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5-5 断らないから

翌朝。


ミアが教室へ入ると、見慣れた銀色の髪があった。


「……セラ様?」


思わず、足が止まった。


セレスティーナは自分の席に座り、いつものように教本を机へ並べていた。


昨日、夕方まで医務室で眠っていた人とは思えない。


「おはようございます、ミア様」


「おはようございます……じゃなくて。どうしているんですか?」


「授業がございますので」


あまりにも当然のように答えられた。


ミアは鞄を置き、セレスティーナの前まで行った。


「先生、今日は休んだ方がいいって言いませんでした?」


「昨日は十分に休ませていただきましたので、もう問題ございません」


「十分って」


「医務室で四時間ほど休みました」


「それは昨日の昼間です」


「はい」


会話が噛み合わない。


「その後は?」


「その後、と申しますと?」


「昨日、家に帰ってからです。何時に寝たんですか?」


セレスティーナが黙った。


ほんの少し。


けれど昨日と同じ沈黙だった。


「セラ様」


「……覚えておりません」


ミアは目を閉じた。


やっぱり。


「何をしてたんですか?」


「学院の課題と、本日の予習を少々。それから――」


セレスティーナの言葉が止まった。


「それから?」


「お預かりしていたものを」


「いくつ?」


「……三つほどでございます」


「昨日も?」


「はい」


「医務室で夕方まで寝てたのに?」


「ですが、昨日は昼間に随分長く休ませていただきましたので」


本気だった。


四時間眠った。


だから、その分はもう休んだ。


夜はいつも通り動ける。


そういう計算なのだ。


「セラ様」


「はい」


「医務室に行きましょう」


セレスティーナが目を瞬いた。


「ですが、本日は問題ございません」


「昨日もそう言ってました」


「昨日とは違います」


「何が違うんですか?」


「昨日は少々、ぼんやりしていたようでございますので」


自覚はあったらしい。


それなのに。


「本日は、きちんと考えられます」


セレスティーナはそう言って、机の上の教本を一冊持ち上げた。


「こちらも先ほど予習したところを確認いたしましたし――」


「何頁ですか?」


ミアが聞いた。


セレスティーナが止まった。


教本を見る。


開く。


一枚めくる。


もう一枚。


「……少々お待ちくださいませ」


「セラ様」


「覚えております。ただ、今すぐ頁が――」


「医務室です」


「ミア様」


「医務室です」


そこへ、教室の入口から声がした。


「何やってんだ」


アレクサンダーだった。


後ろにトビアスとジークバルトもいる。


「殿下」


セレスティーナが立ち上がろうとする。


ミアは反射的に肩を押さえた。


「立たなくていいです」


「ですが」


「お前、なんでいるんだよ」


アレクサンダーも同じことを言った。


「授業がございますので」


「そういう意味じゃない」


アレクサンダーは机まで来ると、セレスティーナを上から見下ろした。


「昨日、医務室で夕方まで寝てたんだろ」


「はい」


「で、夜は?」


「休んでおります」


「何時間」


「……」


「何時間」


「……覚えておりません」


アレクサンダーの眉間に深い皺が寄った。


「お前な」


「殿下」


トビアスが止める。


アレクサンダーは一度口を閉じた。


その横から、ジークバルトがセレスティーナの机を見た。


教本。


筆記具。


それから、鞄の脇に置かれた紙の束。


「セレスティーナ嬢」


「はい」


「それ、何だ?」


「こちらでございますか?」


セレスティーナが紙へ手を伸ばす。


「お預かりしていたものでございます。本日お返しする予定で――」


「昨日の三つ?」


ミアが聞いた。


「いえ。そちらは昨夜終えましたので、こちらは今朝――」


全員が黙った。


「今朝?」


アレクサンダーが聞き返した。


「はい。登校してからお預かりいたしました」


「いくつ?」


「二つでございます」


アレクサンダーが天井を見た。


トビアスが額を押さえた。


ジークバルトは無言で紙の束を見ている。


ミアはセレスティーナの鞄を取った。


「行きます」


「ミア様」


「先生に今日授業に出ていいって言われたら戻ってきましょう」


「ですが――」


「セレスティーナ」


アレクサンダーが低い声で呼んだ。


セレスティーナが顔を上げる。


「行ってこい」


命令に近かった。


セレスティーナは少し困った顔をした。


けれど、王太子からそう言われてまで逆らう理由はないと判断したのだろう。


「……承知いたしました」


立ち上がる。


今度はふらつかなかった。


少なくとも、目に見えるほどには。


それでもミアは鞄を返さなかった。


「私が持ちます」


「ですが」


「持ちます」


「……ありがとうございます」


二人が教室を出ていく。


その背中が見えなくなるまで、三人は黙っていた。


やがてジークバルトが言った。


「……今朝も二つ増えてたぞ」


「見りゃ分かる」


アレクサンダーの声が低い。


トビアスは、セレスティーナが残していった机を見る。


「昨日の分、整理しようか」


「今?」


「授業まで少しある。ミアも戻ってくるでしょ」


トビアスは鞄から、昨日作った紙を取り出した。


すでに何人もの名前が並んでいる。


アレクサンダーが深く息を吐いた。


「今日の二人も確認しないとね」


「……全部調べるぞ」


「そのつもりだよ」


その日の昼。


セレスティーナを医務室に預けて午前の授業に出ていたミアに、様子を確認する。


「セレスティーナ嬢はまだ医務室に?」


トビアスが尋ねる。


「はい。先生に怒られてました」


「何て?」


「『昨日あれだけ寝た人間が、翌朝また同じ顔で来るな』って」


ジークバルトが少し笑いかけたが、ミアの顔を見てやめた。


「で、本人は?」


「今日は大丈夫ですって」


「だろうな」


アレクサンダーが吐き捨てる。


「先生が今日は一日寝かせるって言ってました。先生方にも欠席の連絡をするそうです」


「それがいい」


今日は、いつもの昼食にはならなかった。


四人はラウンジへ移動した。


ジークバルトが軽食を買いに行き、残りの三人で机を二つ寄せ、その上へ昨日集めた資料を広げる。


トビアスが中心になって、紙を並べた。


一枚目には名前。


二枚目には、頼んだ内容。


三枚目には、依頼した日と返却された日。


さらに、今日の午前中に確認できた分が加わっている。


最初は一枚で足りると思っていた。


足りなかった。


「……三十四」


トビアスが呟いた。


アレクサンダーが顔を上げる。


「人か?」


「人」


「件数は」


「待って」


トビアスは紙の上を指で追った。


同じ生徒が二度、三度と頼んでいる場合もある。


一度資料を見てもらって、分かりやすかったから次も。


ノートを借りて、丁寧な補足がついて戻ってきたから、今度は別の授業について。


そういう例が、思っていた以上に多かった。


「確認できた分だけで、五十二件」


「……五十二」


ミアが小さく繰り返した。


一か月と少し。


五十二件。


一日一件程度なら、数字だけを見れば大したことがないようにも思える。


だが、休日がある。


その場で答えただけのものは、そもそも数えられていない。


本人も頼んだ側も「質問しただけ」としか認識していないものまで拾えば、もっと増えるはずだった。


「これ、全部じゃないよ」


トビアスが言った。


「分かってる」


アレクサンダーの声が低い。


「分かってるから腹立ってんだよ」


机の端では、ジークバルトが別の紙を見ていた。


騎士科を中心に聞いて回った結果だ。


「こっちは十二人」


「それ、三十四人に入ってる?」


「入ってる。昨日の分から増えた奴もいる。ただ――」


ジークバルトが一枚を抜いた。


「こいつは三回だ」


「何を?」


「最初は演習報告書の書式。次が過去の演習記録をどこで調べられるか。三回目が剣術史の課題」


「なんで剣術史をセレスティーナに聞くんだよ」


アレクサンダーが顔をしかめる。


「知ってたからだと」


「そういう問題じゃねえ」


「俺に言うな」


ジークバルトも困った顔をした。


実際、聞き取りをしていて何度も同じやり取りになった。


なぜセレスティーナへ頼んだのか。


答えは、ほとんど同じだった。


知っていたから。


詳しかったから。


頼んだらやってくれたから。


以前、友人が助けてもらっていたから。


そして。


「断られないから、か」


トビアスが呟いた。


部屋が静かになった。


「それ言った人いたんですか?」


ミアが聞く。


「そこまで直接な表現じゃないけどね」


トビアスは紙を一枚持ち上げた。


「『レーヴェン様はお願いすれば見てくださると聞いたので』」


もう一枚。


「『友人が以前教えていただいたと言っていたので』」


さらに一枚。


「『お忙しいかと思ったのですが、お尋ねしたところ快く引き受けてくださいました』」


トビアスは紙を戻した。


「多分、途中からそういう認識になったんだと思う」


頼めば、やってくれる。


公爵令嬢だから近寄りがたいと思っていた。


以前のセレスティーナを知っている者なら、なおさらだった。


けれど、誰かが頼んだ。


引き受けてもらえた。


丁寧に返してもらえた。


次の誰かが頼んだ。


それも引き受けた。


いつの間にか、頼むことそのものへの敷居が下がった。


「でも……」


ミアは紙の束を見た。


「みんな、本当にそんなに大変なことをお願いしてないんですよね」


「そうなんだよね」


トビアスが頷く。


そこが、一番厄介だった。


五十二件の中に、一件だけ取り出して明らかに異常だと言えるものは、ほとんどなかった。


十二枚の演習報告書は多いように見えるが、頼まれたのは書式の確認だけだった。


長い論文を書かせた者はいない。


課題を最初から最後まで代わりにやらせた者も、確認できた範囲ではいない。


一冊。


数頁。


四問。


一か所。


書名を一つ。


少しだけ。


どれも、セレスティーナなら短時間でできることだった。


だからこそ、頼んだ側も気づかなかった。


「一件二十分として」


ミアが指を折りかける。


トビアスが止めた。


「多分、それじゃ足りない」


「え?」


「これ見て」


最初の頃に頼まれた、地理の資料だった。


依頼した生徒には改めて詳しく話を聞いている。


「頼んだのは、西部三領の主要産物を教えてほしい、だった」


「はい」


「返ってきたのは、産物と収穫量、前年から変動した理由」


ミアが黙る。


次。


「法学。論点が合ってるか見てほしい」


返却されたものには、誤った条文への印と、正しい条文番号。


次。


「参考文献の書名を知りたい」


返ってきた紙には、候補が二冊。


それぞれの内容と、どちらが読みやすいかまで書かれていた。


「……セラ様」


ミアが額を押さえた。


頼まれた以上のことをしている。


それも、本人には「ついで」なのだ。


「こっちもそうだぞ」


ジークバルトが演習報告書を一枚出した。


「書式だけ見てくれって渡したらしい」


「うん」


「戻ってきた時、過去の記録と表記が違うところに全部印がついてたって」


アレクサンダーが目を閉じた。


「なんでだよ」


「知らん」


「書式だけ見ろよ」


「だから俺に言うな」


「セラ様なら……」


ミアが小さく言った。


三人が見る。


「気づいたから、だと思います」


誰も否定できなかった。


見つけた。


直せる。


なら、直しておいた方が相手の役に立つ。


おそらく、それだけだ。


「これさ」


ジークバルトが椅子へ深く座った。


「頼んだ奴だけ締めても意味なくねえか?」


アレクサンダーが睨む。


「締めるとは言ってないぞ」


「顔が言ってる」


「うるさい」


「でもジークの言う通りだよ」


トビアスが紙を揃えながら言った。


「少なくとも後半は、ほとんど普通の生徒だ」


それは調べれば調べるほど、はっきりしていた。


誰かがセレスティーナを陥れようとして、五十件もの仕事を押しつけた。


そんな単純な話ではない。


むしろ、大半の生徒は今日初めて、ほかにも何人も同じような頼み事をしていたと知って驚いていた。


「そんなに頼まれていたんですか」


「知りませんでした」


「私の分は急ぎません」


「申し訳ないことをしました」


そう言った者も多かった。


中にはその場で、自分の依頼を取り下げた者までいる。


「じゃあ、何なんだよ」


アレクサンダーが吐き捨てる。


「たまたま三十四人が、同じ一か月にあいつを便利に使ったって?」


「そこなんだよね」


トビアスは別の紙を取った。


先ほどまでの一覧とは違う。


名前の横に、家名が書かれている。


「何だ、それ」


「頼んだ順番」


アレクサンダーが紙を覗き込んだ。


最初。


法学のノート。


次に、魔術理論。


歴史。


その次。


さらに次。


「最初の八件」


トビアスが指で示す。


「正確には、最初の十日くらいかな。この辺だけ、ちょっと変なんだ」


「何が?」


「家の派閥だよ」


アレクサンダーの目が細くなった。


ミアには分からなかった。


並んでいるのは、聞いたことのある家名と、ほとんど知らない家名。


だが、アレクサンダーには意味が分かったらしい。


「……こいつら」


「うん」


トビアスが頷いた。


「去年の議会で、北部街道の予算に反対した家」


ジークバルトが紙を覗く。


「それが?」


「レーヴェン公爵が主導して通した」


「じゃあ反レーヴェン?」


「そこまで単純じゃないよ。こっちは別件では公爵と組んでるし」


トビアスは別の名前を指した。


「ただ、最近の王太子派とレーヴェン家の接近を歓迎してない家が多い」


ミアは、少し前に聞いた話を思い出した。


アレクサンダーとセレスティーナ。


ミア。


ジークバルトとトビアス。


五人が一緒にいることが増えた。


周囲から見れば、それはただの友人関係ではない。


次代の国王と、公爵家と、聖女。


その周囲に集まる者たち。


それ自体が、一つの政治的な意味を持ち始めているのだと。


「でも」


ミアは一覧を見た。


「お願いしただけですよね?」


「そう」


トビアスが答える。


「最初はね」


「最初は?」


トビアスは、一番初めの依頼を指した。


「法学のノートを見せてほしい」


次。


「魔術理論の式を覚えていないか」


次。


「欠席した授業がどこまで進んだか教えてほしい」


「……普通ですね」


「普通なんだよ」


あまりにも普通だった。


だからこそ、誰も気づかなかった。


「多分だけど」


トビアスは椅子へ座り直した。


「最初から、こんなことになる予定じゃなかった」


アレクサンダーが黙って続きを待つ。


「以前のセレスティーナ嬢なら、どうしたと思う?」


ミアは少し考えた。


学院へ来たばかりの頃の彼女。


近づくだけでも怖かった頃。


下位の家の令嬢が、ノートを見せてほしいと頼む。


「……断った?」


「多分ね」


トビアスが頷く。


「少なくとも、自分から翌日持っていって、補足までつけることはなかったと思う」


アレクサンダーの表情が変わった。


「そういうことか」


「まだ推測だよ」


トビアスはすぐに釘を刺した。


「証拠はない」


「でも、断ったら」


ミアが言う。


「『聖女様には親しくしているのに、ほかの人には冷たい』って……?」


「言える」


トビアスが頷いた。


「最近のセレスティーナ嬢は、ミアと仲がいい。僕らとも一緒にいる。以前とは違うって話も広まってる」


そこで、下位の家の生徒からの小さな頼みを断る。


「結局、相手を選んで態度を変えてるだけだ、とかね」


「くだらない」


アレクサンダーが吐き捨てた。


「政治って、割とそういうものだよ」


「知ってる。だからくだらないって言っているんだ」


トビアスは肩をすくめた。


「ただ、予想が外れた」


最初の令嬢が頼んだ。


セレスティーナは引き受けた。


翌日、自分からノートを持っていった。


頼まれてもいない補足までつけた。


次の生徒も頼んだ。


それも引き受けた。


さらに次も。


「断らなかった」


ミアが呟いた。


「うん」


「全部?」


「少なくとも、確認できた範囲では一件も断ってない」


アレクサンダーが机を指で叩いた。


一度。


二度。


三度。


「じゃあ、最初に頼んだ連中は」


「途中で気づいたと思う」


「何に」


「セレスティーナ嬢が、断らないことに」


トビアスは一覧の途中を指した。


「ただ、ここから先は家の偏りが消える」


最初の八件。


そこまでは、似た立場の家が多い。


十件目。


十二件目。


十五件目。


進むほど、関係のない家名が増えていく。


王太子派。


中立。


レーヴェン家と親しい家。


政治にほとんど関わらない地方貴族。


騎士家。


「この辺からは、多分ただの口伝えだろうね」


トビアスが言った。


「レーヴェン様は頼めば教えてくれる」


「ノートを貸してくれる」


「分からないところを見てくれる」


「しかも、頼んだ以上のものを返してくれる」


ミアの胸が重くなった。


悪意を持った誰かが、ずっとセレスティーナを働かせていたのなら、まだ分かりやすかった。


止めればいい。


怒ればいい。


その人を遠ざければいい。


けれど、これは違う。


最初に小さな意図があったのかもしれない。


その後は。


普通の生徒が。


普通に困って。


少しだけ助けてもらった。


それが三十四人になった。


「……最初の奴らは」


ジークバルトが言った。


「ここまでになると思ってたのか?」


トビアスは首を振った。


「分からない。でも、思ってなかった可能性の方が高いと思う」


「なんで」


「これでセレスティーナ嬢が倒れたら、話が変わるから」


トビアスは最初の家名を指で叩いた。


「『公爵令嬢が下位貴族の小さな頼みを断った』なら、彼女の評判を下がる話にできる」


次に、五十二という数字を指した。


「『複数の家が王太子の婚約者へ仕事を押しつけ続けて体調を崩させた』になったら、むしろこっちが攻撃材料にできる」


「ああ」


ジークバルトが納得したように頷いた。


「割に合わねえな」


「全然」


だから、おそらく。


始まりは、小さな悪意。


その先は、誰も設計していない。


セレスティーナが断らなかった。


頼まれた以上のことをした。


それを見た別の誰かが、自分も頼んだ。


また引き受けた。


その積み重ねだった。


「……馬鹿じゃねえの」


アレクサンダーが呟いた。


誰に向けた言葉なのか、ミアには分からなかった。


最初に仕掛けた者か。


後から頼んだ者たちか。


それとも。


一度も断らなかったセレスティーナか。


「で」


ジークバルトが言った。


「結局、どれくらいやってたんだ?」


トビアスが紙を見る。


「正確な時間は分からない」


「大体でいい」


「持ち帰ったものだけなら、一日平均……」


一件ごとの内容を見る。


十分程度で済みそうなもの。


二十分。


三十分。


調べ物が必要なら、それ以上。


しかも、セレスティーナは頼まれた以上のことをする。


「少なく見積もって、一時間半から二時間くらいかな」


「毎日?」


「多い日はもっと」


ミアが息を呑んだ。


「それ、自分の勉強とは別にですよね」


「もちろん」


学院の課題。


予習。


公爵令嬢としての勉強。


それらを終えてから。


さらに一時間半。


二時間。


日によっては、それ以上。


「セラ様……」


ミアは思い出した。


何時に寝ましたか。


その問いに、セレスティーナは答えなかった。


――覚えておりません。


本当に覚えていなかったのか。


それとも。


「ミア?」


トビアスに呼ばれて、顔を上げる。


「どうしたの」


「……前は」


ミアはゆっくり言った。


「前は、聞いたら答えてくれたんです」


「何を?」


「寝た時間です」


三人が黙った。


「四時間しか寝てなくても、セラ様、普通に『四時間ほど休みました』って言ってました。私が怒っても、どうして怒られてるのか分からない顔をして」


「……ああ」


アレクサンダーにも覚えがあるらしい。


「でも、今回は答えてくれませんでした」


ミアは膝の上で手を握った。


「先生に聞かれても、『覚えておりません』って」


トビアスの表情が変わった。


「それって」


「分かりません」


ミアは首を振った。


「本当に覚えてないのかもしれません。でも……」


数日前、何気なく言った言葉を思い出す。


――夜はきちんとお休みくださいね。


あの時。


セレスティーナの手が、一瞬だけ止まった。


「もしかしたら」


ミアは小さく言った。


「私が心配するって、分かってたのかもしれません」


沈黙が落ちた。


アレクサンダーがゆっくり顔を覆った。


「……そっちに学習したのかよ」


誰も否定できなかった。


休むことを覚えたのではなく。


寝ていないと言えば、ミアが心配する。


だから言わない。


もしそうなら。


「放課後」


アレクサンダーが手を下ろした。


「本人に聞く」


声が低かった。


「何時に寝てたのか。何件やってたのか。なんで一回も断らなかったのか」


「殿下」


トビアスが呼ぶ。


「怒鳴らないでよ」


「怒鳴らないよ」


三人が黙ってアレクサンダーを見る。


「……なんだよ」


「いや」


トビアスは視線を逸らした。


「何でもない」


「お前、絶対信用してないだろ」


「半分くらいは」


「トビアス」


「でも」


ミアが二人を止めた。


「私も、聞きたいです」


机の上には、三十四人分の名前がある。


五十二件の頼み事。


まだ拾えていないものもある。


その一つひとつは、本当に小さい。


誰か一人が悪いわけではない。


だからこそ。


ミアは、今頃また医務室の寝台で眠らされているはずのセレスティーナを思った。


「セラ様が、どうして全部やったのか」


それだけは、本人にしか分からなかった。


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