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6-1 聖女の過ごす冬

冬のサンティエ家では、学院にいた頃よりも朝が早かった。


ミアは日の出より少し前に起き、侍女に手伝われながら身支度を整える。朝食を済ませれば、午前中は礼儀作法と聖女として必要になる知識の勉強。午後には教会から教師が訪れ、年末年始に行われる祭祀の手順を確認する。


学院が休みになったら、少しくらいゆっくりできるのではないか。


そんな淡い期待は、最初の三日で消えた。


「では、もう一度。祭壇の前まで進み、聖印へ一礼を」


「はい」


ミアは背筋を伸ばした。


歩く。


止まる。


右足をわずかに引き、腰を落とす。


頭を下げる。


「……結構です」


教師の言葉に、ミアはそっと息を吐いた。


「今のは、大丈夫でしたか?」


「ええ。ずいぶん安定しましたね」


褒められた。


思わず顔が緩みそうになって、慌てて戻す。


以前なら、歩けば歩幅を注意され、止まれば足の位置を直され、お辞儀をすれば肩が下がっていると言われた。


最近は、それが減っている。


もちろん毎日の練習の成果もある。


けれど、ミアにはもう一つ心当たりがあった。


学院で、ほとんど毎日見ていた人。


セレスティーナだった。


椅子から立つ時。


人へ挨拶する時。


教師の話を聞く時。


廊下ですれ違った相手へ道を譲る時。


何をしていても、セレスティーナの動きは綺麗だった。


以前の彼女を知る者なら、それを鼻につくほど貴族らしいと言ったのかもしれない。


けれどミアにとっては、とても分かりやすい見本だった。


背筋はこのくらい。


目線はこの辺り。


頭を下げる時には、首だけを動かさない。


スカートを摘む指は、こう。


家庭教師に言葉だけで教わって分からなかったことが、セレスティーナを見ると不思議なくらい分かった。


一度、本人にも尋ねたことがある。


――セラ様、お辞儀する時って、どこ見てます?


――どこ、と申しますと?


まるで質問の意味が分からない顔をされた。


十年以上繰り返してきたセレスティーナにとって、とうに考えなくてもできる動作なのだろう。


結局、ミアが勝手に見て覚えることにした。


それが、思っていた以上に役立っていた。


「フェリシアンヌ様」


呼ばれ、ミアは顔を上げる。


「はい」


「次は聖杯を受け取るところから参りましょう」


「お願いいたします」


今度は、考えなくても少しだけ身体が動いた。


年末。


王都の大神殿では、一年を締めくくる祭祀が行われた。


高い天井から吊るされた灯火が、石造りの聖堂を柔らかく照らしている。


祭壇には白い布が敷かれ、その前に何人もの聖職者が並んでいた。


ミアも、その列の中にいた。


まだ、救国の聖女として人々の前へ立つわけではない。


聖女として見いだされてから、まだ一年あまり。


教義も。


儀式も。


貴族としての振る舞いも。


覚えるべきことは山ほどある。


だから今年は、高位のシスターの一人として参列することになった。


特別な衣装もない。


名を呼ばれることもない。


決められた場所に立ち、決められた時に進み、聖具を受け渡す。


それだけだった。


けれど、ミアにとっては十分すぎるほど緊張する役目だった。


間違えたらどうしよう。


順番を忘れたら。


歩く場所を間違えたら。


隣の人とぶつかったら。


朝から何度も頭に浮かんだ。


けれど、儀式が始まれば考えている暇はなかった。


鐘が鳴る。


前の人が歩き出す。


三歩待つ。


自分も進む。


祭壇の手前で止まる。


一礼。


聖杯を受け取る。


両手で捧げ持つ。


次の聖職者へ。


大丈夫。


次。


祈りの言葉に合わせて頭を下げる。


立つ。


歩く。


止まる。


一つずつ。


間違えないように。


それでも身体が固くなりそうになった時、ふとセレスティーナの姿を思い出した。


学院の廊下。


教師へ挨拶する時の、まっすぐな背中。


そうだ。


肩を上げない。


顎を引きすぎない。


目線は落としすぎない。


ミアは小さく息を吸った。


次の一歩が、少しだけ自然になった。


やがて最後の鐘が鳴った。


聖職者たちが退場する。


最後の扉を抜けるまで気を抜かず、控えの間へ入って。


そこで初めて。


「……終わったぁ……」


小さく声が漏れた。


隣にいた年上のシスターが笑った。


「お疲れさまでした」


「すみません」


「いいえ。初めてでしょう? よくできていましたよ」


「本当ですか?」


思わず聞き返してしまった。


「ええ。少し緊張しているのは分かりましたけれど」


それでも。


間違えなかった。


まごつかなかった。


誰かに小声で教えてもらうこともなかった。


自分の役目を、最初から最後まで果たせた。


それだけで、胸の奥がふわりと軽くなった。


屋敷へ戻ると、義父と義母が待っていた。


「お疲れさま、フェリシアンヌ」


義母に声をかけられ、ミアは頭を下げる。


「ただいま戻りました」


「どうだった?」


「なんとか……間違えずにできたと思います」


「思います、ではないよ」


義父が笑った。


「神殿の方からも聞いている。立派に務めたそうじゃないか」


「え」


もう話が伝わっているとは思わなかった。


「本当に?」


「どうしてそこで疑うんだい」


「だって、私、まだ全然で」


言いかける。


義母が微笑んだ。


「最初の頃に比べれば、見違えましたよ」


ミアは黙った。


褒められることには、まだ慣れない。


貴族の娘として十分ではない。


聖女としても十分ではない。


そんなことは自分が一番よく分かっている。


それでも。


できるようになったことも、確かにあるらしい。


「……ありがとうございます」


今度は、きちんと頭を下げた。


その所作を見て、義母がまた微笑んだ。


年が明けて、しばらくした頃。


ミアは一日だけ、屋敷を抜け出した。


もちろん、本当に勝手に抜け出したわけではない。


護衛もいる。


侍女もいる。


ただし、サンティエ家の馬車は使わなかった。


服も目立たないものに着替え、聖女として知られ始めた顔を帽子で少し隠した。


向かった先は、王都の外れにある小さな孤児院だった。


門をくぐった途端、胸の奥が懐かしさでいっぱいになった。


変わっていない。


少し古びた壁。


冬になると隙間風の入る窓。


子供たちが走り回る、小さな庭。


ここで十五年暮らした。


少し前まで。


ここが、ミアの世界のほとんどすべてだった。


「院長先生」


扉を開けた女性が、目を見開いた。


「まあ……」


それから、ゆっくりと笑う。


「ミア」


その呼び方だけで。


胸の奥に溜めていたものが、一気に緩んだ。


「ただいま、院長先生」


貴族になってから教わった挨拶ではなく。


昔と同じように笑った。


院長はすぐに中へ招き入れてくれた。


子供たちに見つかれば、あっという間だった。


「ミア!」


「ミア姉ちゃん!」


「帰ってきた!」


「その服なに!」


「お菓子ある!?」


「あります、ありますから! ちょっと待って!」


囲まれた。


裾を引かれる。


腕を掴まれる。


学院では絶対にされないことばかりだった。


ミアは笑いながら、一人ずつ名前を呼んだ。


少し背が伸びた子。


前歯が抜けた子。


去年は抱き上げられたのに、もう重くて持ち上がらない子。


たった一年も経っていないのに。


みんな、少しずつ変わっている。


お土産を配って、散々質問に答えて。


ようやく子供たちが庭へ遊びに行った頃。


ミアは院長と二人で、小さな食堂に残った。


「元気そうで安心しました」


院長が言った。


「はい」


「大変ではありませんか?」


ミアは少し考えた。


「大変です」


正直に答えた。


院長が笑う。


「そうでしょうね」


「覚えることがいっぱいあります。学院の勉強も難しいし、貴族の礼儀も全然知らなかったし。聖女のことも……私、まだ知らないことばっかりで」


「ええ」


「でも」


ミアは、自分の手を見る。


「前よりは、できることが増えました」


普通の魔術も使えるようになった。


礼儀作法も、少しだけ褒められるようになった。


今日だって、ここへ来る前に侍女へ自分で予定を説明し、義父母へ許可をもらった。


以前なら、何をどう頼めばいいのかすら分からなかった。


「この前、神殿の儀式にも出たんです」


「まあ」


「すごく緊張しました。でも、一回も間違えませんでした」


少し誇らしかった。


自分からそんな話をするのは照れくさくて、ミアは笑った。


院長は何も言わず、しばらくミアを見ていた。


「……院長先生?」


「大きくなりましたね」


ミアが止まった。


「え?」


「背ではありませんよ」


院長は笑っていた。


けれど、その目元には少しだけ涙が浮かんでいる。


「ここを出ていった時は、どうなることかと思いました」


「……私もです」


「突然、聖女だと言われて。貴族のお屋敷へ連れていかれて。あなたは笑っていましたけれど、本当はとても怖かったでしょう」


ミアは答えなかった。


怖かった。


知らない家。


知らない人。


知らない作法。


自分だけが何も知らない学院。


聖女なのだからできるはずだと向けられる期待。


何度も、ここへ帰りたいと思った。


「でも、ちゃんとあなたの居場所を作っているんですね」


院長が言った。


その瞬間。


ミアの目から、ぽろりと涙が落ちた。


「あれ」


慌てて拭う。


もう一つ落ちる。


「ご、ごめんなさい。なんで」


「泣いていいんですよ」


「でも、嬉しい話なのに」


「嬉しい時にも、人は泣きます」


院長の手が伸びる。


昔と同じように、頭を撫でられた。


「よく頑張りましたね、ミア」


それでもう、駄目だった。


ミアは両手で顔を覆った。


「……はい」


声が震える。


「私、頑張りました」


「ええ」


「いっぱい失敗しました」


「ええ」


「でも、友達もできたんです」


院長の手が止まらない。


「それはよかった」


「すごく綺麗で、何でもできる人なんですけど、放っておくと全然寝ないんです」


「まあ」


「この前なんて、倒れるまで人のお願いを聞いていて」


話しているうちに、涙の間から笑いが混じった。


「だから、ちゃんと見てないと駄目なんです」


「大切なお友達なんですね」


「はい」


今度は迷わず答えた。


「大切な友達です」


それから。


もう一人。


「あと……王太子殿下にも、とても親切にしていただいているんです」


院長が少し驚いたように目を丸くした。


「王太子殿下に?」


「はい」


口に出してから、ミアは少しおかしくなった。


ここを出る前の自分に聞かせたら、信じるだろうか。


王太子と同じ教室で学んでいる。


一緒に昼食を食べる。


普通に話をする。


時には、言い合うことさえある。


そんな毎日を。


「初めてお会いした時は、本当にすごい方だと思ったんです」


この国では珍しい、高貴な黒髪。


鮮やかな青い瞳。


背筋を伸ばして立っているだけで、遠くからでも王族だと分かるような少年だった。


「絵本に出てくる王子様って、本当にいるんだなって思いました」


「まあ」


院長が楽しそうに笑う。


「実際、立派な方なんですよ。勉強もできますし、魔術もお上手ですし。周りのこともちゃんと考えていらっしゃいますし」


「随分よくご存じなのですね」


「毎日一緒にいますから」


答えて。


ミアは一瞬だけ止まった。


毎日一緒にいる。


それが、いつの間にか当たり前になっていた。


「でも」


思い出して、笑ってしまう。


「可愛いところもあるんですよ」


「王太子殿下が?」


「はい」


院長がますます興味深そうな顔になる。


「すぐ顔に出るんです。怒ってる時も分かりやすいし、言い返せなくなると黙りますし。トビーにからかわれると、すぐむきになって」


「トビー?」


「あ、トビアス様です。殿下のご友人で――」


そこから、また説明が必要になった。


ジークバルトのこと。


トビアスのこと。


三人が幼い頃からの友人であること。


王太子相手なのに、二人とも驚くほど遠慮がないこと。


セレスティーナを心配して怒鳴り、医師から「殿下、静かに」と叱られて素直に謝っていたことまで話すと、院長は声を立てて笑った。


「そんな方なのですね」


「そうなんです」


ミアも笑った。


「私も、最初は知らなかったんですけど」


遠くから見ていた時は。


王太子だった。


高貴な黒髪と青い瞳を持つ、立派な人。


自分とは違う世界で生きてきた人。


話しかけられるだけで背筋を伸ばさなければならないような人。


今だって、立派な人だと思っている。


けれど、それだけではない。


失敗することもある。


間違えて、後悔することもある。


セレスティーナに怒っているうちに自分まで医師に叱られることもある。


ミアが困っていれば助けてくれる。


うまくできた時には、一緒に喜んでくれる。


「王子様にこんなこと思ってるなんて、一年前には思ってもいませんでした」


ミアは笑った。


「可愛いところがある、なんて」


院長は微笑んでいた。


「楽しそうですね」


「はい。楽しいです」


それから話は、またセレスティーナへ戻った。


魔術を教えてもらったこと。


普通の魔術が使えるようになったこと。


初めてセレスティーナと一緒に菓子を選んだこと。


アレクサンダーが魔術の練習で手を火傷して、ミアが治したこと。


ジークバルトとトビアスのこと。


学院の授業のこと。


サンティエ家での暮らしのこと。


義父と義母が、とてもよくしてくれること。


話しても。


話しても。


まだ話したいことがあった。


院長も急かさず、時々笑い、時々驚きながら聞いてくれた。


気づけば窓の外はすっかり暗くなっていた。


「まあ。こんな時間」


「えっ」


時計を見て、ミアが慌てて立ち上がる。


「どうしよう。帰らないと」


「気をつけて帰るんですよ」


「はい」


それから少し迷って。


昔と同じように、院長へ抱きついた。


「また来ます」


「ええ。いつでも帰っていらっしゃい」


その言葉が、胸の奥へ温かく落ちた。


帰りの馬車。


窓の外を、王都の灯りが流れていく。


ミアは座席へ背を預けた。


たくさん話した。


たくさん笑った。


少し泣いた。


ここへ来た時より、身体が軽くなったような気がした。


孤児院を出てから。


知らないことばかりだった。


できないことばかりだった。


何度も失敗した。


それでも。


新しい家族ができた。


友達ができた。


できるようになったことも増えた。


大切だと思える人たちも増えた。


院長先生は、大きくなったと言ってくれた。


なら。


まだきっと、大丈夫だ。


分からないことがあっても。


失敗しても。


また一つずつ覚えていけばいい。


二か月の冬が終われば、また学院が始まる。


セレスティーナにも。


アレクサンダーにも。


ジークバルトにも、トビアスにも。


話したいことが、もうたくさんあった。


ミアは暗い窓の向こうを眺めて、小さく笑った。


また頑張れる。


今度は、素直にそう思えた。


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