5-3 異変
冬季休暇まで、あと一週間ほどだった。
学院の庭木はすっかり葉を落とし、朝には薄く霜が降りるようになっていた。
もう少しで長い休みに入る。
教室の中でも、休暇をどこで過ごすだとか、領地へ戻るのはいつだとか、そんな話をする生徒が増えている。
ミアも、もうすぐサンティエ家へ戻る予定だった。
だから最近は、昼休みにセレスティーナと過ごす時間が、いつもより少し惜しい。
けれど同時に、ミアはその時間を以前ほど素直に楽しめなくなっていた。
セレスティーナの様子が、少しずつ変わっていたからだ。
最初に気づいたのは、返事の遅れだった。
話しかけた時、以前ならすぐにこちらを向いていたのに、最近は一拍、あるいは二拍遅れてから顔を上げる。
呼びかけに気づかないこともあった。
一度なら、考え事をしていたのだと思える。
二度なら、疲れているのだろうと思える。
けれど、それが何日も続くと、ミアは気のせいだと言い切れなくなった。
「セラ様。冬季休暇は、レーヴェン公爵家で過ごされるんですよね?」
「はい。その予定でございます」
「休暇中も勉強するんですか?」
「家庭教師の先生はいらっしゃいますので」
「……休暇なのに?」
「普段よりは少ないかと存じます」
それを休暇と呼んでいいのだろうか。
ミアは少し疑問に思ったが、セレスティーナは温かなスープを両手で持ち、いつも通り幸せそうに飲んでいる。
そう見えた。
けれど、よく見ると、スープを口へ運ぶ間隔が妙に長い。
一口飲んでは、しばらくカップを見つめている。
「セラ様?」
「はい?」
「いえ……」
セレスティーナは、何事もなかったように微笑んだ。
最近は、この光景にもすっかり慣れた。
パンと、小さなカップに入ったスープ。少しの果物。
今日はミアが持ってきた蜂蜜入りの焼き菓子も一つある。
「でしたら、休暇中はたくさん寝てくださいね」
何気なく言った。
セレスティーナの手が、一瞬だけ止まった。
本当に一瞬だった。
けれど、ミアは見ていた。
「はい」
すぐに、いつもの穏やかな返事が返ってくる。
ミアは少しだけ首を傾げた。
「……セラ様?」
「何でございましょう」
「いえ」
気のせいだろうか。
そう思おうとした。
だが、気のせいにしてしまうには、最近の違和感は多すぎた。
セレスティーナは以前よりずっと忙しそうだった。
相変わらず、よく人に呼び止められている。
「レーヴェン様」
「少々よろしいでしょうか」
「先日の件なのですが」
そんな声を、毎日のように聞く。
それでもセレスティーナは嫌そうな顔をしたことがない。
少し話を聞き、その場で答えられるものには答える。
答えられなければ、紙やノートを預かる。
最近では、それがあまりに自然になっていて、周囲も当然のように彼女へ頼るようになっていた。
ミアはそのたびに、セレスティーナの手元を見た。
紙を受け取る。
返事を書く。
また別の紙を受け取る。
その動作は変わらない。
けれど、紙を持つ指が以前より細かく震えていることがあった。
本人は気づいていないのか、気づいていても無視しているのか、何も言わない。
ただ。
「セラ様、林檎」
「……はい?」
「林檎、残ってますよ」
セレスティーナが自分の皿を見る。
薄く切られた林檎が一切れ、残っていた。
「あら」
「もう食べられませんか?」
「いいえ」
セレスティーナはフォークを取り、一切れを口へ運んだ。
けれど、口に入れたまま、しばらく動かなかった。
「セラ様?」
「……はい」
「飲み込めますか?」
「ええ」
セレスティーナは慌てたように咀嚼し、飲み込んだ。
「少し考え事をしておりました」
「そうですか」
笑っている。
けれど、その笑顔はいつもより薄かった。
顔色も、ひどく悪いわけではない。
もともと白い肌だから分かりにくいけれど、以前のように明らかに青ざめているわけでもなかった。
食事も、いつもの量は食べている。
歩いている。
授業にも出ている。
だからミアも、それ以上は言わなかった。
言えなかった。
大丈夫ですか、と尋ねれば、セレスティーナはきっと大丈夫だと答える。
そしてミアは、その答えを否定する理由を持てない。
けれど、その日の午後。
魔術史の授業が終わり、次の授業まで少し時間があった。
ミアは教本を抱えて廊下へ出たところで、忘れ物に気づいた。
机の中に筆記具を一本置いてきた。
教室へ戻る。
生徒のほとんどはすでに移動していた。
残っているのは数人だけだった。
その中に、セレスティーナがいた。
自分の席に座って、本を開いている。
「セラ様」
声をかけようとして、ミアは止まった。
何かがおかしい。
セレスティーナは本を開いていた。
視線も、頁へ落ちている。
けれど、読んでいない。
目が動いていなかった。
頁をめくるでもない。
ただ、開いた本を見たまま、じっとしている。
その姿は、考え事をしているというより、そこに意識だけを置き忘れているようだった。
「セラ様?」
返事がない。
ミアの胸が、嫌な音を立てた。
「セラ様」
近づいて、もう一度呼ぶ。
「あ……」
ようやくセレスティーナが顔を上げた。
数度、瞬きをする。
「ミア様」
「何してるんですか?」
「何、と申しますと……」
セレスティーナは手元を見る。
開いた本がある。
その頁を見て、少し考えるように黙った。
「次の授業の予習を」
「ずっと同じところ見てませんでした?」
「……そうでございましたか?」
自分でも分かっていなかったらしい。
ミアの胸の奥が、ひやりとした。
「どのくらい、ここにいたんですか?」
「それは……」
セレスティーナは答えようとした。
けれど、言葉が出てこない。
「セラ様。昨日、寝ました?」
「はい」
即答だった。
「何時間ですか?」
今度は、返事がなかった。
セレスティーナの視線が、ほんの少し横へ動く。
ミアはそれを見逃さなかった。
「何時間ですか?」
「……休んではおります」
「何時間?」
「…………」
おかしい。
いつものセレスティーナなら、聞かれたことにはそのまま答える。
四時間なら四時間。
三時間なら三時間。
それで相手が驚く理由が分からないという顔をする。
今の沈黙は、違う。
答えたくないのではなく、答えを探しているように見えた。
「セラ様」
「……次の授業が始まりますので」
セレスティーナが本を閉じた。
立ち上がる。
その動きが、妙にゆっくりだった。
机に片手をついて身体を起こし、一度そのまま止まる。
ほんの一瞬。
けれどミアは見た。
セレスティーナの指が、机の縁を強く掴んでいた。
「医務室に行きます」
「はい?」
「医務室です」
「ですが、特に問題は――」
「行きます」
ミアはセレスティーナの本を取り上げた。
「ミア様?」
「これは私が持ちます」
「次の授業がございます」
「休みます」
「ですが」
「セラ様」
ミアはまっすぐセレスティーナを見た。
「今、本を読んでませんでした」
「……読んでおりました」
「じゃあ、何が書いてありました?」
セレスティーナが黙る。
視線が、ミアの手にある本へ落ちた。
「……もう一度拝見すれば」
「だめです」
「ですが、授業を休むほどでは」
「それを決めるのは先生です」
セレスティーナは困ったように眉を下げた。
本当に困っているらしい。
自分がなぜ医務室へ連れていかれなければならないのか、分からない顔だった。
そのことが、ミアにはかえって怖かった。
「身体は動きます」
「はい」
「熱もないかと存じます」
「はい」
「でしたら――」
「それでも行きます」
ミアは譲らなかった。
以前なら、ここまで強く言えたか分からない。
けれど今は知っている。
セレスティーナの「大丈夫」は、あまり信用してはいけない。
歩ければ大丈夫。
話せれば大丈夫。
授業を受けられれば大丈夫。
そういう意味でしかない。
「……承知いたしました」
しばらくして、セレスティーナが折れた。
二人で医務室へ向かった。
歩けないわけではなかった。
足取りも、一見すれば普段と変わらない。
ただ、いつもより少し遅い。
ミアは意識して歩調を合わせた。
廊下の角を曲がる時、一度だけ壁へ手を触れていた。
「セラ様?」
「何でございましょう」
「今、壁に」
「少し近かったので」
本当だろうか。
ミアは壁との距離を見た。
触れなくても曲がれる程度には、十分な幅があった。
それでも、もう何も言わず、セレスティーナのすぐ隣を歩いた。
階段の前で、セレスティーナの足が止まった。
「どうしました?」
「……いえ」
「上れますか?」
「もちろんでございます」
セレスティーナはそう言って、一段目へ足をかけた。
二段目。
三段目。
動けている。
けれど、手すりから手を離さない。
ミアはその手元を見つめた。
白い指が、手すりを強く握っている。
医務室の扉を開ける。
中にいた医師が顔を上げた。
「どうした」
「先生、セラ様を診てください」
「わたくしは特に――」
医師の視線が、セレスティーナからミアへ移った。
ミアは言った。
「さっき、本を開いたまま止まってました。呼んでも返事がなくて、何を読んでたかも覚えてませんでした」
一度言葉を切る。
「それに、最近ずっと返事が遅くて、食事中も何度か止まっていて……今日は階段でも手すりを離しませんでした」
セレスティーナが、わずかに目を見開いた。
「ミア様」
「全部見ました」
「ですが、それは――」
「先生、診てください」
ミアはセレスティーナの言葉を遮った。
医師が短く頷いた。
「座れ」
セレスティーナは素直に座った。
医師が額に触れ、脈を取り、瞳を確認する。
「熱はないな」
「はい。ですので――」
「昨夜は何時に寝た?」
セレスティーナが黙った。
医師が繰り返す。
「何時だ」
「……覚えておりません」
ミアは眉を寄せた。
まただ。
答えない。
「では、一昨日は?」
「……そちらも、正確には」
「最近、何時頃に寝ている?」
「日によります」
「何時に起きる」
「六時でございます」
そこだけは即答だった。
医師が深く息を吐いた。
「起きる時間は決まっているのに、寝る時間は覚えていないのか」
セレスティーナは答えなかった。
ミアの不安が、はっきりと形を持ち始めた。
ただの寝不足ではない。
そう思いたくなかった。
けれど、そう考えなければ説明できないことが増えている。
医師がセレスティーナの手首を取り、しばらく脈を測った。
「最近、食事は?」
「取っております」
「量は」
「決められた分を」
「頭痛は」
「ございません」
「めまいは」
「……時々」
ミアが息を呑んだ。
セレスティーナは、そんなことを一度も言っていなかった。
「いつから?」
「正確には、覚えておりません」
「立ち上がった時か」
「はい」
「今もあるか」
「少し」
「少し、ではないだろう」
医師の声が低くなる。
セレスティーナは困ったように微笑んだ。
「歩けますので、問題はございません」
その言葉を聞いた瞬間、ミアの胸が締めつけられた。
まただ。
歩けるから大丈夫。
立てるから大丈夫。
話せるから大丈夫。
けれど、今のセレスティーナは、質問に答えるたびに少しずつ遅れている。
目の焦点も、時々揺れている。
医師が深く息を吐いた。
「とりあえず寝ろ」
「ですが、次の授業が」
「休め」
「先生」
「サンティエ嬢がわざわざ連れてきたんだ。何もなければ、一時間寝て戻ればいい」
それなら、とセレスティーナは考えたらしい。
「……一時間でよろしいのでございますか?」
「まずはな」
「承知いたしました」
寝台へ案内される。
靴を脱ぎ、横になる。
その動作さえ、いつもより遅かった。
セレスティーナは寝台の端へ腰を下ろしたまま、しばらく動かなかった。
「セラ様?」
「はい」
「横になってください」
「……はい」
促されて、ようやく身体を倒す。
ミアはその隣に立った。
「少し休んでくださいね」
「はい」
「授業のことは気にしなくていいですから」
「ですが、ミア様まで遅れてしまいます」
「私は戻ります。次の休み時間にまた来ますから」
「左様でございますか」
セレスティーナは安心したように微笑んだ。
「それでしたら、少し休ませていただきます」
「はい」
「ご心配をおかけして、申し訳ございません」
「謝らなくていいです」
「ですが――」
「いいから寝てください」
「……はい」
セレスティーナが目を閉じた。
ミアは鞄を整え、医師にもう一度頭を下げた。
そして寝台へ視線を戻す。
「じゃあ、また後で来ますね」
返事がなかった。
「セラ様?」
もう一度呼ぶ。
それでも返事はない。
ミアは瞬きをした。
ほんの今まで話していたはずだった。
寝台へ近づく。
セレスティーナは目を閉じていた。
呼吸は穏やかだった。
「……寝た?」
医師がこちらを見る。
「寝たな」
「今?」
「今だ」
ミアはしばらく、眠っているセレスティーナを見つめた。
こんなに早く眠るとは思わなかった。
いや、違う。
眠ったというより、糸が切れたように意識を失ったように見えた。
少し休んでください、と言った。
本人も、少し休むつもりだったのだろう。
けれど、ミアの胸には、嫌な予感が残った。
次の休み時間にミアが医務室へ戻っても、セレスティーナは眠っていた。
午後の授業がすべて終わっても、起きなかった。
窓の外が薄暗くなり始めても、まだ眠っていた。
医師は何度か様子を確認し、そのたびに「呼吸は問題ない」と言った。
それでもミアは、寝台のそばを離れられなかった。
眠っているだけなのに、目を離すのが怖かった。
夕刻の鐘が鳴る。
その音に反応したのか、セレスティーナの睫毛がわずかに震えた。
やがて、ゆっくりと目が開く。
「……ミア様?」
「セラ様」
ミアはすぐに身を乗り出した。
「気分はどうですか?」
「はい。問題ございません」
起きて最初にそれを言う。
ミアは唇を噛んだ。
「何時間寝たと思いますか?」
セレスティーナは少し考えた。
「一時間ほど、でしょうか」
「夕方です」
「……左様でございますか」
驚いた様子はなかった。
ただ、状況を理解するまでに、また少し時間がかかった。
ミアはその顔を見つめながら、もう気のせいにはできないと思った。
セレスティーナの異変は、少しずつ深くなっている。
そして本人だけが、それを異変だと思っていない。
それが一番怖いと思った。




