整えられた髪。
背筋の伸びた、美しい立ち姿。
セレスティーナは教わった通りに進む。
歩幅を一定に。
裾を乱さず。
決められた位置で止まる。
礼。
「お久しゅうございます」
「ええ」
母の視線が、頭から足元までゆっくり動いた。
「顔を上げなさい」
「はい」
言われた通りにする。
「歩いてみなさい」
セレスティーナは歩いた。
止まる。
向きを変える。
再び歩く。
「座って」
椅子へ腰を下ろす。
教師たちから何度も直された動きを、一つずつ身体が再現する。
母はしばらく見ていた。
「以前よりは、王太子妃となる自覚が出てきたようですね」
セレスティーナの胸が跳ねた。
「……ありがとうございます」
褒められた。
母に。
ほんの少し。
以前よりは、と。
それだけで十分だった。
「教師たちからも報告を受けています」
「はい」
「まだ不足しているところは多くあります。学院へ戻っても、気を抜かないように」
「承知いたしました」
「この調子で励みなさい」
「はい」
今度は、少し声が弾んだ。
母はそれ以上何も言わなかった。
抱きしめることも。
頭を撫でることも。
よく頑張りましたと、優しく笑うこともなかった。
けれど、セレスティーナには必要なかった。
見てもらえた。
以前より良くなったと認めてもらえた。
この調子で励めと言ってもらえた。
それだけで。
二か月頑張ってよかったと思った。
その日の夜。
マッサージを受けながら、セレスティーナはいつもより少し機嫌がよかった。
温められた香油が、肩から背中へ伸ばされる。
凝り固まった筋肉を指で押されると、身体の奥に鈍い痛みが走った。
「少し強うございますか?」
「いいえ。とても気持ちがよろしいです」
本当に、そう思った。
痛みより。
身体が少しずつ軽くなっていく感覚の方が心地よかった。
頭の中では、今日も術式を組む。
構築。
解除。
構築。
解除。
以前より速い。
明日、もう一度試してみよう。
学院へ戻ったら。
ミアにも教えてあげたい。
どこまでできるようになっただろう。
きっとミアも、この二か月でたくさん勉強したのだろう。
アレクサンダーは。
年末年始の祭祀が忙しいと言っていた。
無事に終わっただろうか。
トビアスとジークバルトも一緒だと言っていたから、きっと大丈夫だろう。
皆に会ったら。
話したいことが、たくさんある。
そして。
二か月は、本当にあっという間に過ぎた。
最後の夜。
セレスティーナは、荷造りの済んだ部屋を見回した。
明日の朝には、ここを発つ。
馬車で一日。
その日のうちに王都へ戻る。
そして、休暇が明ければ学院が始まる。
机の上には、この冬に使った教本が積まれていた。
たくさん教わった。
できることが増えた。
魔術も上達した。
礼法も。
歴史も。
法学も。
領地経営も。
外交も。
まだ足りない。
けれど。
二か月前の自分よりは、少しだけ王太子妃に近づけたらしい。
母がそう言ってくれた。
それが、何より嬉しかった。
時計を見る。
十二時を少し過ぎている。
明日は馬車の中でも休める。
だから、もう少しだけ――。
そこまで考えて。
「……」
ミアの顔が浮かんだ。
少し考える。
セレスティーナは素直に本を閉じた。
「今日は、ここまでにいたしましょう」
自分としては、随分立派な判断だった。
ベッドへ入る。
身体を横たえると、全身が深く沈み込むような感覚がした。
二か月前より、身体が軽くなっていることには気づかなかった。
頬が少し痩せたことにも。
コルセットを締める位置が、最初より一つ内側へ変わっていたことにも。
朝、起き上がってから身体が命令を聞くまでに、少し時間がかかるようになったことにも。
気づく必要がなかった。
毎日動けた。
毎日学べた。
できることは増えた。
だから。
とてもよい冬休みだった。
明日には王都へ帰る。
もうすぐ。
ミアに会える。
アレクサンダーに。
ジークバルトに。
トビアスに。
また、五人で昼食を食べられる。
そう思うだけで、胸が弾んだ。
セレスティーナは目を閉じた。
学院が始まるのが。
とても楽しみだった。




