5-6 わたくしにできること
放課後、ミアは一足先に医務室を訪ねた。
セレスティーナは、まだ医務室にいた。
午前中に連れてこられてから、結局一日を寝台の上で過ごした。
昼頃に一度目を覚ましたらしいが、水分と食事を簡単に済ませた後、医師に「まだ寝ていろ」と言われ、素直に横になってあっという間に眠りに落ちた。夕方になった先ほど、ようやく起きたところだという。
「顔色は朝よりいいな」
医師が言った。
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃない。今夜も寝ろ」
「はい」
「六時間以上だ」
セレスティーナが少し黙った。
「……はい」
医師の眉が上がる。
「今、何を考えた」
「何も」
「嘘をつけ」
「…………」
寝台の脇にいたミアは、じっとセレスティーナを見た。
「セラ様」
「はい」
「六時間です」
「……承知しております」
返事はした。
少なくとも、返事だけは。
医師が深い溜息をついたところで、医務室の扉が叩かれた。
入ってきたのは三人だった。
アレクサンダー。
トビアス。
ジークバルト。
セレスティーナは反射的に寝台から降りようとした。
「そのままでいい」
アレクサンダーに言われ、動きを止める。
「ですが」
「いいから、座ってろ」
「……はい」
セレスティーナは寝台の上へ座り直した。
四人が揃っている。
ミアだけならともかく、アレクサンダーたちまで医務室へ来るとは思わなかった。
何かあったのだろうか。
「殿下。何かございましたか?」
尋ねると、アレクサンダーの眉間に皺が寄った。
「お前の話だよ」
「わたくしの?」
「そうだ」
トビアスが近くの椅子を引いた。
「少し確認したいことがあるんだ。難しい話じゃないから、聞いたことに答えてくれる?」
「もちろんでございます」
セレスティーナは頷いた。
トビアスが紙を一枚取り出す。
「この一か月くらい、学院の人たちから色々頼まれてたよね」
「はい」
「何人くらい?」
セレスティーナは少し考えた。
「申し訳ございません。正確には覚えておりません」
「じゃあ、何件くらい?」
「そちらも……」
「最低でも五十二件は確認できた」
トビアスが言った。
セレスティーナが瞬きをする。
「確認できた分だけでね。三十四人、五十二件」
「まあ……」
それだけだった。
四人の視線が集まる。
「……驚かないのかよ」
アレクサンダーが言った。
「数えておりませんでしたので」
「そうじゃなくて、多いと思わないのかって聞いてるんだ」
セレスティーナは少し考えた。
「一か月以上ございましたので」
アレクサンダーが何かを言いかける。
トビアスが片手を上げて制した。
「一つずつ聞こう」
「……分かったよ」
「まず、五十二件の中には、その場で質問されて答えたものは入ってない」
「はい」
「僕らが確認できなかったものもある」
「左様でございましょうね」
「持ち帰ったものだけでも、平均すると一日一時間半から二時間くらい使ってたと思う」
「それほどは――」
セレスティーナが言いかけて、口を閉じた。
「何?」
「……日によるかと存じます」
「多い日は?」
「多少は」
「どのくらい?」
セレスティーナは黙った。
アレクサンダーが眉を寄せる。
「また覚えてないのか」
「正確には」
「便利だな、その言葉」
「殿下」
ミアがたしなめる。
アレクサンダーは口を閉じた。
トビアスが続ける。
「自分の課題と予習が終わってからやってた?」
「基本的には」
「公爵家の勉強も?」
「はい」
「それも全部終わってから?」
「……はい」
「それで、何時に寝てたの?」
セレスティーナが黙った。
今度は、四人とも何も言わなかった。
ただ待った。
沈黙の方が、かえって逃げにくい。
セレスティーナの視線が少し下がる。
「……覚えておりません」
ミアの眉が下がった。
「セラ様」
「はい」
「本当に覚えてないんですか?」
「……」
「怒りませんから」
アレクサンダーが横目でミアを見る。
ミアはそちらを見ずに続けた。
「大体でいいです」
セレスティーナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく答える。
「……明け方には、休んでおりました」
「明け方って、何時ですか?」
「日によります」
「昨日は?」
また沈黙した。
「セラ様」
「……四時を少し過ぎた頃であったかと」
ミアが息を呑んだ。
「起きたのは?」
トビアスが尋ねる。
「六時でございます」
アレクサンダーが額を押さえた。
「二時間じゃないか」
「ですが、昨日は医務室でも随分長く休ませていただきましたので」
「足すな!」
医務室に声が響いた。
医師が机の向こうからアレクサンダーを見る。
「殿下。静かに」
「……すみません」
王太子が医師に叱られた。
セレスティーナは少し申し訳なさそうにアレクサンダーを見る。
「殿下。ご心配をおかけして――」
「今それを言うな。余計に腹が立つ」
「……申し訳ございません」
「それも言うな」
セレスティーナは黙った。
どうすればいいのか分からない。
ただ、心配をかけたくなかった。心配されるほど、自分が役に立たないものになった気がした。
トビアスが小さく息を吐いた。
「毎日二時間だったわけじゃないよね?」
「はい。もう少し休んでいた日もございます」
「平均は?」
「……四時間ほどでしょうか」
ミアが目を閉じた。
アレクサンダーは、もう何も言わなかった。
ジークバルトが低い声で尋ねる。
「それ、いつからだ?」
「いつから、と申しますと」
「四時間くらいしか寝なくなったのは、いつからだ」
「徐々に、でございますので……」
「一か月くらいか?」
「その頃から、少しずつ」
頼み事が増え始めた頃と、ほぼ一致する。
四人が顔を見合わせた。
トビアスは手元の紙に小さく印をつけた。
「もう一つ。最初に頼まれた頃のこと、覚えてる?」
「はい」
「法学のノートを見せてほしいって言われた」
「はい」
「その次が魔術理論。その後が歴史」
セレスティーナが頷く。
「いずれも、大したことではございませんでした」
「うん」
トビアスは否定しなかった。
「大したことじゃない。実際、一件ずつならね」
紙を置く。
「でも、それが五十二件になった」
「……はい」
「一回も断らなかったんだって?」
「はい」
アレクサンダーが顔を上げた。
「なんでだよ」
セレスティーナがそちらを見る。
「何故、と申しますと」
「なんで一回も断らなかったんだよ」
「わたくしにできることでございましたので」
その答えを口にすると、胸の奥にあった小さな不安が静まる気がした。
できることなら、応じられる。
応じれば、相手は困らずに済む。
そして次の日も、また声をかけてもらえる。
それは、セレスティーナにとって自然な順序だった。
予想していた答えだった。
それでも、アレクサンダーの眉間の皺が深くなる。
「できることなら、全部やるのか?」
「皆様、お困りでしたので」
「お前も困ってただろ」
「わたくしは、特に」
「寝られてないだろ!」
「ですが、すべて終わっております」
「終わればいいって話じゃ――」
「殿下」
「……分かってる」
トビアスに止められる前に、アレクサンダーが言った。
一度大きく息を吐く。
それでも苛立ちは消えなかった。
「大体お前は……俺の婚約者なんだぞ」
「はい」
「誰にでも頼まれたことを全部やってたら、困るんだよ」
セレスティーナが少し姿勢を正した。
「殿下のお立場に関わるのでございますか?」
「……まあ、それもある」
トビアスの眉がわずかに上がった。
ジークバルトが横を見る。
アレクサンダーは二人を睨んだ。
「なんだよ」
「別に」
トビアスが答える。
「何も言ってないよ」
「顔がうるさい」
「殿下にだけは言われたくないな」
「うるさい」
セレスティーナだけが、何の話なのか分からず三人を見ている。
アレクサンダーはその顔を見て、また腹が立った。
「とにかく!」
少し声が大きくなる。
「俺の婚約者が、頼めば誰にでも何でもやる奴だと思われたら困るんだよ!」
「……申し訳ございません。そこまで思い至らず」
「……」
あまりにも素直に返され、アレクサンダーが止まった。
「今後は、殿下のお立場に差し障りがないよう注意いたします」
「そうじゃ……」
言いかけて、止まる。
「いや、それもそうなんだけど」
「では」
「なんでそうなるんだよ……」
アレクサンダーが額を押さえた。
トビアスが笑いを堪えるように口元へ手を当てる。
「殿下も大変だね」
「お前、楽しんでるだろ」
「ちょっとだけ」
「お前だって前にこいつへ資料やらせただろ」
「殿下ほどじゃないよ」
「俺の話は今、関係ないだろ」
「反省室」
トビアスが言った。
アレクサンダーの顔が引きつる。
「……それは」
「五人分の資料」
「分かってるよ!」
「寝る時間を削ってやってたよね」
「悪かったと思ってるよ!」
セレスティーナが不思議そうに口を挟む。
「わたくしは、特に気にしておりませんが」
「お前は黙ってろ!」
「……はい」
素直に黙った。
ジークバルトがとうとう吹き出した。
「笑うな、ジーク!」
「悪い」
まったく悪いと思っていない顔だった。
ほんの少しだけ、医務室の空気が緩んだ。
けれど。
ミアは笑えなかった。
ずっと気になっていることがある。
「セラ様」
呼ぶと、セレスティーナがこちらを見る。
「はい」
「私、前に言いましたよね」
「何をでございましょう」
「夜はちゃんと休んでくださいって」
セレスティーナの表情が、ほんの少し固くなった。
やはり覚えている。
「……はい」
「覚えてたんですね」
「はい」
「じゃあ、どうして」
「ミア」
トビアスが小さく呼んだ。
ミアは一度、言葉を止める。
怒りたいわけではない。
責めたいわけでもない。
ただ、知りたい。
「どうして、寝てないって教えてくれなかったんですか?」
セレスティーナは困ったようにミアを見る。
「それは……」
「前は教えてくれましたよね。四時間だったら四時間って」
「はい」
「今回は、ずっと『覚えておりません』って」
セレスティーナの視線が下がった。
しばらくして。
「……ミア様は、ご心配なさいますので」
ミアの胸が詰まった。
予想していた。
それでも、実際に聞くと苦しかった。
「だから言わなかったんですか?」
「正確な時間を申し上げる必要はないかと」
「それ、隠してるって言うんですよ」
「……左様でございますか?」
本当に分かっていなかった。
ミアは何も言えなくなった。
アレクサンダーが低く呟く。
「やっぱり、そっちに学習してたのか」
セレスティーナがそちらを見る。
「何か?」
「何でもない」
「左様でございますか」
また素直に引き下がる。
トビアスが苦笑して、それから表情を戻した。
「じゃあ、最後に一つだけ」
セレスティーナが彼を見る。
「どうして、そこまでして全部やったの?」
「先ほど申し上げました通り、わたくしにできることで――」
「それは分かった」
トビアスが遮った。
「でも、できるからって、睡眠時間を削ってまでやる必要はないでしょ」
「……」
「五十二件だよ。たぶん、本当はもっとある」
「はい」
「最初の何件かは、君が断ると思って頼んだ可能性もある」
セレスティーナが少し目を見開いた。
「わたくしが、断ることを?」
「そう」
トビアスは、今日調べたことを簡単に説明した。
最初の十日ほどに依頼してきた者の家に、少し偏りがあること。
以前のセレスティーナなら、下位の家からの頼みを断った可能性が高いこと。
それを利用して、聖女や王太子の周囲にいる者にだけ態度を変えていると噂を流そうとしたのかもしれないこと。
ただし、それはまだ推測でしかない。
そして途中からは、その意図すら関係なくなったこと。
頼めばやってくれる。
丁寧に返してくれる。
そう知った普通の生徒たちが、普通に頼み始めた。
セレスティーナは黙って聞いていた。
説明が終わる。
「……そう、だったのですね」
驚いてはいる。
けれど、怒ってはいない。
アレクサンダーがその顔を見て、眉を寄せた。
「腹は立たないのか」
「何がでございましょう」
「最初の連中だよ。お前を嵌めようとしたかもしれないんだぞ」
「ですが、実際には特に困るようなことは」
「困ってただろ!」
また声が大きくなった。
「二時間しか寝てない日があって、昨日は本を開いたまま止まって、医務室で四時間も起きなかったんだぞ!」
「ですが、それはわたくしが引き受けすぎたためで、最初にお願いされた方々の責任では――」
「だから、なんでそこまでして引き受けたんだって聞いてるんだ!」
セレスティーナが黙った。
今までとは違う沈黙だった。
答えが分からないのではない。
何かを言おうとして。
けれど、それを言っていいのか迷っているような。
ミアは待った。
トビアスも。
ジークバルトも。
アレクサンダーも、今度は急かさなかった。
やがて。
セレスティーナの指が、寝台の上の毛布を小さく摘んだ。
「……嬉しかったのです」
アレクサンダーの眉が動いた。
「何が?」
「皆様に、お声をかけていただけることが」
セレスティーナは、少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「以前は、わたくしにお話しくださる方など、ほとんどいらっしゃいませんでしたので」
ミアの胸の奥が痛んだ。
最初の頃。
昼食を一人で食べていたセレスティーナ。
教室でも、周囲から距離を置かれていた。
それは元のセレスティーナ自身が作った関係だった。
けれど、今ここにいる彼女は、それを良しと思っていなかったらしい。
「最初は、少し驚きました」
セレスティーナは続けた。
「ですが、翌日にも別の方がお声をかけてくださって。その次の日にも」
少しだけ、口元が緩む。
その表情を、ミアは知っていた。
温かなスープを飲む時。
初めて食べる菓子を口にした時。
そんな、周りから見たら小さすぎるような、幸せを見つけた時の顔だった。
「皆様、わたくしなどにも色々とお話しくださるようになったのだと」
その言葉に。
ミアは、一か月前の昼休みを思い出した。
――よかったですね、セラ様。
自分が言った。
セレスティーナは、とても嬉しそうに答えた。
――はい。わたくしも、とても嬉しゅうございます。
あの時。
ミアは少しだけ、胸の奥に引っかかるものを感じていた。
頼み事をする人たちは、セレスティーナと話したいから、話しかけているのだろうか。
それとも。
セレスティーナが、必要なものを持っているからなのだろうか。
けれど、嬉しそうだったから。
よかったですね、と言った。
「それで……」
セレスティーナは少し迷ってから続けた。
「わたくしも、皆様と少しずつ親しくなれているのかと、思っておりました」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
アレクサンダーの怒りが消えていた。
完全に消えたわけではない。
けれど、行き場を失ったようだった。
「……だからって」
ようやく口を開く。
「寝る時間まで削るなよ」
「申し訳ございません」
「謝れって言ってるんじゃない」
「では……」
「そういうところだよ!」
また始まりそうになったところで、ジークバルトがアレクサンダーの肩を掴んだ。
「殿下。ちょっと黙ってろ」
「なんでお前に言われるんだよ」
「今はミアの番だろ」
アレクサンダーが口を閉じる。
ミアは、セレスティーナの寝台のそばへ椅子を寄せた。
「セラ様」
「はい」
「お願いしなくても」
セレスティーナがこちらを見る。
「何もお願いしなくても、セラ様とお話ししたい人はいますよ」
セレスティーナが瞬きをした。
一度。
二度。
「……そうでしょうか?」
本当に、思いつかなかったらしい。
ミアは少しだけ笑った。
「少なくとも、私はそうです」
セレスティーナは黙った。
その顔に浮かんだのは、驚きだった。
何か、とても思いがけないことを言われたような。
「私、セラ様にノートを見てもらわなくても、お昼を一緒に食べたいです」
「……はい」
「魔術を教えてもらわなくても、お菓子を持ってきます」
「はい」
「何もしてもらわなくても、話したいです」
セレスティーナの唇が、ほんの少し開いた。
けれど、言葉が出てこない。
ミアは待った。
しばらくして。
「……それは」
セレスティーナが小さく言った。
「とても、嬉しゅうございます」
その声は、いつもより少しだけ掠れていた。
泣いてはいない。
目元も変わらない。
ただ、毛布を摘んでいた指に、少しだけ力が入った。
ミアはそれ以上、何も言わなかった。
その横で、アレクサンダーが視線を逸らす。
ジークバルトは何も言わず、腕を組んでいた。
トビアスだけが、小さく息を吐いた。
五十二件。
三十四人。
何日も睡眠時間を削るほどの依頼。
調べれば調べるほど複雑に見えた一件の答えは、ひどく単純だった。
頼られるのが、嬉しかった。
話しかけてもらえることが、嬉しかった。
その二つを、セレスティーナはまだ別のものとして考えられていなかった。
頼まれれば、応じる。
応じれば、また声をかけてもらえる。
だから、眠る時間を削ることさえ、失うものではなく、繋ぎ止めるために必要なものだと思っていた。
そしてセレスティーナは、そのために自分が何を削ったのかを、最後まで大したことだとは思っていなかった。
「とりあえず」
トビアスが、膝の上に置いていた紙を揃えた。
「今後どうするかだけ決めよう」
セレスティーナが顔を上げる。
「今後、誰かに何か頼まれて、その場で答えられることなら好きにしていいと思う」
「はい」
「でも、持ち帰ってやる必要があるものは、一人で引き受けない方が良い」
セレスティーナが少し首を傾げた。
「引き受けてはいけないのでございますか?」
「駄目とは言ってない。僕でも、ミアでも、ジークでも、殿下でもいい。誰か一人に確認してから引き受けて」
「確認を」
「そう。今どれくらい抱えてるか、君に聞いても分からないことが分かったから」
「……」
反論できなかった。
実際、五十二件と言われても、自分では数えていなかったのだから。
「それなら、話しかけられた時に断る必要もないでしょ?」
セレスティーナは少し考えた。
それから、頷いた。
「承知いたしました」
「本当に?」
「はい。持ち帰る必要のあるお願いにつきましては、どなたかに確認してからお引き受けいたします」
トビアスが頷いた。
「じゃあ、それで」
「あと六時間」
医師が机の向こうから言った。
セレスティーナの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「……承知しております」
「今夜だけじゃないぞ」
「…………」
「セラ様?」
ミアが呼ぶ。
「……善処いたします」
「そこは『はい』です」
「……はい」
今度こそ、医務室の空気に小さな笑いが漏れた。




