4-5 寝てください
ミアは、手元の紙束をもう一度見た。
十枚ほど、と言ってしまえばそれだけだった。
けれど、一枚目からしておかしい。
王権と領主権の関係が簡潔な図にまとめられ、それぞれの制度が成立した時期と、そのきっかけになった出来事が矢印で結ばれている。重要な語句には色がつけられ、昨日までばらばらだった知識が、目で追うだけで一つの流れになるよう整理されていた。
二枚目には過去三代の法改正。
三枚目には、それに伴う裁判権の変化。
さらにめくれば、授業では当然知っているものとして扱われていた言葉と、その前提になる知識まで簡潔にまとめられている。
綺麗だった。
あまりにも綺麗で、以前もらったハンカチを思い出した。
あのときも、セレスティーナは大したものではないような顔をして差し出した。それを家庭教師に見せてみれば、熟練した職人でも十日はかかると言われたのだ。
そして今、目の前にあるものも。
「……セラ様」
「はい」
「これ、本当に全部、セラ様が作ったんですよね?」
「はい。拙い手製のもので申し訳ございません」
字を見れば分かる。
もうすっかり見慣れた、セレスティーナの筆跡だった。
ありがたい。
すごい。
嬉しい。
――でも、その前に。
ミアは紙束から顔を上げた。
「……セラ様。ちょっと座ってください」
「はい?」
「いいから、座ってください」
セレスティーナが戸惑ったように瞬きをする。
すでに帰った生徒の席を借りて、ミアは自分の隣の椅子を引いた。
「ここです」
「はい……?」
よく分からないまま、セレスティーナが腰を下ろす。
ミアはじっと観察した。
顔色。悪くない。
指先。目立った震えはない。
座るときにふらつくこともなく、背もたれに身体を預ける様子もない。両足はきちんと床についている。
夏季演習の間に、ずいぶん妙なところを見る癖がついてしまった。
少なくとも今すぐ医務室へ連れていかなければならない状態には見えない。
そこまで確認して、ようやく少し息を吐く。
「ミア様?」
「……ちょっと待ってください。今、考えてます」
「はい」
セレスティーナは素直に待った。
二度目だ。
さすがにミアにも分かる。
この人は、多分、また寝ていないはずだ。
「何してるんだ?」
声をかけられて、ミアは振り返った。
帰り支度をしていたアレクサンダーが、こちらを見ていた。その近くにはジークバルトとトビアスもいる。
「アレク様」
「なんかあったのか?」
「あの、これ……」
ミアは自分でもまだ混乱したまま、紙束を差し出した。
「セラ様が、私のために作ってくださって」
「これを?」
アレクサンダーが受け取った。
一枚目を見る。
眉がわずかに動いた。
二枚目、三枚目とめくっていくうちに、表情が少しずつ険しくなっていく。
昨日、ミアと二人で首を捻った法学の課題。その前提になる知識が、ひどく分かりやすく整理されている。
「……これ、全部お前が?」
「はい、殿下」
アレクサンダーはもう一度、最初の頁へ戻った。
「自分の課題は?」
「昨日の分でしたら、すでに終えております」
「……そうかよ」
短く答え、また紙へ目を落とす。
感心しているようにも、不機嫌なようにも見えた。
「ちょっと見せて」
横からトビアスが紙束を受け取った。
数枚を確認してから、セレスティーナを見る。
「これ、いつ作ったの?」
「一昨日と昨日でございます」
「一昨日と、昨日?」
ミアが思わず聞き返した。
「はい」
トビアスはそれ以上尋ねず、教室の中を見回した。
まだ何人かの生徒が残っている。
「……長くなりそうだね。とりあえず場所を変えようか」
五人は、夏の間にも何度か使ったラウンジへ移動した。
空いていた卓を囲む。
問題の紙束は、真ん中に置かれた。
なんだか取り調べのようになってしまった。
セレスティーナだけが、どうして五人全員で場所まで移したのか分かっていないらしい。
「まず」
ミアは紙束に手を置いて口を開いた。
「これ、本当に嬉しいです」
「まあ」
途端にセレスティーナの顔が明るくなった。
「本当でございますか?」
「本当です。すごいです。昨日、私が分からなかったところだけじゃなくて、その前から全部繋がってますし、図もすごく分かりやすいです。これがあったら、次に分からなくなっても自分で戻って調べられます」
「よろしゅうございました」
ほっとしたように微笑む。
「お渡ししてもご迷惑ではないかと、少し心配しておりましたので」
「迷惑なわけないです」
ミアは即答した。
大切に使いたい。
本当に、そう思う。
けれど。
「……セラ様」
「はい」
「昨日、ちゃんと休んだって言いましたよね?」
「はい。休ませていただきました」
「何時に寝ました?」
セレスティーナが少し考えた。
「昨夜でしたら……三時を少し過ぎた頃だったかと」
「三時」
「はい」
「起きたのは?」
「いつも通り、六時でございます」
一瞬、誰も口を開かなかった。
「……三時間しか寝てないじゃないですか!」
「はい?」
セレスティーナが驚いた。
「でも、きちんと休ませていただきました」
「きちんとじゃないです!」
「三時間ほどは――」
「三時間は『ちゃんと寝た』に入りません!」
セレスティーナは目を瞬かせた。
「……そうなのでございますか?」
「そうです!」
「昨日、俺、休めって言ったよな」
アレクサンダーの声が割って入った。
「はい、殿下」
「それで三時までこれ作ってたのか?」
「はい」
「……お前な」
アレクサンダーの眉間に皺が寄った。
「自分の課題終わらせて、その上で、頼まれてもいないものを朝まで作ったのか」
「朝までではございません。三時には休ませていただきました」
「そういう話じゃない!」
声が大きくなった。
セレスティーナの肩がわずかに縮む。
「……ご不快でしたでしょうか」
「違う」
すぐに返った。
けれど、その先が続かなかった。
アレクサンダーは何かを言いかけて口を閉じ、苛立ったように髪を掻いた。
「殿下」
ジークバルトが短く呼んだ。
「分かってる」
アレクサンダーは椅子の背に身体を預けた。
それ以上は何も言わなかった。
「セレスティーナ嬢」
代わってジークバルトが声をかける。
「今、身体は?」
「問題ございません」
「立ってふらついたりは?」
「ございません」
「頭が回らないとか、手が動かしにくいとか」
「ございません」
「そうか」
ジークバルトはそれ以上追及しなかった。
「一昨日は?」
トビアスが尋ねる。
「はい?」
「一昨日から作ったんだよね。何時に寝たの?」
セレスティーナは少し考えた。
「……同じくらいだったかと存じます」
「二日とも三時間!?」
ミアの声が裏返った。
「はい」
「はいじゃないです!」
「……申し訳ございません」
セレスティーナがしゅんとする。
「違います、謝ってほしいんじゃないんです!」
ミアはますます混乱した。
嬉しい。
嬉しいのだ。
自分が困っていたことを覚えていて、自分のために考えて、こんなものまで作ってくれた。
だからこそ、嫌だった。
「これ、本当に嬉しいです」
ミアは紙束を自分の方へ引き寄せた。
「私のために作ってくれたことも嬉しいです。こんなに分かりやすくしてくれたことも、すごく嬉しいです」
セレスティーナがそっと顔を上げる。
「でも、三時間しか寝ないで作ったって聞いたら、素直に喜べなくなります」
「……喜んで、いただけないのですか?」
ひどく残念そうだった。
「喜んでます!」
ミアは慌てて否定した。
「嬉しいんです。だから困ってるんです!」
「……?」
やはり分かっていない。
「セラ様」
ミアは少し考えてから、できるだけ単純に言った。
「今度、私のために何かしてくださるときは、寝る時間を減らさないでください」
「寝る時間を、でございますか?」
「はい」
「ですが、ミア様のお役に立てるのでしたら――」
「そのせいでセラ様が寝てないって分かったら、私は心配します」
セレスティーナが黙った。
「せっかくこんなに嬉しいものをもらっても、心配することになります。それは嫌です」
「……ミア様が?」
「私がです」
セレスティーナはしばらく考えた。
やがて、納得したように頷く。
「……分かりました。では、次にミア様へ何かお作りするときには、きちんと眠ってからにいたします」
「はい。そうしてください」
ミアはようやく息を吐いた。
「せめて六時間は寝てください。八時間だっていいんですから」
「八時間も、でございますか?」
「いいんです」
「まあ……」
本気で驚いている。
「待て」
アレクサンダーが口を挟んだ。
「なんで今の話、ミアに何か作るとき限定なんだ」
セレスティーナが不思議そうに彼を見る。
「ミア様が、そうしてほしいとおっしゃいましたので」
「それ以外でも寝ろよ」
「もちろん、必要なときには休ませていただいております」
「必要なときっていつだ」
「身体が思うように動かなくなったときなどでしょうか」
また、沈黙が落ちた。
アレクサンダーが何か言いかける。
けれど、今度は言葉になる前に深く息を吐いた。
「……もういい」
「殿下?」
「よくないけど、今はいい」
セレスティーナは首を傾げた。
ジークバルトは額を押さえ、ミアは困った顔で二人を見比べる。
トビアスが卓上の紙束を揃えた。
「とりあえず、今日はここまででいいんじゃない?」
「…まあな」
「殿下。今ここで全部分からせようとしても、たぶん無理だよ」
「……分かってる」
不満そうではあったが、アレクサンダーもそれ以上は言わなかった。
「セレスティーナ嬢」
ジークバルトが言った。
「今日はもう帰るだろう。飯食って、早く寝てくれ」
「はい、ジークバルト様」
あまりにも素直な返事だった。
アレクサンダーが横から睨む。
「……お前、その『はい』信用していいんだろうな」
「もちろんでございます」
「…ちなみに、今日は何時に寝るつもりだ」
「本日はまだ、お母様からいただいている課題がございますので、それを終えてから――」
「ほら見ろ!」
アレクサンダーが声を上げた。
ミアが「ああ……」と額に手を当てる。
「だから寝てくださいって言ってるんです!」
「ですが、ミア様とのお約束は、ミア様に何かをお作りするときのお話では……?」
「そこだけなんですか!?」
「はい?」
「セラ様!」
ラウンジにミアの声が響いた。
ジークバルトは深く息を吐き、トビアスは椅子の背にもたれた。
アレクサンダーはしばらくセレスティーナを見ていたが、やがて諦めたように顔を覆った。
「……本当に、何なんだよお前」
その声には、以前のような露骨な敵意はなかった。
けれど、優しさだけでもなかった。
呆れか、苛立ちか。本人にも区別のつかない感情が、まだいくつも入り混じっている。
セレスティーナはそんなアレクサンダーを見て、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ご心配をおかけして、申し訳ございません」
「それもなんか違う」
「申し訳ございません」
「だから謝るな」
「はい」
「……もういい」
また同じところへ戻ってきた。
ミアは思わず小さく笑ってしまった。
「セラ様」
「はい」
「これ、本当にいただいていいんですよね?」
「もちろんでございます」
ミアは紙束を胸元に抱えた。
「ありがとうございます。大切に使います」
セレスティーナの顔が、ぱっと明るくなる。
「はい!」
その笑顔を見れば、やっぱり嬉しい。
だから今は、これでいいことにした。
少なくとも、自分のために何かを作るときには、寝る時間を削らない。
たった一つ。
けれど夏の初めには、その一つさえなかったのだから。




