4-6 ちょっと怖い
週が明けた。
ミアは、法学と歴史の課題をどちらも無事に提出することができた。
法学の教師は提出された紙面に目を通し、最後の頁までめくったところで、わずかに眉を上げた。
「以前より、ずいぶん論点が整理されるようになりましたね」
「……はい!」
たったそれだけだった。
けれど席へ戻る足取りは、少しだけ軽かった。
セレスティーナにもらった資料をそのまま写したわけではない。何が分からないのかを教えてもらって、資料を読み、必要な本を自分で探して、自分の言葉で書いたものだ。
できた。
十五歳になってから大急ぎで詰め込んできたものが、ようやく一つ、自分の中で繋がった気がした。
その日の昼休み、ミアは教室を出る前にセレスティーナを探した。
探すまでもなかった。
少し離れたところに、もういる。
こちらを見ているわけでも、声をかけてくるわけでもない。ただ昼休みになると、最近はなんとなくミアの近くに来るようになった。
「セラ様、ご飯行きましょう」
「はい、ミア様」
声をかけると、ぱっと嬉しそうに笑う。
それがなんとなく可愛くて、ミアも笑った。
食堂へ向かう途中で、教師に課題を褒められたことを話すと、セレスティーナは自分が褒められたかのように喜んだ。
「まあ! それはようございました」
「セラ様のおかげです。あの資料がなかったら、たぶんまだ何を書けばいいのか分かってませんでした」
「いいえ。お調べになって、お書きになったのはミア様でございます。わたくしはほんの少し、お手伝いをしただけですから」
自習に付き合っただけでなく、十枚もの資料を二晩かけて作ることを、ほんの少しと言うらしい。
とりあえず、今はそこには突っ込まないことにした。
昼食を終えると、ミアは鞄から小さな包みを取り出した。
「今日も変わり映えしませんけど……食べます?」
中身はいつもの焼き菓子だった。
「いただいてばかりで恐縮ですが……いただけるのでしたら、嬉しゅうございます」
セレスティーナは相変わらず遠慮がちに両手で受け取った。
そして一口食べれば、相変わらず幸せそうに笑う。
向かいに座っていたアレクサンダーがちらりとそれを見た。
「……本当に飽きないな、お前」
「はい。とても美味しゅうございます」
「……そうか」
それだけで終わった。
夏の初めには焼き菓子一つで妙な空気になっていたことを思えば、ずいぶん変わったものだった。
それから数日、そんな日々が続いた。
授業の合間にも、ミアはセレスティーナと少しずつ話すようになった。
授業のこと。食堂のこと。家庭教師のこと。刺繍の課題では、図案の決まりが複雑で困っていること。
以前なら用事がなければ声をかける理由が見つからなかったのに、今は別に理由などなくてもよかった。
「そういえばセラ様。この前いただいたハンカチ、家庭教師の先生に見せたんです」
その日は、次の授業まで少し時間があった。
セレスティーナは目を瞬かせた。
「……何か、不都合がございましたでしょうか」
「なんで最初にそっちなんですか? 褒められたんです」
「褒めていただいたのですか……?」
「はい。すごく綺麗だって。熟練した職人でも十日くらいかかるって言ってました。高位貴族の令嬢が嫁入り道具に持っていってもおかしくないくらいだって」
「まあ……」
セレスティーナは本当に驚いた顔をした。
「でも、わたくしはまだ、お母様から一度も合格をいただいておりませんのですよ」
「……あれで?」
「はい。まだまだ未熟でございます」
あれでダメとは、公爵家の母親という人は、いったい何を作れば合格にするのだろう。
少し気になったけれど、ミアはその日はそれ以上聞かなかった。
「あ、それだけじゃないんです」
「はい?」
「最近、所作も褒められたんですよ。お茶のいただき方とか、お辞儀とか。誰をお手本にしたのか聞かれたので、セラ様を見て真似してますって言ったら、『良い方をお手本になさいましたね』って」
セレスティーナが、じっとミアを見た。
「……わたくしを、でございますか?」
「はい」
「わたくしが、ミア様のお役に立てていたのでございますか?」
「かなり」
答えると、セレスティーナはふんわりと微笑んだ。
焼き菓子を渡したときとよく似た、どこか幼子のような顔だった。
その翌日だった。
「ミア様。もしよろしければ、こちらを」
昼休みの終わり際、セレスティーナが数枚の紙を差し出してきた。
「なんです?」
「刺繍の図案でございます。以前、わたくしが練習に使っていたものを書き写しただけですので、大したものではございません」
受け取ってみれば、花や蔓、鳥などの図案がいくつか並び、それぞれに小さな説明が添えられている。
祝い事に向くもの。目上の女性へ贈って失礼にならないもの。婚約前の令嬢が使っても問題のない組み合わせ。
「先日、刺繍の図案を考えるのが難しいとおっしゃっていたでしょう?」
「言いましたけど……これ、作ってくれたんですか?」
「昔使っていたものを写しただけでございます。短い時間しかかかっておりませんので」
先日の件を覚えているらしい。
ミアがじっと見ると、セレスティーナは少し慌てて付け加えた。
「昨夜も六時間、きちんと休ませていただきました」
「……なら、いただきます」
「嬉しゅうございます」
嬉しそうに笑う。
それくらいなら、と本気でありがたく受け取った。
実際、家庭教師に見せる課題を作るために、とても役に立った。
数日後には、歴史の授業で使う年表が来た。
「こちらも昔作ったものがございましたので、必要なところだけ写しました」
その次には、法学。
「以前のものを少し整理しただけでございます」
地理。
「こちらは既に持っていたものに書き足しただけです」
外交。
「授業で扱われそうな国だけでございますので」
家門と紋章。
「全部ではございません。ミア様がお会いになる可能性の高い方だけです」
どれも数枚だった。
十枚もない。
夜中まで作ってもいない。
元々セレスティーナが知っていることや、以前勉強したときに作ったものを、少しだけミア向けに整えたものばかりだった。
最初は恐縮したものの、ミアも次第に慣れてきた。
実際、とても助かる。
だからそのたびに礼を言って、ありがたく受け取った。
そんな、ある日の午後。
次の授業の準備をしようと机の中を整理していたミアは、ふと手を止めた。
歴史。
法学。
地理。
政治。
外交。
家門。
礼儀作法。
刺繍。
いつの間にか、どの科目の教本を開いても、その間からセレスティーナの字で書かれた紙が出てくる。
「…………」
一枚抜いた。
綺麗な字。
もう一枚。
これも綺麗な字。
さらに一枚。
やっぱりセレスティーナの字。
頬がひくりと引き攣った。
嬉しい。
ものすごく役に立っている。
家庭教師にも褒められるようになったし、授業にも以前よりついていける。
セレスティーナは昔より全然怖くない。
むしろ最近は、昼休みになると少し離れたところへそっとやって来て、声をかけると嬉しそうに、可愛らしく笑う人である。
元々の身分の差を考えると恐れ多いことだが、こういう関係を学友と呼ぶのかもしれない。
でも。
なんだろう。
別の方向に、ちょっと怖い。
ミアは、つい最近まで庶民だった。
貴族にとっては気軽に使えるものなのかもしれないが、紙だって安いものではない。インクだってそうだ。
考えてみると、いつも自分が渡しているのは、町でも買える焼き菓子である。
ほぼ毎日とはいえ、毎回一個。それ以上渡そうとしたこともあるが、パンを食べたので満腹だと言われれば、無理に増やすわけにもいかない。
対して、これまで渡されたものを冷静に考えてみる。
どう考えても釣り合っていない。
「……どうしよう」
気づいた途端、急に落ち着かなくなった。
何をすれば返せることになるのか、さっぱり分からない。
非常に困る。
そして困ったときに頼れる人間を、ミアは一人知っていた。
「アレク様」
放課後、ミアはアレクサンダーに声をかけた。
いつものラウンジまで来てもらう。
今日はトビアスとジークバルトは一緒にはいない。
珍しく、二人きりだった。
以前のミアなら、王太子と二人きりというだけで、とても緊張していただろう。
しかし今は、それどころではない。
向き合って座ったところで、アレクサンダーが怪訝そうな声を上げた。
「改まって、どうした?」
「相談があります」
「また授業か?」
「違います」
ミアは少し声を落とした。
「セラ様のことです」
アレクサンダーの顔が、ほんの少し嫌そうになった。
「……今度は何したんだ、あいつ」
「何も悪いことはしてないんです」
「じゃあなんだよ」
ミアは鞄から、何枚か抜き出して持ってきた紙を見せた。
「これ、全部セラ様がくれました」
アレクサンダーが受け取る。
「……ああ」
「『ああ』じゃないです」
放課後までもやもやと考えたせいで、少し声が大きくなった。
「何がだよ」
「どうしたらいいんですか?」
「何が?」
「お返しです!」
アレクサンダーは黙った。
「私、焼き菓子くらいしかあげてないんですよ。それなのに、気づいたらどの授業にもセラ様の作ってくれた資料が入ってるんです。刺繍の図案まであります。しかも最近、私が恐縮しないようにか、『昔のを写しただけです』とか『少し書き足しただけです』とか言うんです」
「知恵つけたな、あいつ」
「感心しないでください!」
「俺にどうしろっていうんだよ」
「アレク様、婚約者でしょう? セラ様に何をお返しすればいいのか、一緒に考えてくれませんか?」
「俺が知ると思うか?」
即答だった。
ミアはぽかんとした。
アレクサンダーは手元の紙をぱらぱらとめくった。
「昔からそうなんだよ。なんでもできるし、やることだけは妙に早いし。作法もなんでも教師たちにはレーヴェン公爵令嬢は出来てるとか言われるし。学院に来れば試験じゃ普通に俺より上にいるし、歴史だの法律だの聞けばなんでも知ってるし」
「……はい」
「そのくせ前は、できるのが当たり前みたいな顔して、こっちが何か言えば鼻で笑うし」
「……はい?」
なんだか話が変わった気がする。
ミアは少し首を傾げた。
アレクサンダーは止まらなくなったように続ける。
「俺が一つ覚えてる間に二つどころか十も二十も先まで行ってるような奴に、横からあれこれ言われてみろ。腹立つだろ。今こそなんか様子が変わってるけど、あれはあれでやっぱり少し腹が立つし」
ミアは目を瞬かせた。
アレクサンダーは止まらなかった。
「魔術だってそうだ。俺が散々練習してようやく当てたら、あいつは同じ的に十本まとめて――」
そこで、ふと止まった。
ミアは思わずアレクサンダーをじっと見つめてしまった。
「…………」
「アレク様?」
アレクサンダーは顔を逸らした。
「……悪い。忘れてくれ」
「はい……」
忘れてくれと言われても、たぶんしばらく忘れられない。
王太子というものは、もっと何でもできて、何でも知っていて、困ったり悩んだりしないものだと思っていた。
少なくとも、ミアが学院に入ったばかりの頃のアレクサンダーはそう見えた。
綺麗な服を着て、背筋を伸ばして、何を聞いても親切に答えてくれる。
きらきらしていて、なんでもできそうなお貴族様。
そんなアレクサンダーが、昔から婚約者に勝てなくて腹を立てていたらしい。
なんだか少しだけ、可愛かった。
「……笑うなよ」
「笑ってません」
「笑ってるだろ」
「ちょっとだけです」
「ミア」
「すみません」
謝りながらも、笑顔は完全には消えなかった。
アレクサンダーは不機嫌そうに紙を返してきた。
「とにかく、俺に聞かれても分からん」
「そう、ですか……」
ミアは受け取った紙を揃えた。
どうやら、この問題は今の自分の手には余るようだ。
ミアは小さく息を吐いた。
「セラ様のことは、なんか……前も今も、理解できそうにないです」
「奇遇だな。俺もだよ。……もういっそ、新しい指導方法だと開き直って受け取っておいたらいいんじゃないか?」
「私ばっかりいただくのは、どうしても申し訳なくて……」
「まあ、あの調子で来られると、なんかな。俺も前に、ほら……色々押し付けてたとき、ちょっと思ってた」
少し意外なことを言われて、ミアは目を丸くした。
「アレク様、あんなことしてたのに、そんな気持ちだったんですか?」
「悪かったな、嫌がらせがしつこい男で。……俺はあいつと違って、根っから嫌味が得意なわけじゃないんだよ」
アレクサンダーは口を少しだけ尖らせた。
やっぱり、少しだけ微笑ましい。
ミアはちょっと嬉しくなった。
優秀な婚約者に複雑な思いを抱えている、同い年の少年の顔を、今日はたくさん見られた気がした。
問題は何も解決していない。
セレスティーナは明日もたぶん昼休みになれば近くへ来る。
声をかければ嬉しそうに笑う。
焼き菓子を渡せば、相変わらず恐縮しながら大事そうに食べる。
そして何日かに一度、何でもないような顔で新しい紙を差し出してくるのだろう。
以前はセレスティーナが分からないことが怖かった。
何を考えているのか分からない。いつ嫌なことを言われるのか分からない。アレクサンダーに庇ってもらうことさえ申し訳なくて、できれば近づきたくないと思っていた。
今も、やっぱり分からない。
それなのに。
分からないまま、アレクサンダーやセレスティーナと一緒に昼食を食べている。
分からないままセレスティーナに焼き菓子を渡して、ときどき手の込んだ手書きの資料を受け取る。
それは、あんまり嫌なことではないように思える。
そんな日々を繰り返していけば、向かいで難しい顔をしているアレクサンダーや、いつも幸せそうな顔をしているセレスティーナのことを、もう少し理解できる日が来るのかもしれない。
今は、それでいいような気がした。




