6-2 王太子の過ごす冬
王家の冬は、忙しい。
アレクサンダーは物心がつくより前から知っていた。
年の終わりを神々へ報告する祭祀。
新しい年の安寧を願う祈祷。
王家に仕える者たちを労う式典。
新年最初の謁見。
その合間には、王都へ集まった貴族たちとの挨拶や会食もある。
王太子であるアレクサンダーも、十五歳になった今年は父王の隣に立つ機会が随分増えた。
幼い頃なら、最初と最後だけ出席すればよかった祭祀にも最初から最後まで参列する。王に代わって祈りの言葉を読み上げることもあれば、名代として供物を捧げることもあった。
ジークバルトとトビアスも、すべてではないものの、その多くに同行している。
もっとも。
「殿下。次は南部三家のご挨拶です」
「分かってる」
「その次が神殿関係者との会食」
「それも聞いた」
「その後――」
「まだあるのか?」
「あります」
トビアスは涼しい顔で予定表をめくった。
「夜まで」
「……学院の方が楽な気がしてきた」
「奇遇だね。僕もそう思ってた」
隣でジークバルトが笑った。
学院にいた頃は、休暇に入れば少しくらい楽になると思っていた。
まったくの勘違いだった。
そんな日々の合間に、珍しく何も予定のない午後ができた。
正確には、作られていた。
「今日はもうよい。あとは明日に回そう」
父王からそう言われ、アレクサンダーは少し驚いた。
「ですが父上、この後は――」
「私の予定も空けてある」
「……はい」
「母上が待っているぞ。行こう」
連れていかれたのは、公式の応接室ではなかった。
王と王妃が私的に使う、小さな居間だった。
小さいとはいえ王宮の一室なので、一般の屋敷なら十分に立派な広さではある。けれど、玉座もなければ、壁際に臣下が控える場所もない。
窓際の丸い卓には、三人分の茶が用意されていた。
「いらっしゃい、アレクサンダー」
「母上」
王妃が微笑む。
アレクサンダーは父に続いて席についた。
侍女が茶を注ぎ、菓子を置いて退出する。
扉が閉まれば、部屋には三人だけになった。
王と。
王妃と。
その一人息子。
こうして三人だけで茶を飲むのは、いつ以来だろう。
仲が悪いわけではない。
父も母も、アレクサンダーを大切にしてくれている。
けれど父は王で。
母は王妃で。
自分は王太子だった。
食事を共にすることはあっても、そこには大抵誰かがいる。
教師。
侍従。
臣下。
あるいは客人。
親子三人だけという時間は、幼い頃より随分減っていた。
「学院はどうだ」
父が尋ねた。
「問題なく学んでおります」
答えると、父が少し笑った。
「そういう報告を聞きたいわけではない」
「……では、何を」
「楽しいか?」
思いがけない質問だった。
アレクサンダーは少し考える。
「……はい」
口にしてみれば、思ったより素直に答えられた。
「そうか」
父はそれだけ言って、茶を飲んだ。
けれど、どこか満足そうだった。
「最近のお前を見ていると、少し安心する」
「何かございましたか?」
「いや。何かあったというより、なくなったのだろうな」
意味が分からず、アレクサンダーは父を見る。
「少し、捻くれたところがなくなった」
「……父上」
「あなた」
王妃がたしなめるように呼んだが、その口元は笑っていた。
「事実だろう」
「そうですけれど、本人を前にして言うことではありません」
「母上まで」
味方はいなかった。
アレクサンダーは菓子へ手を伸ばした。
父はそんな息子を見ながら、穏やかに続ける。
「初めての子供だったからな。私たちも、少々甘やかしすぎたかもしれないと思っていた」
「そのようなことは」
「ない、と自分で言うのか?」
言えなくなった。
王妃が小さく笑う。
「学院へ入って、同じ年頃の方々と過ごすようになったのは、あなたにとって良いことだったのでしょうね」
「ジークとトビアスとは、以前から一緒でしたが」
「二人だけではないでしょう?」
そう言われる。
確かに。
学院へ入ってから、自分の周囲には随分人が増えた。
そして。
「そういえば」
王妃が茶器を置いた。
「セレスティーナ嬢とは、どうなのです?」
アレクサンダーの手が止まった。
「どう、とは」
「随分様子が変わったと聞いています」
当然、母の耳にも入っている。
セレスティーナ・フォン・レーヴェンが、夏頃から別人のように変わったこと。
聖女であるフェリシアンヌと親しくしていること。
以前のように周囲と衝突することもなくなり、むしろ学院では頼み事をされるほどになっていること。
どこまで知っているのかは分からない。
「……以前とは、違います」
「仲良くしているのでしょう?」
「仲が良いというか……」
言葉に困った。
以前よりは良い。
それは間違いない。
以前のセレスティーナとは、顔を合わせれば互いに苛立っていた。
何を言っても噛みついてくる。
こちらも負けじと言い返す。
婚約者であることさえ鬱陶しかった。
今は。
「悪くはありません」
「そう」
「ただ、婚約者としては……」
そこで言葉が止まった。
何故か。
別の顔が浮かんだ。
金色の髪が揺れる。
春の日差しのような明るい色。
振り返った少女の桜色の瞳が、嬉しそうに輝く。
――アレク様!
ミア。
何かできるようになるたび、こちらまで嬉しくなるほど喜ぶ。
普通の魔術が使えた時も。
試験で平均点を取った時も。
いつだって、素直だった。
それから。
銀色の髪。
腕の中にあった、ひどく軽い身体。
血に濡れた制服。
意識を失い、自分では何一つ支えられなくなった柔らかな身体を抱き上げた時の感触を、今でも覚えている。
あれだけ血を流して。
九階層から運び出されて。
目を覚ましたら、何事もなかったように迷宮に戻ろうとした。
その後は人の頼み事を五十件以上も引き受けて、眠らずに全部片づけた。
止めれば、不思議そうな顔をする。
怒れば、謝る。
謝るなと言えば、今度はどうすればいいのか分からなくなる。
――わたくしにできることでございましたので。
「…………」
何を考えているんだ、俺は。
アレクサンダーは茶を飲んだ。
少し冷めていた。
「アレクサンダー?」
母に呼ばれる。
「はい」
「顔が赤いですよ」
「赤くありません」
即答した。
王妃が父を見る。
父も王妃を見る。
二人とも、何故か微笑んでいた。
「なんですか」
「何も」
「では、その顔はなんですか」
「いや」
父は楽しそうだった。
「色々と思い悩むのは、若いうちの特権だと思ってな」
「別に悩んでなど」
「そうか」
「そうです」
「なら、そういうことにしておこう」
明らかに信じていない。
アレクサンダーは少しむくれて、菓子を一つ取った。
「父上も母上も、楽しんでおられませんか」
「少しだけ」
母が答えた。
トビアスと同じことを言う。
「母上まで……」
王妃が笑った。
父も笑う。
アレクサンダーは納得がいかなかったが。
それでも。
悪い時間ではなかった。
王太子としてではなく。
次代の王としてでもなく。
一人息子として父と母にからかわれる時間など、随分久しぶりだった。
父と母との茶の時間を終え、アレクサンダーが居間を出たところで、廊下の向こうから軽い足音が聞こえてきた。
王と王妃の私室に近い区画で、堂々と廊下を走る者などそうはいない。アレクサンダーが足を止めると、ほどなく角から一人の少女が姿を現した。
「お兄様!」
「リーゼ。廊下を走るな」
「申し訳ございません。ですが、お兄様がお部屋へ戻られる前にと思いまして」
そう言いながらも、悪びれた様子はあまりない。
エリザヴェータ・ヴァン・グランツ。国王フリードリヒの第二夫人、故マルガレーテの娘であり、アレクサンダーより二つ年下の異母妹だった。
艶のある黒髪は兄とよく似ている。一方、こちらを見上げる瞳は鮮やかな橙色で、それは亡き母から受け継いだものだった。
今日はドレスではなく、騎士服を模した濃色の稽古着を身につけている。長い髪は邪魔にならないよう高い位置でまとめられていたが、何本かは既に解けて頬へ張りついていた。白い頬にも健康的な赤みが差していて、つい先ほどまで身体を動かしていたことは一目瞭然だった。
「また稽古か」
「はい。今日は先生に、踏み込みが随分よくなったと褒めていただきました」
「俺の先生に?」
「お兄様が学院へ行かれている間は、お時間がおありでしょう?」
しれっと言われて、アレクサンダーは妹を見下ろした。
幼い頃からこういうところがある。
兄の後ろをついて回っては、いつの間にかジークバルトに木剣を持たせてもらい、騎士たちの鍛錬を眺めては真似をする。そのうち護身術を習い始め、気づけばアレクサンダーが長年師事していた剣術指南役にまで稽古をつけてもらうようになっていた。
母も最初の頃こそ、もう少し王女らしいことに興味を持ってほしいと思っていたらしい。
けれどリーゼは、礼儀作法も舞踏も刺繍も、教師から合格をもらえるところまではきちんとやる。
やるべきことを終えた上で、「では本日の課題はすべて終わりましたので」と稽古場へ行くのだから、母としても止める理由がなくなってしまった。
最近ではとうとう、『騎士を目指すことは止めません。ただし、王女としての教育を疎かにすることは許しません』というところまで譲歩したらしい。
そして娘の方は、それを全面的な許可として受け取っている。
「それで、お兄様」
リーゼが一歩近づいた。
「またお稽古をつけてくださいませ!」
「今からか?」
「もちろんです。この冬こそ、お兄様から一本取ってみせますわ」
橙色の瞳がきらきらと輝いている。
「嫌だ。さっきまで父上と母上に付き合ってたんだ。少しくらい休ませろ」
「では、お休みになってからで構いません」
「今日やるとは言ってない」
「明日でも構いませんわ」
「予定がある」
「では明後日」
「お前な……」
どうあっても諦める気はないらしい。
アレクサンダーはため息をつき、結局、妹を連れて自室へ戻った。
さすがに稽古着を来たままというわけにはいかないと侍女に押し切られ、リーゼは一度着替えてからやってきた。今度は王女らしい淡い色のドレスに身を包み、髪も綺麗に結い直されている。
先ほどまで木剣を振っていた少女と同一人物とは思えない。
侍女が二人分の茶を用意する間も、背筋を伸ばして優雅に椅子へ腰掛けている。
「できるなら最初からそうしていろよ」
「必要な時にはしております」
「そういうところだぞ」
「何がですの?」
まったく分かっていない顔で首を傾げる。
やがて侍女が退出すると、リーゼは待っていましたとばかりに身を乗り出した。
「それよりお兄様。学院のお話を聞かせてくださいませ」
「学院?」
「はい。お兄様はお帰りになってから、式典とご公務のお話ばかりではありませんか。わたくし、学院のお話をほとんど伺っておりません」
「別に面白いことなんてないぞ」
「ありますわ」
リーゼは断言した。
「聖女様とは、どのような方ですの?」
「ああ」
そういうことか。
今年学院へ入った聖女の話は、当然王宮にも届いている。むしろ王家にとって無関係ではいられない相手なのだから、十三歳の王女の耳に入っていないはずがなかった。
「普通の子だよ」
「普通?」
「普通」
「聖女様ですのに?」
「聖女でも腹は減るし、試験ができれば喜ぶ」
「まあ」
リーゼの瞳がますます輝いた。
「お美しい方ですか?」
「まあ……そうなんじゃないか」
「お兄様から見ても?」
「なんで俺基準なんだよ」
「深い意味はございませんわ。では、奇跡のお力は本当にございますの? 神殿では大変強い治癒のお力をお持ちだと伺いました。光の魔術も使われるのでしょう?」
「使う。俺も一度治してもらった」
「まあ!」
椅子から立ち上がりそうになったリーゼが、寸前で思いとどまる。
そこは母の教育が効いているらしい。
「どのような魔術でしたの? 光るのですか? 痛みはすぐになくなります? 呪文は普通の魔術と同じですの?」
「一度に聞くな」
「だって、お兄様だけずるいですわ。毎日聖女様と学院へ通っていらっしゃるのでしょう?」
「授業を受けているだけだぞ」
「でも、お昼はよくご一緒なさるとか」
どこから聞いたのだ。
アレクサンダーが眉を寄せると、リーゼは涼しい顔で茶を飲んだ。
この妹は昔から妙なところで耳が早い。
「それで、セレスティーナ様もご一緒ですの?」
「…いることが多いな」
リーゼの顔から、分かりやすく輝きが消えた。
「……あの方も」
「なんだ、その顔」
「別に何もございません」
今度こそ、母に見せても文句を言われないほど優雅な仕草で茶器を置く。
「お義母様は、セレスティーナ様の立ち居振る舞いには一分の隙もないから、よく見習うようにとおっしゃいます」
「それはまあ、そうだろうな」
セレスティーナの礼儀作法については、アレクサンダーにも異論はない。
幼い頃から王太子妃となることを前提に育てられているのだ。公式の場での振る舞いだけを切り取れば、十五歳の令嬢として非の打ち所がない。
リーゼは少し唇を尖らせた。
「ですが、わたくし、あの方は嫌いですわ」
アレクサンダーは一瞬だけ妹を見る。
「……そうだな」
それだけ答えて、茶を飲んだ。
妹がそう思う理由も分かっている。
リーゼとセレスティーナに親しい付き合いはない。王家の行事などで何度か顔を合わせた程度だ。
ならばリーゼが知っているのは、これまで外から見えていたセレスティーナ・フォン・レーヴェンでしかない。
兄の婚約者でありながら、その兄と顔を合わせるたびに衝突していた高慢な公爵令嬢。
そして最近では、聖女を目の敵にしているという噂まである。
今のセレスティーナが以前とは少し違うことを、わざわざ説明するほどでもない。
そう思った。
「それより聖女様です!」
リーゼの興味はあっさり戻った。
「髪は金色なのでしょう? 瞳は本当に桜色ですの?」
「そうだな」
「どんなお話をなさるのです? やはり神殿のお話ですか?」
「いや、授業で分からないとことか、普通に菓子の話とかが多い」
「まあ……!」
何がそんなに嬉しいのか、橙色の瞳がまた輝く。
アレクサンダーはその顔を見て、ふと別の少女を思い出した。
何か新しいことができた時。
珍しい菓子を見つけた時。
こちらへ駆け寄ってくる時。
――アレク様!
桜色の瞳を輝かせて笑う顔。
少しだけ似ている。
顔立ちではない。
何か面白そうなものを見つけた時に、そのまま目を輝かせるところが。
「……お前にちょっと似てるよ」
「わたくしに?」
リーゼが目を丸くする。
「ああ。なんとなくな」
「まあ!」
今度は何故か嬉しそうに笑った。
その顔まで少し似て見えて、アレクサンダーもつられて口元を緩める。
「きっと素敵な方ですのね」
「なんでそうなる」
「お兄様の妹に似ているのでしょう?」
「自分で言うか?」
「お兄様がおっしゃったのですわ」
得意げに微笑む妹を見ながら、アレクサンダーは茶器を持ち上げた。
その夜。
一日の予定を終えたアレクサンダーは、自室の窓辺に立っていた。
王都には、まだ新年を祝う灯りが残っている。
明日も祭祀がある。
その後には挨拶。
昼には会食。
午後には父へ同行する予定が入っていた。
忙しい。
学院とはまるで違う毎日だった。
ふと。
昼食の時間を思い出した。
いつもの席。
ミアがセレスティーナに菓子を渡す。
どうでもいいことを言ってくるトビアスと、それに笑っているジークバルト。
そして自分。
毎日同じような時間に集まって。
特別なことをするわけでもなく。
食べて。
話して。
時々、くだらないことで言い合って。
二か月なんて、大した長さではないと思っていた。
年末年始は忙しい。
気づけば終わっているだろうと。
それなのに。
「……長い、な」
誰もいない部屋で、ぽつりと呟いた。
次に五人で昼食を囲むのは、まだ少し先だった。
アレクサンダーは窓の外を眺めたまま。
ほんの少しだけ、学院が恋しいと思った。




