5-4 頼みごとの正体
ミアが午後の授業へ戻った時には、開始の鐘が鳴ってから少し時間が経っていた。
教師に小さく頭を下げ、空いている席へ向かう。
隣の席には、当然セレスティーナはいなかった。
机の上も綺麗なままだ。
ほんの少し前まで、あそこに座って本を開いていた。
呼びかけても返事をせず、同じ頁を見つめ続けていた姿を思い出す。
――何でもなければ、一時間寝て戻ればいい。
医師はそう言っていた。
次の休み時間になったら、様子を見に行こう。
ミアはそう考えて、教本を開いた。
けれど、授業の内容はなかなか頭に入らなかった。
ようやく授業が終わる。
教師が教室を出ていくのを待って、ミアも立ち上がった。
「ミア」
呼ばれて振り返る。
教室の入口に、アレクサンダーたちがいた。
「セレスティーナは?」
開口一番、アレクサンダーが尋ねる。
いつもなら昼食のあと、それぞれの授業へ戻っている時間だ。けれど今日は、午後の授業へ向かう途中でミアがセレスティーナを医務室へ連れていくところを見かけていたらしい。
「まだ医務室です」
「何があった?」
三人と一緒に廊下の端へ移動する。
次の授業まで、それほど時間はない。
ミアは手短に事情を説明した。
ここ数日、呼びかけへの返事が遅かったこと。
食事中に時々動きが止まっていたこと。
今日、本を開いたまま何もせずに座っていたこと。
呼んでも返事がなく、何を読んでいたのかも答えられなかったこと。
階段では手すりを強く握っていたこと。
そして、医師に尋ねられて初めて、時々めまいがあると話したこと。
アレクサンダーの顔が、話を聞くほど険しくなった。
「なんでそれで授業出ようとしてんだよ」
「本人は、歩けるから問題ないって」
「またそれか!」
思わず大きくなった声に、近くを歩いていた生徒が振り返る。
アレクサンダーは舌打ちし、声を落とした。
「……あいつの『問題ない』はもう禁止しろ」
「どうやって禁止するんですか」
ミアも困っている。
「本人、本当に問題ないと思ってますよ」
「それが一番問題なんだよ」
アレクサンダーが吐き捨てた。
ジークバルトが尋ねる。
「熱は?」
「ありませんでした」
「食事は?」
今度はトビアスだった。
「食べてます。前より増えてます」
「授業は?」
「今日まで全部出てました」
「じゃあ、何でそこまで疲れてるんだろう」
トビアスが首を傾げる。
「夜、何してるのかな」
その言葉に、ミアは答えられなかった。
学院の勉強。
公爵令嬢としての勉強。
それから。
「……お願い」
ミアが呟いた。
「何?」
「最近、セラ様、ずっと色々頼まれてましたよね」
三人が顔を見合わせた。
「ああ」
アレクサンダーが答える。
「前に聞いた時は、大したことじゃないって言ってたけど」
「セラ様の『大したことない』ですよ」
ミアが言うと、誰も返さなかった。
それだけで十分だった。
「どのくらい頼まれてた?」
ジークバルトが尋ねる。
「分かりません。毎日、何人かには声をかけられてました。でも、その場で答えてることも多かったし……」
「持って帰ってた分は?」
「それも……」
ミアには分からなかった。
最初の頃は、二冊のノートと何枚かの紙を鞄に入れているのを見たことがある。
けれど、それから一か月以上経っている。
頼み事は減っていない。
むしろ、セレスティーナが誰かに呼び止められる光景は、すっかり日常になっていた。
「一回、確認した方がいいかもしれないね」
トビアスが言った。
「誰が、何を頼んでるのか」
「本人に聞けばいいだろ」
アレクサンダーが言う。
「起きたら聞けるかな」
ミアが医務室の方角を見る。
横になってから、それほど時間は経っていない。
「次の休み時間に、もう一度見に行ってみます」
そこで次の授業を告げる鐘が鳴った。
四人は話を切り上げ、それぞれの教室へ向かった。
その後の休み時間。
ミアが医務室を覗いても、セレスティーナは眠ったままだった。
午後の授業がすべて終わっても、まだ起きなかった。
「私、もう一度医務室へ行ってきます」
放課後。
ミアはアレクサンダーたちにそう告げた。
「まだ寝てるのか?」
「さっき見に行った時は」
アレクサンダーが眉を寄せる。
「起きたら、何時に寝てたのか聞け」
「はい」
「誤魔化したら――」
「殿下が行くと怒るでしょうから、私が聞きます」
「……分かったよ」
不満そうではあったが、アレクサンダーも引き下がった。
「じゃあ明日な」
「はい。また明日」
ミアは医務室へ向かった。
残った三人も、それぞれ帰るために廊下を歩き出す。
その時だった。
「トビアス様」
呼び止められた。
振り返ると、見覚えのある男子生徒が立っていた。
同じ学年だが、普段ほとんど話すことはない。
「何かな?」
「あの……レーヴェン様を見かけませんでしたか?」
三人の足が止まった。
「セレスティーナ嬢?」
「はい。午後からお姿が見えないようで」
「今日はもう授業には戻らないよ」
「そうなのですか」
男子生徒は困った顔をした。
アレクサンダーの眉が動く。
トビアスはそれを横目で見ながら尋ねた。
「何か用?」
「あ……いえ。その、今日いただけると伺っていたものがありまして」
「何を?」
「先日の魔術理論の課題です」
「課題?」
「はい。自分で解いたのですが、どうしても術式が合わなくて。レーヴェン様に一度見ていただけないかとお願いしておりました」
「いつ頼んだの?」
「三日前です」
「今日返すって?」
「はい」
「全部?」
男子生徒が目を瞬く。
「全部、と申しますと?」
「その課題、何問ある?」
「十二問です。ただ、分からないのは四問だけです」
「四問」
「はい」
トビアスは少し黙った。
四問。
それだけなら、セレスティーナなら大して時間はかからないだろう。
少なくとも本人は、そう言う。
「他にも何か頼んだ?」
「いえ。私はそれだけです」
男子生徒は不安そうになった。
「何かございましたか?」
「少し体調を崩して、医務室で休んでるんだ」
「そうでしたか……」
明らかに申し訳なさそうな顔になる。
「でしたら、急ぎませんので。お大事になさってくださいとお伝えください」
「分かった」
男子生徒は頭を下げて去った。
三人は、その背中を見送った。
「……今の」
アレクサンダーが口を開く。
「頼み事だね」
トビアスが答えた。
「魔術理論、四問」
「それだけか?」
「彼はね」
「その言い方やめろ」
「でも事実でしょ」
一人で四問。
それだけなら、大した量ではない。
問題は。
「同じような『一人』が、何人いるかだよ」
その時。
「あ」
ジークバルトが声を上げた。
「どうした?」
「そういや昨日もいたな」
「誰が?」
「セレスティーナ嬢に紙渡してた奴。二年の騎士科のやつ」
トビアスが振り返る。
「二年?」
「ああ。訓練場から戻る時に見た。階段のところで話してた」
「何を頼んでたか分かる?」
「そこまでは聞いてない。ただ、結構な束だったぞ」
「結構って?」
ジークバルトは両手で厚みを示した。
「これくらい」
「……それ、紙?」
「紙。十枚以上はあったんじゃないか」
アレクサンダーが黙った。
トビアスも黙った。
三人の間に、妙な沈黙が落ちる。
「そいつ、知ってる?」
「顔は知ってる。名前も多分分かる。騎士科なら聞けばすぐだ」
ジークバルトは少し考えてから付け加えた。
「そういや最近、訓練場の近くでも何回か見たんだよ。セレスティーナ嬢が誰かに捕まってんの」
「何回?」
「覚えてねえ。二、三回……いや、もっとかも」
トビアスが、先ほど男子生徒が去っていった方向を見る。
昼間、ミアが言っていた。
毎日、何人かには声をかけられていた。
けれど、どれくらい頼まれていたのかは分からない。
「ちょっと調べようか」
「今から?」
「一人二人聞くだけでも、何となく分かるでしょ」
アレクサンダーが低く息を吐いた。
「やれ」
「殿下もやるんだよ」
「分かってる」
まず、先ほどの男子生徒。
次に、ジークバルトが見た二年生。
そこから、最近セレスティーナへ何かを頼んだ者を辿る。
大げさな調査をするつもりはなかった。
誰が。
いつ。
何を。
どのくらい。
ただ、それだけを確認すればいい。
三人は、そう思っていた。
けれど。
「私もお願いしましたけど、先週でしたよ。今週なら、エルマー嬢が何か頼んでいたような……」
エルマーに聞けば、また別の名前が出た。
「私は歴史のノートだけです。あ、でも昨日、クラウス様が資料を渡していらっしゃいましたよ」
クラウスは言った。
「領地経営学の資料を少し見ていただいています。ですが、三枚だけです」
三枚だけ。
四問だけ。
一冊だけ。
一か所だけ。
どの答えにも、「だけ」がついた。
一人に聞けば、別の名前が出る。
その名前を訪ねれば、さらに別の名前が出た。
廊下に立ったままでは整理できなくなり、三人は学院のラウンジへ場所を移した。
トビアスが紙を広げる。
「名前。頼んだ日。内容。返してもらった日が分かれば、それも」
「事情聴取かよ」
ジークバルトが言いながら、向かいへ座った。
「もうそんな感じになってるだろ」
アレクサンダーは不機嫌そうに答えた。
それぞれ、覚えている名前を書き出す。
確認できたものから内容を添える。
途中でジークバルトはもう一度席を立ち、騎士科の生徒を探しに行った。
しばらくして戻ってきた時には、一人ではなかった。
後ろに二人の男子生徒を連れている。
「いた。昨日のやつ」
ジークバルトが隣の男子生徒を示した。
「こいつは騎士科の演習報告書。書式が合ってるか見てもらってた」
「十枚以上あったやつ?」
「十二枚です」
本人が気まずそうに答えた。
「ただ、全部直していただくつもりではなくて、書式だけ確認していただければと……」
「もう一人は?」
「こいつ自身は頼んでない。でも心当たりが三人いるって」
トビアスは手元の紙を見た。
そこへ、さらに名前を書き加える。
「……十一人」
アレクサンダーが顔を上げた。
「今日だけで?」
「違う。この一週間で頼んだことが確認できた人」
「十一……」
しかも、これで全部とは限らない。
ジークバルトが紙を覗き込み、眉を寄せた。
「……これ、全部セレスティーナ嬢がやってんのか?」
誰も答えなかった。
一件ずつなら、本当に小さかった。
一問。
一頁。
一冊。
少し調べるだけ。
少し見てもらうだけ。
少し直してもらうだけ。
頼んだ側のほとんどは、自分の一件しか知らない。
だから誰も、大したことを頼んだつもりはなかった。
そしておそらく、セレスティーナ自身も。
トビアスは、紙に並んだ名前を見下ろした。
「……これ、一週間じゃ足りないな」
「何が」
アレクサンダーが聞く。
「遡る期間」
「どこまでだ」
「最初から確認した方がいい」
「最初って」
「セレスティーナ嬢が頼み事をされるようになった頃から」
一か月以上前。
最初は、たった一冊のノートだった。
トビアスは新しい紙を一枚取り出した。
その時、ラウンジの窓の外がすでに薄暗くなっていることに気づいた。
「……今日はここまでにしようか」
アレクサンダーが時計を見る。
「もうこんな時間か」
「今から全員辿るのは無理だよ。明日、最初から整理しよう」
トビアスは新しい紙の一番上に、項目だけを書いた。
名前。
家名。
依頼日。
内容。
返却日。
「家名も?」
ジークバルトが尋ねる。
「念のため」
「何か気になるのか?」
「まだ何も」
トビアスは答えた。
「だから確認する」
紙をまとめる。
明日になれば、ミアからセレスティーナの様子も聞ける。
本人が起きていれば、直接話を聞くこともできるかもしれない。
「騎士科は俺が聞く」
ジークバルトが言った。
「上級生もそっちの方が早い。今日いなかった奴にも心当たり聞いとく」
「お願い」
「俺も明日までに何人か当たっとく」
「殿下は目立つから、あんまり直接聞いて回らない方がいいよ」
「じゃあ俺は何すんだよ」
「怒らない」
「仕事ですらねえだろ、それ」
ジークバルトが小さく笑った。
トビアスも少しだけ口元を緩めたが、机の上の紙を見ると、すぐに表情を戻した。
十一人。
たった一週間を確認しただけで、それだけいた。
「……何人いるんだよ」
アレクサンダーが呟いた。
答えられる者は、まだ誰もいなかった。
三人は紙をまとめ、明日もう一度集まることにしてラウンジを出た。




