4-7 魔術実技試験
九月も半ばを過ぎた頃、ミアはようやく、学院の授業についていくためのやり方を掴み始めていた。
分からないことは、まだいくらでもある。それでも、何が分からないのかすら分からず教科書の前で途方に暮れていた頃とは違う。セレスティーナにもらった資料を手がかりに足りないところまで遡り、図書館で調べれば、少しずつ先へ進めるようになった。
とはいえ、なんとか付いていけるようになっただけで、決して今が楽なわけではない。
だから、その日の午前最後の魔術学の授業で教師が告げた言葉を聞いたとき、ミアは内心で小さく呻いた。
「来月、第一学年の魔術実技試験を行います」
教室のあちこちで、小さく声が上がる。
教師は黒板へ試験項目を書き出していった。
基礎術式の構築、指定出力への調整、固定標的への命中、術式の維持。それに簡単な身体能力の測定を組み合わせ、入学してから半年ほどの成長を確認するものらしい。
「試験と申しましても、これは現在の皆さんの状態を確認するためのものです。今回の結果が、そのまま学業成績を大きく左右するものではありません。必要以上に緊張しないように」
教師がそう付け加えると、教室の空気はすぐに緩んだ。
「もうそんな時期か」と話す者もいれば、命中試験が面倒だとぼやく者もいる。兄や姉から去年の試験について聞いているらしい生徒もいた。
周囲にとっては、試験といってもそれほど大仰なものではないのだろう。
貴族の子供たちは、学院へ入るずっと前から魔術を習っている。火を出すことも、水を動かすことも、その大きさを調整することも、何年も前から繰り返してきた。
半年に一度、自分がどのくらいできるようになったのか確かめる。
少し大掛かりな体力測定くらいのものなのかもしれない。
ミアだけが、黒板に並んだ文字をじっと見つめていた。
魔術は使える。
けれど、得意ではない。
ファイアボール、アイスアロー、入学してから覚えた基礎攻撃魔法は、規定の時間で構築こそできたが、自信を持って扱えるかと言われたら到底無理だった。
それでも、これまで困ることはなかった。
ミアに求められている魔術は、そちらではなかったからだ。
やがて授業終了の鐘が鳴った。
教室中で椅子を引く音がして、昼食へ向かう生徒たちが一斉に立ち上がる。
「ミア、食堂行こうぜ」
アレクサンダーが振り返った。
「あ、はい」
鞄を持って立ち上がろうとしたところで、教師から声をかけられた。
「サンティエ嬢は、少し残っていただけますか」
「はい」
四人が足を止める。
「先に行っていてください。すぐ行きますから」
そう言うと、アレクサンダーは教師を一度見てから頷いた。
「分かった。いつものところにいる」
四人が教室を出ていく。
残ったミアへ、教師は先ほどまでと変わらない穏やかな顔を向けた。
「来月の試験についてですが、サンティエ嬢は結果を気になさらなくて結構ですからね」
やっぱり、その話だった。
「はい」
「学院全体で行う行事ですので、サンティエ嬢だけ参加しないというわけにもまいりませんが、あなたはほかの生徒とは事情が違います」
それは、ミアにも分かっている。
ほかの生徒が何年もかけて覚えてきたことを、自分はまだ一年にも満たない期間しか学んでいない。
「基礎的な制御と、生活に必要な程度の魔術が扱えれば十分です。何より、あなたには聖女としての光の御力があります」
教師は優しく笑った。
「聖女様に攻撃魔術を求める者などおりません。ほかの生徒と同じようにできなくとも、それを気に病む必要はありませんよ」
責められているわけではない。
むしろ、気遣ってくれている。
ミアは頭を下げた。
「……ありがとうございます」
教室を出て、食堂へ向かう。
廊下にはすでに多くの生徒が歩いていた。
来月の試験について話す声が、あちこちから聞こえる。
命中試験は去年より難しくなるらしい。
兄は走力測定の方が嫌だった。
誰それは魔力量だけなら上級生にも負けない。
そんな話をしながら、みんな楽しそうに歩いている。
ミアの足取りは、いつもより少し重かった。
食堂へ着くと、四人はすでに席を取っていた。
「遅くなってすみません」
「何だった?」
「試験のことです」
アレクサンダーの隣へ座り、用意されていた昼食へ手を伸ばす。
パンをちぎる。
一口食べる。
次の一口をちぎって。
そこで手が止まった。
「ミア?」
アレクサンダーに呼ばれて、顔を上げる。
四人がこちらを見ていた。
「……何でもないです」
「何でもない顔じゃないだろ」
「そんな顔してます?」
「してる」
トビアスにまで言われた。
ミアは手元のパンを見た。
少し迷ってから、笑ってみる。
「先生に、試験の結果は気にしなくていいって言われたんです」
誰も口を挟まなかった。
「みんなとは事情が違うから、最低限の魔術が使えれば十分だって。攻撃魔術なんてできなくてもいいし……」
もう一度、笑おうとした。
「私、聖女の力があれば、それでいいんですって」
自分でも分かった。
うまく笑えていなかった。
「別にいいだろ」
アレクサンダーは、それほど深刻そうな顔をしなかった。
「今回の試験がそのまま成績になるわけでもないし。あれ、今どのくらいできるか見るための試験だからな」
「はい。分かってます」
「だったら気にするなよ。魔術なんてこれから覚えればいい」
たぶん、それが普通の反応なのだと思う。
実際、困ることなどない。
光の魔術は使える。
治癒もできる。
聖女として必要なことなら、教会でもサンティエ家でも教えてもらっている。
「……でも」
口にしてから、やめればよかったと思った。
「私、聖女じゃなかったら、何があるんでしょうね」
アレクサンダーの表情が変わった。
「ミア」
「すみません。変なこと言いました」
慌ててパンへ視線を戻す。
「分かってるんです。私がここにいられるのだって、サンティエ家に迎えていただけたのだって、たまたま聖女の力があったからで。だから、聖女の力があればそれでいいっていうのは、当たり前なんですけど」
教室にいるみんなには、聖女ではない部分がたくさんあるように見える。
家のことを知っている。
礼儀を知っている。
歴史を知っている。
魔術を知っている。
自分はどれも、まだ借り物みたいだった。
「聖女じゃない私の価値なんて、そんなにないのかなって。ちょっと思っただけです」
アレクサンダーは少し苦笑した。
「まあ、そんなに気にするな。俺だって、王太子は尊き御身なのだからそれだけでいいとか、適当なことを言ってくる奴もいる。腹は立つかもしれないが、気にするだけ無駄だ」
「そう、ですよね…」
ミアは少し俯いた。
「ミア様」
静かな声がした。
顔を上げる。
セレスティーナがこちらを見ていた。
「ミア様の良いところは、聖女の御力だけではございません」
あまりにも迷いなく言われて、ミアは返事に困った。
「でも、私……」
「わたくしは、ミア様にたくさんのことを教えていただきました」
「私が?」
思わず聞き返した。
セレスティーナは頷いた。
「初めて医務室へ連れていってくださったのも、ミア様でした」
「あれは……」
何のことか、すぐに分かった。
夏になる前。
セレスティーナがまともに歩けなくなっているのに、それでもアレクサンダーに押し付けられた用事を果たそうとしていた日だ。
「身体の様子を見て、お熱があると、お休みして良いと、言ってくださいました」
「いや、待ってください」
ミアは思わず止めた。
「そんなの、誰でもできることですよ」
歩けない人がいたら医務室へ連れていく。
具合が悪そうなら、どこかおかしくないか確認する。
熱があるなら休ませる。
そんなものは、魔術でも学問でもない。
「普通のことです。私じゃなくても、誰だって――」
「そうかもしれません」
セレスティーナは、静かに微笑んだ。
否定されなかったので、ミアはかえって言葉に詰まった。
「それでも、わたくしにそれを言ってくださったのはミア様です」
「……」
「わたくしは、それまで存じませんでした」
穏やかな声だった。
恥じているわけでも、悲しんでいるわけでもない。
ただ、自分が知らなかったことを話している。
「身体が思うように動かないときは、一度休んだ方がよいことも。身体の様子を見て、いつもと違うところがございましたら、それを気にした方がよいことも」
ミアは段々、何とも言えない気持ちになってきた。
「……セラ様。それ、本当に誰でも知ってることですからね」
「はい。ミア様にも、そのように教えていただきました」
「教えたっていうか……」
「ですが、わたくしは知らなかったのです」
セレスティーナは、そこでまた微笑んだ。
「ですから、わたくしにとっては、ミア様から教えていただいた大切なことでございます」
何も言えなくなった。
ちらりと周囲を見る。
アレクサンダーまで微妙な顔をしていた。ジークバルトは黙って眉間に皺を寄せ、トビアスは何か言いかけて、結局口を閉じた。
たぶん、みんな同じことを考えている。
それを十五歳まで誰にも教えてもらえなかったのか、と。
けれどセレスティーナだけは、少しも暗い顔をしていなかった。
むしろ、嬉しそうだった。
「それに、夏季演習のときにも、動けなくならないための方法をたくさん教えていただきました」
「それはセラ様が放っておくと動けなくなるまで動くからです」
「はい」
「褒めてませんよ?」
「そうなのですね」
本当に分かっているのだろうか。
少し怪しい。
それでも、さっきまで胸の奥にあった重いものが、ほんの少しだけ軽くなっていることにミアは気づいた。
自分では、何の価値もないと思っていたこと。
誰にでもできる、当たり前のこと。
それをセレスティーナは覚えている。
こんなにも大切そうに。
「ですから」
セレスティーナが続けた。
「もし、ミア様が魔術を覚えたいとお思いなのでしたら、今度はわたくしがお伝えできます」
「……セラ様が?」
「はい」
嬉しかった。
けれど、すぐに別の心配が浮かぶ。
セレスティーナに何かを頼むと、ときどき規模がおかしくなる。
教科書の分からないところを聞けば、数日後には何枚もの資料が出来上がっていた。刺繍の図案について話せば、意味や組み合わせまで整理された紙を渡された。
何より。
「セラ様、身体はもう大丈夫なんですか?」
「はい。問題ございません」
即答だった。
「でも、九階層の怪我だって、まだ一月経ってないですよね」
「もう問題ございません。医師からも通常の生活を送って構わないと許可をいただいております」
「でも――」
「ミア」
それまで黙っていたアレクサンダーが口を挟んだ。
「そこは大丈夫だ。医者からも、普段通りの生活をしていいって言われてる」
「本当に?」
「ああ。ただし」
アレクサンダーがセレスティーナを見る。
「高負荷の迷宮探索は禁止されてるからな」
「魔術の基礎練習は迷宮探索ではございません」
「分かってるよ。念のため言ったんだ」
「はい」
少なくとも、アレクサンダーが止めないのなら、本当に身体の方は問題ないのだろう。
それでもミアは迷った。
「でも、またセラ様の時間を使わせることになります」
「構いません」
やっぱり即答だった。
「セラ様はそう言うと思いました」
「……そうでございますか?」
不思議そうに首を傾げる。
その仕草が少し可笑しくて、ミアの口元が緩んだ。
「わたくしがこれまで培ってきたものが、ミア様のお力になれるのでしたら」
セレスティーナは、ほんの少し嬉しそうに微笑んだ。
「わたくしは、とても嬉しゅうございます」
ミアは、その顔を見つめた。
聖女だから価値がある。
教師は、そんなことを言ったわけではない。
けれど、自分の中ではいつの間にか、そんな意味に変わってしまっていた。
それに対してセレスティーナは、聖女の力とは何の関係もないものを、自分から受け取ったと言ってくれた。
誰にでもできること。
当たり前のこと。
それでも。
自分がこの人に渡せたものが、確かにあったらしい。
「ですから、そんなお顔をなさらないでくださいませ」
「……はい」
やってみよう、とミアは思った。
一月しかない。
みんなに追いつくなんて、きっと無理だ。
それでも、最初から必要ないと言って諦めることはない。
セレスティーナが教えてくれるというのなら。
できるところまで、やってみてもいい。
「私、やってみたいです」
「はい」
セレスティーナの顔が、ぱっと明るくなった。
「では、本日の放課後から始めましょう。まずは現在の制御精度を確認いたしませんと。演習室に空きがあるか確認して――」
言いながら、もう席を立とうとする。
「待ってください」
ミアは思わず笑った。
「はい?」
「まず、お昼食べましょう」
セレスティーナが自分の皿を見る。
まだ半分以上残っていた。
「あ……」
「演習場は逃げませんから」
「……はい。そうでございますね」
少し恥ずかしそうに、セレスティーナが座り直した。
その姿を見ながら、ミアはもう一度笑った。
今度は。
ちゃんと笑えたと思った。




