4-9 楽しみになってきた
それから、放課後の演習場へ通う日が増えた。
毎日ではない。セレスティーナにも課題や自習の都合があり、ミアにもサンティエ家からきた教師に教わる予定がある。アレクサンダーたち三人に至っては、王太子としての予定や剣術の訓練、それぞれの家の用事もあった。
だから五人全員が揃う日もあれば、ミアとセレスティーナだけの日もある。
その日は二人きりだった。
ミアの前で、水の球が形を取る。
「《ウォーターボール》」
飛んだ。
的の中心から少し右へ外れた。
「もう一度お願いいたします」
「はい」
息を整え、もう一度術式を組む。
十五秒。
今度は少し左。
「もう一度」
三本目も十五秒ほどだった。
的には当たる。大きさもほぼ同じ。最初の頃のように、三回目で急に術式が崩れることもなくなった。
「……どうです?」
ミアが振り返る。
セレスティーナは、嬉しそうに頷いた。
「とても安定してまいりました。最初に拝見したときは三度目で構築が乱れておりましたが、今はほとんど変わりません」
「本当ですか?」
「はい。今日は水属性を始めてから、まだ一度も構築に失敗していらっしゃいません」
言われてみれば、そうだった。
最初は二十秒かけて一本作るだけでも、続けるうちに形が崩れた。
今は十五秒ほど。
十本続けても、ちゃんと飛ぶ。
「……私、上手くなってます?」
「もちろんでございます」
「えへへ」
思わず笑うと、セレスティーナまで嬉しそうに笑った。
「では、一度休みましょう」
「はい」
それにも、もう慣れた。
最初の頃は、まだできるのにと思っていた。
けれどセレスティーナは、ミア自身より先に疲れを見つける。
構築時間が一秒ほど伸びた。
狙いがいつもより少し右へ寄った。
指先に余計な力が入った。
呼吸が速くなった。
そのどれかが出ると、すぐに休憩になった。
長椅子へ座り、水筒を開ける。
「そうだ。セラ様」
「はい?」
「ここのところが分からないんですけど」
今度は鞄から、歴史の教本を取り出した。
最近はこんなふうに、魔術の練習で疲れると、分からない授業について聞くことも増えた。
「この条約の後に、どうしてこっちの国との関係まで悪くなるんですか?」
「ああ。それでしたら、条約そのものより、その前年の王女殿下のご婚姻からご覧になった方が分かりやすいかと存じます」
「結婚が関係あるんですか?」
「はい。こちらの国は――」
セレスティーナが教本を覗き込む。
ほんの少し前まで、魔術の休憩は休むだけの時間だった。
今は二人で教本を広げる時間になった。
身体を休めているのだから、セレスティーナとしても問題ないらしい。
そこはいいんだ、とミアは思わなくもなかったが。
多分、セレスティーナにとってはこれが当たり前なのかもしれない。
説明を聞き終わったところで、もう一つ思い出した。
「あ。今日はこれもあります」
鞄の奥から、小さな包みを出した。
セレスティーナが目を瞬く。
「何でございましょう?」
「お菓子です」
「……わたくしに?」
「はい」
いつも渡していた焼き菓子とは違う。
町で見つけた、小さな砂糖菓子だった。
毎日のように魔術を見てもらって、授業まで教えてもらっている。
とても釣り合うとは思えない。
それでも何もしないよりは、と買ってきた。
「全然お礼にもならないんですけど。いつものと違うものにしてみました」
「いただいてもよろしいのですか?」
「もちろんです」
セレスティーナは両手で包みを受け取った。
開く。
中を覗く。
顔がぱっと明るくなった。
「まあ……」
そんなに喜ぶとは思わなかった。
「可愛らしいですね」
「砂糖を固めてあるみたいです。果物の味もするって」
「いただいても?」
「どうぞ」
一つ口へ入れる。
しばらく味わってから、セレスティーナが微笑んだ。
「とても美味しゅうございます」
「よかった」
ほっとする。
けれど、少し不思議でもあった。
「私、セラ様はいつもの焼き菓子が好きなのだと思ってたんです」
「もちろん、あちらも大好きでございますよ」
「じゃあ、こういうのも好きなんですね」
セレスティーナは少し考えた。
それから、何でもないことのように言った。
「ミア様にいただくものでしたら、わたくしは何でも嬉しゅうございます」
にこりと微笑む。
ミアは一瞬、返事ができなかった。
「……そういうこと、普通に言いますよね、セラ様」
「何かおかしなことを申し上げましたか?」
「いえ。何でもないです」
むしろ、渡した側が恐縮してしまう。
たった数枚の焼き菓子も。
安い砂糖菓子も。
この人に渡すと、何だかとても大切なものを贈ったような気分になる。
「次は何にしようかな……」
「ミア様?」
「何でもありません」
でも、少し楽しかった。
別の日には、トビアスが得意げな顔で演習場へやってきた。
「見てて」
「何をですか?」
ミアが聞くと、トビアスは的へ右手を向けた。
風の刃が飛ぶ。
一つ。
二つ。
三つ。
ほとんど間を置かず、的へ突き刺さった。
「……あ!」
ミアにも分かった。
「できたんですか?」
「一応ね」
トビアスは右手を下ろした。
「セレスティーナ嬢がやってた圧縮構築。完全に同じじゃないけど、二つの工程を重ねられるようになった」
「すごいです!」
「ありがとう。でも、これ以上は無理」
肩をすくめる。
「今のところ秒速三発くらい。これより速くすると、どこ組んでるのか自分でも分からなくなる」
セレスティーナが素直に拍手した。
「素晴らしいです、トビアス様」
「君に褒められると、素直に喜んでいいのか複雑なんだよね」
「なぜでございますか?」
「十二発撃つ人に三発を褒められてるから」
「ですが、初めてなさってからまだ二週間ほどではございませんか」
「……まあ、そうなんだけど」
少し嬉しそうだった。
ジークバルトが横から言う。
「結局、寮でもやってたのか」
「気になるでしょ。理屈が分かってるのにできないの」
「お前も大概だな」
「ジークにだけは言われたくないよ。君も解除の練習してるでしょ」
「俺はたまにだ」
「昨日もやってたよね」
「……見てたのか」
いつの間にか、セレスティーナが持ち込んだ変な修練方法が三人にも広がっていた。
何なら、熱心だったのはきっかけのミアとは別の人間だった。
「見てろ。今度はいける」
「殿下、それ何回目?」
「今度はいけるって」
アレクサンダーが構えていた。
この日は基礎魔術ではない。
中級の火属性魔術だった。
「アレク様、それ、解除の練習ですよね?」
「そうだよ」
「なんで中級でやるんですか?」
「基礎はもうできるようになったから」
「殿下」
トビアスが呆れた声を出す。
「調子に乗ってない?」
「乗ってない」
「乗ってるだろう」
ジークバルトまで言った。
「うるさい。黙って見てろ」
術式が組み上がる。
炎が集まり、複雑な形を取り始めた。
完成する直前。
アレクサンダーが解除しようとする。
一瞬、炎が揺らいだ。
「あ」
トビアスが言った。
次の瞬間、破裂した。
「殿下!」
「アレク様!」
アレクサンダーが右腕を庇って下がる。
火はすぐに消えた。
けれど袖の一部が焦げ、手首から先が赤くなっている。
「平気だ。これくらい――」
「平気じゃありません!」
ミアは考えるより先に駆け寄った。
赤くなった手を取る。
「ミア、軽い火傷だから」
「じっとしてください」
光が溢れた。
暖かな白い光がアレクサンダーの右手を包む。
数秒。
光が消えたときには、赤みも消えていた。
アレクサンダーが手を開いて、握る。
「……前よりも随分速いな」
「痛くないですか?」
「全然」
「動かしてみてください」
「動く」
「本当に?」
「本当だって」
ミアはようやく息を吐いた。
「ミアのそれは、もう上級って言っていいんじゃない?」
トビアスが横から覗き込んだ。
「発動までほとんど時間がないし、術式も安定してる。普通の治癒魔術なら、今くらいの火傷でももう少しかかるよ」
「光の魔術に限れば、規模も発動速度も上級相当だろうな」
ジークバルトも頷く。
ミアは自分の手を見た。
考えなくても使える。
焦っていても。
相手が誰でも。
治したいと思えば、光は出てくる。
「もう少し大きな怪我なら、どのくらいまで治せるのか――」
トビアスが言いかけて、止まった。
ミアの顔を見たからだ。
脳裏に浮かんだ。
切り裂かれた服。
乾いた血。
腫れた肩。
寝台の上で、それでも大丈夫だと言っていたセレスティーナ。
「……試すのは、嫌です」
声が少し小さくなった。
「うん」
トビアスもすぐに頷いた。
「それは僕も嫌だな」
「俺もだ」
ジークバルトが言う。
アレクサンダーも何も言わなかった。
セレスティーナだけが少し困ったようにミアを見ていた。
「ミア様」
「セラ様は何も言わなくていいです」
「ですが――」
「駄目です」
「……はい」
素直に引いた。
その様子を見て、アレクサンダーが小さく肩をすくめた。
「お前、ミアの言うことは聞くんだな」
「ミア様は、わたくしにたくさんのことを教えてくださいますので」
「俺も散々言ってるだろ」
「殿下のお言葉も、きちんと伺っております」
「聞くだけじゃなくて守れよ」
「はい」
「……本当か?」
横でトビアスが笑った。
「殿下、人のこと言える? 今、中級魔術を暴発させたばっかりだけど」
「それとこれとは別だ」
「同じじゃない?」
「別だ」
「アレク様」
ミアも睨む。
「もう今日は火属性禁止です」
「はいはい」
「返事が軽いです」
「分かったって」
セレスティーナが少し笑った。
「殿下も、今日は一度お休みになった方がよろしいかと存じます」
「お前にまで言われたくねえよ」
そうして、日々はすぎていった。
演習場へ行くことは、いつの間にか特別な予定ではなくなった。
「セラ様、これどうです?」
「先ほどより少し大きゅうございます。ですが、構築時間は同じですね」
「じゃあ、もう一回」
「その前に、一度お水を」
「まだ疲れてませんよ?」
「先ほどから右側へ逸れ始めております」
「……本当だ」
自分よりセレスティーナの方が先に気づく。
それも、もう珍しくない。
休憩になれば、教本を開く。
「セラ様、ここの外交関係なんですけど」
「それでしたら、先にこちらの家系図をご覧ください」
別の日には、
「この刺繍、先生に配置が重いって言われたんです」
「花を一つ減らして、蔓をこちらへ流してはいかがでしょう」
また別の日には、
「今日のお菓子、蜂蜜が入ってるらしいです」
「まあ」
セレスティーナの顔が明るくなる。
「ミア様、いただいてもよろしいのですか?」
「そのために持ってきたんですから」
「ありがとうございます」
いつもの焼き菓子でも。
初めて見る菓子でも。
同じように大切そうに両手で受け取る。
そして本当に嬉しそうに食べる。
その顔を見るのが、いつの間にかミアも好きになっていた。
実技試験も間近になった頃。
水属性と風属性の基礎魔術は、十五秒ほどで安定して構築できるようになった。
一度だけなら、ではない。
何度繰り返しても、ほとんど同じ時間で使える。
中級魔術も、水と風なら毎回発動する。
威力はまだばらつく。
狙いも外れる。
大きすぎたり、小さすぎたりもする。
それでも、術式そのものが途中で崩れることはほとんどなくなった。
苦手だった火と土も、急がなければ使える。
「二十五秒」
セレスティーナが時間を確認する。
ミアの前に、小さな火球が浮かんでいた。
「……できた」
「はい」
「もう一回やっていいですか?」
「もちろんでございます」
もう一度。
二十六秒。
今度もできた。
次は土。
地面から低い壁を作る。
二十五秒ほど。
少し右が高い。
でも、ちゃんと壁になっている。
「セラ様」
「はい?」
「私、四属性全部、普通に使えてません?」
セレスティーナが微笑んだ。
「最初からお使いになれておりましたよ」
「そうじゃなくて。ちゃんと何回やっても、っていう意味です」
「それでしたら、はい」
ミアは自分の両手を見た。
ひと月前には、三回続けただけで形が崩れた。
火と土は、一度作るだけでも苦労していた。
今は遅くてもいいなら、作れる。
何度でも。
「……私、結構頑張った気がします」
「とても頑張っていらっしゃいました」
即答だった。
「セラ様に言われると、何か基準がおかしい気もしますけど」
「なぜでございましょう?」
「なんででしょうね」
ミアは笑った。
その日の演習場には、セレスティーナとミアしかいなかった。
アレクサンダーは王宮。
ジークバルトは剣術の訓練。
トビアスは家の用事があると言っていた。
二人だけでも、もう困らない。
むしろ最初から、ずっとそうだったような気さえする。
ミアは次の魔術を構築するために的へ向き直った。
「セラ様」
「はい」
「試験、ちょっと楽しみになってきました」
後ろで、一瞬だけ間があった。
振り返る。
セレスティーナが、嬉しそうに笑っていた。
「はい。わたくしも、とても楽しみでございます」
ひと月前。
試験の話を聞いたときには、自分では無理なのだと思った。
聖女なのだから、できなくてもいい。
光の魔術さえ使えればいい。
そう言われて、何となく寂しかったけど、どこかで仕方がないとも思っていた。
今は違う。
聖女だから使える光ではなく。
誰かに与えられた奇跡でもなく。
十五秒かけて作った一本の氷の矢が、少しだけ嬉しい。
二十五秒もかけてようやく作れる小さな火球が、思っていたよりずっと嬉しい。
「もう一回やります」
「はい」
ミアは右手を上げた。
試験まで、あと少しだった。




