5-2 恵まれた毎日
セレスティーナは最近、学院へ行くのが以前よりも楽しみになっていた。
もちろん、これまでも楽しくなかったわけではない。
朝になれば温かな食事が用意され、学院へ行けば授業を受けられる。昼にはミアと食事をして、時折アレクサンダーたちもやってくる。
昼食には、温かなスープまで飲むようになった。
初めてミアに勧められた時には、パンのほかにスープと果物まで食べ切れるだろうかと少し心配したけれど、思っていたよりも大丈夫だった。
温かなものを口にすると、身体の中まで温まる。
寒い季節には温かいものが良いということを、セレスティーナは初めて知った。
しかも食事の最後には、時折ミアが菓子をくれる。
これほど恵まれた毎日があってよいものだろうかと、今でも時々思う。
けれど最近は、それだけではなかった。
「レーヴェン様。昨日の資料、ありがとうございました」
朝、教室へ入ると声をかけられた。
「いいえ。お役に立ちましたでしょうか」
「はい。あの注釈がとても分かりやすくて。先生からも、よく理解できていると言っていただけました」
令嬢は嬉しそうに笑った。
「本当にありがとうございました」
「それはよろしゅうございました」
セレスティーナも微笑んだ。
自分のしたことで、誰かが喜んでくれる。
それは、とても嬉しいことだった。
以前は、こんなふうに声をかけてもらうことはほとんどなかった。
最近は、廊下を歩いていても名前を呼ばれる。
休み時間にも、時折誰かが席へやってくる。
「レーヴェン様、少しよろしいでしょうか」
「はい」
今日は、地理の授業で使う資料についてだった。
地方ごとの主要な産物をまとめなければならないらしい。
「西部の三領だけ、どうしても資料が見つからなくて……レーヴェン様なら何かご存じではないかと思って」
「でしたら、領地年鑑に記載があったかと存じます」
「年鑑……」
困ったように眉を寄せる。
学院の図書室にも置いてあったはずだが、古い年のものだった気がする。
「自宅に新しいものがございますので、必要なところだけ書き出してまいりましょうか」
「えっ、よろしいのですか?」
「はい。三領だけでしたら、それほど時間もかかりませんので」
「ありがとうございます!」
本当に、それほど時間はかからない。
帰宅して年鑑を開き、該当する三領を探す。
主要な産物だけなら、書き写すのに十分ほどだった。
ただ、同じ小麦でも地域によって収穫量にかなり差がある。比較するなら数字もあった方が分かりやすいだろう。
それを書き加える。
ついでに、前年から大きく生産量が変わったものには理由を一言添えた。
それでも、二十分ほどだった。
大したことではない。
翌日渡すと、とても喜んでもらえた。
その日の午後には、別の令嬢から声をかけられた。
「レーヴェン様。少しお願いがあるのですが……」
「はい。何でございましょう」
今度は法学の課題だった。
自分で書いてみたものの、論点がずれていないか自信がないのだという。
「拝見しても?」
紙を受け取る。
次の授業までには時間がない。
「今夜確認して、明日お返ししてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。ありがとうございます」
それも、さほど難しいものではなかった。
夜、地理の資料を作り終えてから目を通す。
主張そのものは合っている。
ただ、根拠として挙げている条文が一つ違っていた。
そこに印をつける。
せっかくなので、正しい条文の番号も書いておいた。
十五分ほどだった。
その翌日は、魔術理論の式を二つ。
さらに翌日は、歴史のノートを一冊。
その次の日には、授業で扱っていない参考文献を知らないかと尋ねられた。
「ございましたら、書名だけ教えていただければ」
「承知いたしました。帰宅して確認しておきます」
本棚を確認するだけなら、ほとんど時間はかからない。
似た題名の本が三冊あったので、中身を開いて該当するものを確かめた。
そのうち一冊は、求めている内容より少し難しい。
もう一冊の方が分かりやすそうだった。
書名だけではどちらを選ぶか迷うかもしれないので、それぞれ何が書かれているかも簡単に記した。
それでも、ほんの少しだった。
学院の課題を終えてからでも、十分にできる。
そうして一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。
「レーヴェン様、少しよろしいでしょうか」
その言葉を聞くことにも、すっかり慣れた。
「はい。何でございましょう」
セレスティーナは、そのたびに少し嬉しくなる。
今日は何だろう。
自分にできることだろうか。
できることならば、嬉しい。
頼み事の中には、セレスティーナにもすぐには分からないものがあった。
そういう時には調べればよかった。
「申し訳ございません。こちらはわたくしも存じませんので、少し確認してもよろしいでしょうか」
「そこまでしていただかなくても……」
「いえ。わたくしも気になりますので」
実際、知らないことを調べるのは嫌いではなかった。
調べて、分かる。
それを翌日伝える。
相手が喜ぶ。
「ありがとうございます、レーヴェン様」
その言葉を聞くたびに、胸の奥が少し温かくなる。
ミアが言っていた。
みんな、セレスティーナが話しやすいと分かってきたのだと。
本当にそうなら、とても嬉しい。
最近では、教室へ入るだけで挨拶をしてくれる者もいる。
「おはようございます、レーヴェン様」
「おはようございます」
それだけのことなのに、少し嬉しい。
以前にはなかったことだった。
昼休みは変わらずミアと過ごした。
温かなスープを飲み、パンを食べる。
今日は薄く切った林檎が三切れついていた。
最後にミアが、小さな焼き菓子を一つくれた。
「今日はちゃんとスープも全部飲めましたね」
「はい。とても美味しゅうございました」
「果物も」
「はい」
セレスティーナは自分の身体を確かめる。
「もう少し食べられそうですか?」
もう十分だった。
「いいえ。もう入りません」
「そうですか」
「ですが、とても満足しております」
そう答えると、ミアが笑った。
最近は、ミアも以前ほど食事のたびに心配そうな顔をしなくなった。
それも嬉しかった。
自分はきちんと食べている。
身体も問題なく動いている。
授業にも遅れていない。
頼まれたことも、今のところすべて約束した日までに返せている。
何一つ問題はなかった。
ただ、少しだけ、夜にすることが増えた。
二週間ほど経った頃には、帰宅して自分の課題を終えると、机の端にその日預かったものを並べるのが習慣になっていた。
今日は四つだった。
一つ目は、歴史の年表の確認。
年代が二つ入れ替わっているだけだったので、すぐに終わった。
二つ目は、魔術理論の課題。
術式が途中から成立していない。
間違っている箇所に印をつけるだけでもよかったが、それではなぜ違うのか分かりにくい。
横に正しい式を書く。
これも、二十分もかからなかった。
三つ目は、地理の資料。
これは自分の本棚にある本を一冊確認すれば済んだ。
必要な頁を紙に控える。
四つ目は、手紙だった。
親族へ送る礼状の言葉遣いに自信がないので、一度見てほしいと言われたものだ。
少しだけ表現を整える。
全部終わって時計を見ると、零時を少し回っていた。
セレスティーナは瞬きをした。
思っていたより遅くなったらしい。
けれど、明日も六時に起きれば十分に間に合う。
明日の支度を済ませ、寝台へ入った。
翌朝も、いつも通り六時に目を覚ました。
身体を起こす。
問題なく動いた。
朝食を食べ、支度をして学院へ向かう。
昨日の紙を渡した令嬢が、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます、レーヴェン様。本当に助かりました」
「いいえ。お役に立てて何よりでございます」
やっておいてよかった。
そう思った。
その日の休み時間には、また二人から声をかけられた。
一つは、その場で答えられた。
もう一つは、自宅にある資料を確認する必要があった。
「明日まででもよろしいでしょうか」
「もちろんです。ありがとうございます」
それだけだった。
次の日は三つ。
その次の日には、五つ。
けれど、その場で済むものもある。
持ち帰るのは、せいぜい三つか四つだった。
一つに一時間もかかるわけではない。
十分。
十五分。
長くても三十分ほど。
少しずつ片づければ、すべて終わる。
ただ、自分の課題がなくなるわけではなかった。
学院から出された課題を終える。
翌日の予習をする。
実家から届く手習を進める。
それから、預かったものを一つずつ確認する。
一つ終われば、机の端から紙が一枚なくなる。
もう一つ終われば、ノートが一冊なくなる。
すべて片づけてから寝台へ入る。
気づけば、一時を過ぎる日が増えていた。
一時十五分。
一時半。
日によっては、それより少し遅い。
それでも、朝は六時に起きた。
目を覚まし、身体を起こし、朝食を食べる。
学院へ行って授業を受ける。
昼食も食べられる。
ミアと話すこともできる。
何も変わらなかった。
むしろ、とても充実していた。
朝、学院へ行けば誰かが声をかけてくれる。
「昨日はありがとうございました」
そう言ってもらえる。
昼にはミアがいる。
時々アレクサンダーたちも来る。
温かなスープがあって、菓子まである。
午後になれば、また誰かが自分を頼ってくれる。
家へ帰れば、明日誰かに渡すものがある。
自分がここにいて、できることがある。
それを喜んでくれる人がいる。
なんて幸せな夢なのだろう。
できることなら、もう少しだけ。
少しでも長く、この夢が続けばいい。
そう思った。
三週間ほど経った夜。
セレスティーナは机に向かっていた。
今日預かったものは、六つあった。
二つは学院で済ませた。
一つは帰宅してすぐに確認した。
残りは三つ。
自分の課題を終えたあと、一つ目の資料をまとめた。
二つ目は、魔術式の確認だった。
最後の一つは、明日の授業で提出するという文章だった。
すでに本人が書いたものを、少し見てほしいと言われただけである。
大半はきちんと書けていた。
直すところは、ほんの少ししかない。
セレスティーナは一行に印をつけた。
その時、ほんの少しだけ頭が重いような気がした。
手を止める。
少しだけ、目を閉じた。
痛い、というほどではない。
目を開けば文字は読める。
考えることもできる。
指も、いつも通り動く。
なら、大したことではない。
それでも、何となく顔を上げた。
机の向こうに置かれた時計を見る。
二時を、とうに過ぎていた。
「あら……」
思っていたより、少し遅くなってしまったらしい。
セレスティーナは時計を見つめた。
その時、ふとミアの顔が頭をよぎった。
――セラ様。夜はきちんとお休みくださいね。
以前、そう言われた。
ミアは、とても優しい。
自分が少し食べないだけでも心配する。
顔色が悪ければ、すぐに気づく。
怪我をした時など、本当に泣きそうな顔をしていた。
だから。
セレスティーナは、そっと時計から目を逸らした。
手元の紙を見る。
あと少しだった。
ここを直して、その理由を一言書けば終わる。
これだけ終えて、早く休もう。
明日も六時に起きなければならない。
ミアは優しいから、心配してしまう。
セレスティーナは再びペンを取った。




