6-3 公爵令嬢の過ごす冬 前編
レーヴェン領までは、王都から馬車で一日ほどかかった。
朝早く王都の屋敷を出て、セレスティーナは侍女のエマと護衛数名を伴って領地へ向かった。
母は王都に残る。
冬の社交期は、公爵夫人にとって一年でも特に忙しい季節だった。夜会や晩餐会へ出席し、他家との関係を保ち、時には夫であるレーヴェン公爵の代理として人に会う。
セレスティーナには、別の役目がある。
王太子妃となるための勉強。
そのために、二か月のほとんどを領地で過ごすことになっていた。
馬車の中で、セレスティーナは窓の外を眺めていた。
学院を離れるのは、少し寂しい。
朝になってもミアはいない。
昼になっても、五人で食卓を囲むことはない。
けれど。
「どのような先生方なのでしょう」
向かいに座るエマへ尋ねた。
「八名の教師がお待ちです」
「八名も?」
思わず声が弾んだ。
「はい。礼法、歴史、法学、領地経営、外交、魔術、護身術など、それぞれ専門の方がお越しになると伺っております」
「まあ……」
セレスティーナは目を輝かせた。
一人や二人ではない。
八人。
それぞれの分野を専門に学んだ人々が、自分一人のために時間を使ってくれる。
前の世界なら、考えられないことだった。
「とても贅沢でございますね」
「王太子妃となられるお嬢様ですから」
「はい」
その言葉に、自然と背筋が伸びる。
それだけのものを与えてもらえるのだ。
ならば。
きちんと応えなければならない。
領地の屋敷へ到着すると、翌日から始まる予定が渡された。
朝、六時起床。
夜、十時まで。
その間の予定が、ほとんど隙間なく記されている。
移動時間。
着替え。
食事。
授業。
訓練。
湯浴み。
身支度。
それぞれが細かく区切られ、何時何分にどこへいるべきかまで決められていた。
セレスティーナは感心した。
「これほど細かく組んでくださったのでございますか」
「奥様が事前に手配なさいました」
エマが答える。
「お嬢様が王太子妃となられるまで、時間は限られておりますから」
「お母様が……」
胸の奥が温かくなった。
母は王都で忙しくしている。
それなのに。
自分のために、これほどの準備をしてくれたのだ。
「ありがたいことでございますね」
セレスティーナは、予定表を大切に机へ置いた。
翌朝。
六時。
セレスティーナの一日は、侍女たちによる身支度から始まった。
学院の制服とは違う。
淑女として正式な場へ出ても恥ずかしくない、きっちりとしたドレス。
コルセットを締め、何枚もの布を重ね、形を整える。
「苦しくはございませんか?」
エマが確認する。
セレスティーナは一度息を吸った。
確かに、普段より深くは入らない。
けれど。
「問題ございません」
歩ける。
腕も動く。
頭もはっきりしている。
ならば問題はない。
身支度を終えると、最初の教師が待っていた。
淑女としての立ち居振る舞い。
歩き方。
座り方。
立ち方。
扇の扱い。
ドレスの裾の捌き方。
学院の制服とは、布の量も重さもまるで違う。
「歩幅が広うございます」
「はい」
「もう一度」
「はい」
言われた通りに戻る。
歩く。
「裾を蹴らないように」
「はい」
もう一度。
今度は、記憶を探った。
かつてのセレスティーナが、このような服を着ていた時。
身体をどう動かしていたか。
足をどこへ出していたか。
どの程度膝を曲げ。
どこへ重心を置いていたか。
記憶の中にある動きを、そのまま身体へ命じる。
次の一歩で、ドレスの裾が綺麗に流れた。
教師がわずかに目を細める。
「……結構です」
できた。
セレスティーナの胸に、小さな喜びが灯った。
素晴らしい。
記憶がある。
身体も、それに応えてくれる。
ならば、覚えられる。
教師は褒めなかった。
それでよかった。
母から教師たちへは、あらかじめ言い含められていた。
娘は反抗的なところがある。
甘くすれば、すぐに付け上がる。
王太子妃となる身なのだから、決して甘やかさず、徹底的に教えてほしい。
教師たちは、その言葉を忠実に守っていた。
できなければ指摘する。
できるまで繰り返させる。
できたなら。
「結構です。次へ参りましょう」
それだけだった。
セレスティーナに不満はなかった。
むしろ、とても分かりやすい。
できていないところを教えてもらえる。
直せば、次へ進める。
七時。
朝食。
ただ食べるだけではない。
正餐形式で供される料理を前に、各地の名産や産地について答え、同席した教師と会話を続ける。
「こちらの燻製肉は、どこのものかご存じですか」
「北西部のアルノー地方であったかと存じます」
「それだけでは会話になりません」
「……はい」
教師が手本を示す。
産地を答える。
気候へ触れる。
今年の生産量や、王都での流通について話題を広げる。
ただ知識を披露するのではなく、相手が返しやすい問いを混ぜる。
「社交の場では、正解を答えることが目的ではございません」
「はい」
「相手に心地よく話していただくことをお考えください」
「承知いたしました」
二度。
三度。
手本を見せてもらう。
「次回までに、同程度の会話ができるように」
「はい」
また一つ、覚えることが増えた。
嬉しかった。
八時から正午までは、勉学だった。
日によって教師は変わる。
王国史。
周辺諸国の歴史。
法学。
領地経営。
外交。
王家の系譜。
貴族家の関係。
王太子妃として知っておくべきことは、いくらでもあった。
一人の教師が二時間ほど教え、短い移動を挟んで、次の教師へ替わる。
教師たちは互いの授業内容を詳しくは知らない。
自分が受け持つ分野について、二か月の間に予定されたところまで進める。
それぞれが、それぞれの役割を果たしていた。
「ここは次回までに」
「はい」
「先ほどの三家については、当主だけでなく配偶者と嫡子まで覚えておいてください」
「承知いたしました」
「この法については関連条文も確認を」
「はい」
紙の上に、次々と書き留める。
こんなにたくさん教えてもらえる。
知らないことを。
必要になることを。
自分一人のために。
なんて恵まれているのだろう。
正午には、再び食卓へ着いた。
朝とは違う地方の料理が並んでいる。
海から遠いレーヴェン領では珍しい魚。
香草を使ったスープ。
手の込んだ肉料理。
果物を煮詰めた甘味。
どれも、前の世界では見たこともないほど豪華だった。
「こちらは南部の港町でよく使われる香草でございます」
教師の説明を聞きながら、セレスティーナは少しずつ口へ運ぶ。
美味しい。
けれど、あまり入らなかった。
コルセットに締められた腹部は、普段よりずっと早く満腹を訴える。
数口。
スープ。
肉を少し。
付け合わせ。
それだけで、もう十分な気がした。
「食事の場では、召し上がりすぎないことも大切です」
教師が言った。
「王太子妃ともなれば、食事そのものより会話が重要となる場も多うございます」
「はい」
「今程度で結構でしょう」
褒められた。
セレスティーナは嬉しくなった。
食べられないのではない。
淑女として、正しい量を食べられているらしい。
素晴らしい。
午後は、身体を使う時間だった。
魔術。
護身術。
合わせて四時間。
ドレスから訓練着へ着替え、魔術の制御を繰り返す。
「発動が早すぎます」
「はい」
「王族の側で魔術を扱う以上、威力より制御を優先してください」
「承知いたしました」
魔力を集める。
術式を組む。
発動直前で解く。
もう一度。
組む。
解く。
組む。
解く。
学院でミアたちと練習した方法に似ている。
それに気づくと、少し楽しくなった。
ミアは今頃、何をしているだろう。
聖女としての勉強をしていると言っていた。
きっと頑張っている。
ならば自分も頑張ろう。
護身術では、重心の置き方からやり直した。
「足が遅い」
「はい」
「もう一度」
「はい」
「相手を見て」
「はい」
何度でも繰り返す。
身体はよく動いた。
午前中にコルセットを締めていたせいか、外した後も胸の辺りに少し圧迫感が残っていたけれど、走れる。
考えられる。
指示された動作もできる。
問題はない。
訓練を終えると、また着替える。
それから、夕方の講義。
十九時には三度目の正餐。
今度は西部の料理だった。
朝とも昼とも違う。
本当に毎食、様々なものが出てくる。
「美味しゅうございます」
思わず口にすると、給仕をしていた使用人が少しだけ目を丸くした。
以前のセレスティーナなら、料理についてそんなことを口にすることはほとんどなかった。
けれど、何も言わず頭を下げる。
セレスティーナは気づかなかった。
今日一日で、どれだけ食べただろう。
朝も。
昼も。
夜も。
豪華な料理が並んだ。
だから、たくさん食べたような気がしていた。
実際には、どの食事もほんの少しずつしか口にしていない。
けれど空腹も、それほど感じなかった。
コルセットを外しても、腹部にはまだ締めつけられていた感覚が残っている。
それに。
考えることが多すぎて、食事のことなどすぐに忘れた。
二十時。
一日の勉強が終わる。
けれど、セレスティーナの予定はまだ終わらない。
湯浴み。
肌の手入れ。
髪。
爪。
そして、全身のマッサージ。
「失礼いたします」
温めた香油が背中へ伸ばされる。
セレスティーナは、思わず息を吐いた。
「……とても気持ちがよろしいのですね」
施術をしていた女性の手が、一瞬だけ止まった。
「ありがとうございます」
「このようなことまでしていただけるなんて」
本当に贅沢だった。
前の世界では、マッサージなど受けたことがない。
肩が痛ければ、そのまま働いた。
足が重ければ、歩ける限り歩いた。
身体を手入れするためだけに、誰かが二時間近くも時間を使ってくれる。
信じられないほどの待遇だった。
横になっているだけでは申し訳ない気がして。
セレスティーナは、頭の中で術式を組んだ。
火。
構築。
解除。
水。
構築。
解除。
風。
構築。
解除。
発動させない。
魔力もほとんど消費しない。
身体を動かす必要もない。
ならば、施術の邪魔にもならない。
ちょうどいい。
温かな手が肩をほぐしていく間にも、一つ。
髪へ香油を馴染ませてもらう間にも、一つ。
肌の手入れをしてもらう間にも。
構築。
解除。
構築。
解除。
無駄な時間がない。
素晴らしい一日だった。
二十二時。
使用人たちが下がる。
「おやすみなさいませ、お嬢様」
「おやすみなさい、エマ」
扉が閉じる。
部屋が静かになった。
セレスティーナは机へ向かった。
今日出された課題を並べる。
王国史。
法学。
明日の朝食で使う会話の準備。
貴族家の系譜。
今日指摘されたところを、忘れないうちに整理しておきたい。
二時間あれば、かなり進められる。
ペンを取った。
こんなに恵まれた環境を用意してもらったのだ。
八人もの教師。
毎食違う豪華な料理。
自分の身体を整えるためだけに来てくれる人たち。
母が、自分のために組んでくれた予定。
公爵家が自分へ注いでいるものが、どれほど大きいのか。
セレスティーナに正確な金額は分からない。
けれど、安くないことくらいは分かる。
ならば。
応えなければ。
期待してもらっている。
王太子妃になれるように。
きちんと役目を果たせる人間になれるように。
これほどのものを与えてもらっている。
嬉しかった。
本当に。
幸せだった。
時計の針が、十二時を回った。
あと少し。
法学の課題だけ終わらせてしまいたい。
ペンを走らせる。
十二時十五分。
まだ大丈夫。
十二時半。
もう少し。
ふと。
頭の中に声がした。
――六時間です。
ミア。
セレスティーナの手が止まった。
時計を見る。
明日の起床は六時。
今から眠れば。
「……」
少し考える。
あと三問。
終わらせられる。
けれど。
――六時間って、六時間ぎりぎりを狙う意味じゃないですからね?
思い出した。
セレスティーナは、しばらく課題と時計を見比べた。
「……明日にいたしましょう」
小さく呟く。
紙を揃えた。
今日は、随分よく勉強できた。
明日もまた、朝から先生方が来てくれる。
ベッドへ入ったのは、午前一時になる少し前だった。
身体は重かった。
けれど、今日一日で覚えたことを思えば、それも当然なのだろう。
目を閉じる。
明日は何を教えてもらえるだろう。
朝食には、どこの料理が出るのだろう。
次はもっと上手に歩けるだろうか。
考えているうちに、意識が沈んでいく。
セレスティーナは満足していた。
何一つ、不満はなかった。
毎日、朝から夜まで自分のために予定が組まれている。
教えてくれる人がいる。
食事が出る。
身体まで手入れしてもらえる。
そして自分には、それに応えるための身体がある。
こんなに恵まれた冬を。
セレスティーナは、これまで知らなかった。




