5-1 小さな違和感
「レーヴェン様。少し、お願いしてもよろしいでしょうか」
休み時間、次の授業の教本を机に出していたセレスティーナは、呼びかけられて顔を上げた。
立っていたのは、同じ一年生の令嬢だった。顔と名前は知っている。何度か同じ授業を受けているが、直接話したことはほとんどない。
「はい。何でございましょう」
「あの……昨日の法学の授業のノートを、少し見せていただけませんか?」
令嬢はどこか緊張した様子だった。
セレスティーナは瞬きをした。
「昨日の、でございますか?」
「はい。先生がお話しになったところを、少し書き漏らしてしまって……」
「もちろんでございます」
そう答えてから、セレスティーナは鞄の中へ手を入れた。
けれど、目当てのものは見つからなかった。昨日の授業で使ったノートは、今日の時間割には必要がない。どうやら自宅へ置いてきたらしい。
「申し訳ございません。本日は持ってきておりませんので、明日でもよろしいでしょうか」
「え」
令嬢が目を瞬いた。
「明日、お持ちいたします」
「あ……はい。もちろんです。ありがとうございます」
「いいえ」
それだけで話は終わった。
次の授業が始まり、セレスティーナはいつも通り講義を受けた。昼休みになればミアやアレクサンダーたちと昼食を取り、午後の授業を終えれば帰宅する。
夜、自室でその日の課題を終えたところで、朝の約束を思い出した。
本棚から昨日の法学のノートを取り出す。
頼まれたのは、書き漏らした部分を見せることだけだった。
ただ、該当する頁を開いてみると、教師が口頭で説明していた判例について、自分の覚え書きが欄外にいくつか残っている。授業中に理解するための走り書きで、そのままでは他人には少し分かりにくい。
セレスティーナは別の紙を一枚取り出した。
判例の要点を三行ほど書き、授業中に教師が補足していた部分を一つ付け加える。
ほんの数分で済んだ。
翌朝、セレスティーナは自分から令嬢の席を訪ねた。
「昨日のものでございます」
「あ……本当に持ってきてくださったのですか」
「はい」
約束したのだから、当然だった。
ノートと一緒に紙を渡すと、令嬢は不思議そうにそれを開いた。
「こちらは?」
「先生が口頭でお話しになった部分でございます。ノートだけですと分かりにくいかと思いましたので」
「わざわざ、書いてくださったのですか?」
「大したものではございません」
実際、セレスティーナにとっては大したことではなかった。
「ありがとうございます、レーヴェン様。助かります」
そう言われて、セレスティーナは少しだけ微笑んだ。
「お役に立てたのでしたら何よりでございます」
その翌日、また別の生徒から声をかけられた。
「レーヴェン様、少々よろしいでしょうか」
「はい。何でございましょう」
今度は男子生徒だった。
魔術理論の授業で、教師が板書する前に消してしまった術式を覚えていないかという。
「おそらく覚えておりますが、正確なものはノートを確認しなければ」
「でしたら、今度で構いません」
「では、確認しておきます」
その夜、セレスティーナはノートを開いた。
術式そのものを書き写すだけなら、一分もかからない。
けれど、途中の式が省略されているため、そこだけ見ても意味が分かりにくいかもしれなかった。
一行だけ、変換の過程を書き足した。
翌日渡すと、男子生徒は驚いたようにその一行を何度か見返した。
「ここまで書いていただけるとは思いませんでした」
「式だけでは分かりにくいかと思いましたので」
「ありがとうございます。これなら分かります」
「それはよろしゅうございました」
それも、それだけだった。
三日目には、歴史の授業について尋ねられた。
「先週、欠席してしまいまして。どこまで進んだかだけ、教えていただけませんか」
「北方戦争の講和まででございます」
「ああ、そこまで……」
相手が困ったように教本をめくる。
セレスティーナは少し考えた。
「わたくしのノートでよろしければ、明日お持ちいたしましょうか」
「よろしいのですか?」
「はい」
今度は、頼まれる前に自分から言った。
その日の夜、ノートを用意するついでに、授業で扱った頁に紙を挟んでおいた。
欠席した授業なら、どこを読めばいいか分かった方が便利だろう。
それだけだった。
四日目には、昨日ノートを貸した生徒がやってきた。
「レーヴェン様、ありがとうございました」
「いいえ。お役に立ちましたでしょうか」
「はい。挟んでくださった紙も、とても分かりやすくて」
「それはよろしゅうございました」
返されたノートを受け取る。
そのやり取りを見ていた別の令嬢が、しばらくしてセレスティーナの席へやってきた。
「レーヴェン様。少しお聞きしたいのですが……」
「はい」
また、何かを尋ねられている。
少し離れたところで待ちながら、ミアはその光景を眺めていた。
最近、セレスティーナはよく人に呼び止められる。
最初は、特に気にしていなかった。
ほんの数分話すだけだ。
授業について聞かれたり、ノートを貸したり、資料の場所を尋ねられたりする。
今日もそうだった。
二、三言説明すると、相手は納得したように頷いた。
「ありがとうございます、レーヴェン様」
「いいえ」
令嬢が去る。
セレスティーナは、少し先で待っていたミアのもとへ戻ってきた。
「お待たせいたしました」
「いえ。もういいんですか?」
「はい」
本当に、ほんの数分だった。
ミアは歩き出したセレスティーナの横顔を見る。
よかった、と最初に思った。
以前のように周囲から恐れられ、遠巻きにされているだけではない。こうして自分から近づいてくる人がいる。
けれど、喜びの底には小さな引っかかりもあった。
先ほどの令嬢も、その前の男子生徒も、何か聞きたいことがあってやってきた。
セレスティーナと話したかったからではなく、必要なものを彼女が持っているから声をかけたのだ。
そう考えると胸の奥が少し冷えたが、セレスティーナが嬉しそうにしているのを見れば、口にする気にはなれなかった。
以前は、こんなことすらなかったのだ。
セレスティーナは公爵令嬢で、王太子の婚約者だ。学院へ入ったばかりの頃から、遠巻きに見ている人は多かった。
けれど、自分から近づいて話しかける人は少なかった。以前のセレスティーナを知っている人なら、なおさらだった。
ミア自身もそうだった。
初めて学院へ来た頃、セレスティーナは怖い人だった。視線が合うだけで身体が強張り、何を言えば怒らせるのか分からなくて、なるべく近くを通らないようにしていた。
それが今では、こうして隣を歩いている。
昼休みになれば一緒に食事をし、時々、昨日食べた菓子や図書室の新刊について話す。
セレスティーナが話しかけにくい人ではないことを、ミアはもう知っていた。
頼み事をされれば嫌な顔をせず、分からないことを聞かれれば、分かる範囲で答える。
誰かの役に立てた時には、少し嬉しそうにする。
ようやく、ほかの人たちもそれに気づき始めたのかもしれない。
そう思いたかった。
その日の昼休み。
いつものように食事をしながら、ミアは隣に座るセレスティーナへ声をかけた。
「セラ様」
「はい」
「最近、よく話しかけられますね」
セレスティーナが目を瞬く。
「……そうでございましょうか」
「そうですよ。今日だって、朝から三人くらいに声をかけられてたじゃないですか」
「三人……」
セレスティーナは視線を落とし、思い返すようにした。
「そういえば、そうでございますね」
言われるまで気にしていなかったらしい。
「前よりずっと増えましたよ」
「左様でございますか」
穏やかな返事だったが、喜んでいるのか、ただ事実として受け止めているのかは分からなかった。
変わったことは、もう一つある。
少しずつ寒くなってきたからと、ミアが勧めたのだ。昼食に、温かいスープと少しの果物をつけるようになった。
といっても、上品な大きさのカップに入った、ほんの少しのスープと、数切れの果物である。
最初は食べ切れるか心配していたセレスティーナも、一度口にすると気に入ったらしい。
今では昼食の席に着くと、まず温かなカップへ手を伸ばす。
両手で小さなカップを持ち、立ちのぼる湯気に頬を緩める姿は、幼い子供のようで可愛らしかった。
その手首が、ミアと比べても華奢なことを除けば。
今の昼食は、パンとスープ、少しの果物。それから、ミアが持参する菓子。
以前のパン一つだけに比べれば、ずいぶん増えた。
本当は、もう少し食べた方がいいのではないか。
以前、医務室へ付き添った時に触れた薄い肩を思い出し、そう勧めたこともある。
けれどセレスティーナは、
「もう十分でございます。これ以上は食べられません」
そう言って、幸せそうに笑った。
その笑顔を見れば、無理に勧めることはできない。
以前の負傷の後に言われていた貧血も、もう問題ないらしい。少なくとも、以前より食べる量が増えているのは確かだ。、
だからミアは、もう少し様子を見ることにした。
そう決めても、ついセレスティーナの顔色を確かめてしまう。
今日もセレスティーナは、温かなスープを一口飲んで、ほっと息をついた。
「美味しいですか?」
「はい。温かいものは、とても美味しいものなのですね」
「寒くなってきましたからね」
「ミア様に教えていただかなければ、存じませんでした」
そこまで大げさなことだろうかと思いながら、ミアは笑った。
「どうかなさいましたか?」
「いえ。何でもありません」
セレスティーナは不思議そうにしながら、またスープへ口をつけた。
その様子を見ていると、少なくとも今は元気そうに見える。
けれど、元気そうに見えることと、本当に元気であることは同じではないのかもしれない。
ミアがそう考えかけた時、セレスティーナが顔を上げた。
「それで、最近よく話しかけられるというお話ですが」
「あ、そうですね」
セレスティーナはカップを置き、少し考えてから微笑んだ。
「皆様、とても親切にしてくださいます」
「親切?」
頼み事をされているのは、どう見てもセレスティーナの方である。
「はい。以前より、お声をかけていただけることが増えました」
そう言われて、ミアは納得した。
「ああ……そういうことですか」
「はい」
セレスティーナは嬉しそうだった。
その表情を見て、ミアも笑う。
同時に、胸の奥に残っていた違和感が形を持った。
セレスティーナは、頼られることを「親切にされている」と受け取っている。
それが間違いとは言い切れない。頼み事をきっかけに会話が生まれるなら、悪いことではないのかもしれない。
ただ、相手がセレスティーナ自身を見ているのかは、まだ分からなかった。
それでも、彼女の喜びを否定したくはなかった。
「よかったですね、セラ様」
「はい。わたくしも、とても嬉しゅうございます」
その言葉に、ミアの胸は温かくなった。
ちょうどそこへ、アレクサンダーたちがやってきた。
「何の話だ?」
向かい側の席へ腰を下ろしながら、アレクサンダーが聞く。
「最近、セラ様に話しかける人が増えましたねって話です」
「セレスティーナに?」
「はい。さっきも三人くらい来てましたよ」
アレクサンダーの眉が、わずかに動いた。
隣に座ったトビアスも、セレスティーナへ目を向ける。
「何の用か聞いても?」
「授業について、少し尋ねられただけでございます」
「三人とも?」
「お一人は昨日お貸しした資料を返しにいらっしゃいました。もうお一人は法学の課題について。最後の方は、魔術理論のノートを見せてほしいとのことでした」
「へえ」
トビアスの短い返事に、ミアは目を向けた。
彼も何かを気にしているように見えたが、確かめる前にいつもの笑顔へ戻る。
「ちゃんと話せる相手が増えてるなら、いいことじゃない?」
「そうですよね」
ミアは頷いた。
アレクサンダーだけは、まだ難しい顔をしていた。
「変なこと頼まれてないだろうな」
「変なこと、でございますか?」
「だから……無茶なこととか」
「ございません」
セレスティーナは即答した。
「いずれも、わたくしにできることでございました」
「ならいいんだが」
「はい」
アレクサンダーはまだ何か言いたそうだったが、それ以上は続けなかった。
ミアも気にしないことにした。
実際、セレスティーナはいつも通りだった。
昼休みには一緒に食事をし、パンを食べ、スープを飲み、果物と菓子を少し口にする。
頼み事が増えたといっても、今のところは短い時間で済んでいる。
少なくとも、以前よりはずっといい。
それよりも。
「そうだ、セラ様」
ミアは鞄を開けた。
「今日はこれがあるんです」
包みを取り出すと、セレスティーナの瞳がわずかに明るくなった。
「お菓子でございますか?」
「はい。先日、サンティエの家でいただいたんです。セラ様も好きかなと思って」
小さな果実の砂糖漬けだった。
一つ差し出すと、セレスティーナは大切そうに受け取った。
「ありがとうございます」
口へ入れ、しばらく味わう。
「とても美味しゅうございます」
「よかった」
ミアも笑った。
その笑顔を見ていると、さっきまでの違和感など気のせいに思えてくる。
昼休みが終わり、午後の授業へ向かう途中で、また一人の生徒がセレスティーナを呼び止めた。
「レーヴェン様。少々よろしいでしょうか」
「はい」
セレスティーナが振り返る。
ミアは少し先で立ち止まった。
「昨日の課題なのですが、どうしても一か所だけ分からなくて……」
「拝見しても?」
「はい」
紙を受け取り、セレスティーナが目を通す。
「こちらでしたら――」
ほんの数分で説明を終えると、相手は何度も礼を言った。
「ありがとうございます。助かりました」
「いいえ」
セレスティーナが戻ってくる。
「お待たせいたしました、ミア様」
「大丈夫ですよ」
二人で歩き出す。
「本当に増えましたね」
ミアが言うと、セレスティーナも今度は否定しなかった。
「皆様、わたくしなどにも色々とお話しくださいます」
その声は、少し弾んでいた。
ミアには、それが嬉しかった。
だからこそ、「わたくしなど」という言葉が引っかかった。
誰かに必要とされることを喜んでいるのに、自分自身を見られているとは思っていない。
そんなふうに聞こえた。
けれど、今はその顔を曇らせたくなかった。
「セラ様が話しやすいって、みんな分かってきたんですよ」
「そうなのでございましょうか」
「きっとそうです」
セレスティーナは少し驚いたようにミアを見て、それから嬉しそうに微笑んだ。
「でしたら、とても幸せなことでございますね」
「はい」
その言葉に嘘はなかった。
幸せなことだと思う。
ただ、その幸せがセレスティーナの手元に残るのか、それとも誰かの頼み事と一緒に持ち去られるのか、ミアにはまだ分からなかった。
「よかったですね、セラ様」
「はい」
その日の放課後。
ミアと別れたセレスティーナの鞄には、二冊のノートと三枚の紙が入っていた。
どれも彼女自身のものではない。
一冊は、明日までに分からない箇所を見てほしいと頼まれたもの。
もう一冊は、参考になる頁を教えてほしいと預かったもの。
三枚の紙には、それぞれ違う生徒の名前が書かれている。
一つひとつなら、ほんのわずかな手間だった。
けれど、鞄の中身を並べてみれば、それはもう「少し頼まれただけ」と呼べる量ではなかった。
明日までに。
次の授業までに。
できれば今夜中に。
セレスティーナは、それらを一枚ずつ丁寧に重ね、落とさないように鞄の奥へしまった。
断るという選択肢は、最初から彼女の中になかった。
自分にできる小さなことで喜んでもらえることを、純粋に嬉しく思っていた。
だからミアは知らなかった。
セレスティーナ自身は、それを大したことだとは思っていなかった。
ただ、一週間前より少しだけ。
彼女が部屋へ持ち帰る「お願い」は、増えていた。
そしてその「お願い」は、明日になればなくなるものではなく、渡し終えればまた新しいものが重ねられていく種類のものだった。




