4-4 必要そうなところだけ
翌朝、教室へ入ってきたセレスティーナを見つけると、ミアは自分から声をかけた。
「セラ様、おはようございます」
「おはようございます、ミア様」
セレスティーナはすぐに振り返った。
制服はいつものようにきちんと整えられ、長い髪も綺麗に結われている。背筋はまっすぐ伸び、歩き方にも怪我の名残はない。
九階層から運び出された日の姿が、もうずいぶん前のことのように思えた。
「昨日はありがとうございました。あのあと自室で、教えてもらったところをもう一度まとめてみたんです。そうしたら、だいぶ整理できました」
「まあ。それはようございました」
セレスティーナの顔が明るくなる。
「これなら、法学の課題も自分で書けそうです。歴史の方も、どこを調べればいいのか分かりました」
「それでしたら、嬉しゅうございます。もし途中で分からないところがございましたら、またおっしゃってくださいませ」
「ありがとうございます。でも……昨日、一時間くらい付き合わせちゃいましたよね」
ミアは改めてセレスティーナの顔を見た。
「病み上がりなのに、すみませんでした。体調、本当に大丈夫ですか?」
「はい。本当に何も問題ございません」
返事は迷いなく返ってきた。
「ミア様のお役に立てたのでしたら何よりです。それに、昨夜もきちんと休ませていただきましたから」
「そうですか。それならよかったです」
顔色も悪くない。声にも力がある。
ミアは素直に安心した。
「昨日の話か?」
後ろから声がした。
振り返ると、アレクサンダーが教室へ入ってくるところだった。ジークバルトとトビアスも一緒だ。
「アレク様。おはようございます」
「ああ。昨日、法学の課題をセレスティーナに聞くって言ってただろ」
「はい。教えてもらいました」
ミアは嬉しくなって、昨日のことを話した。
「すごく分かりやすかったです。私、一つ一つは覚えてたんですけど、それがどう繋がってるのか分かってなかったみたいで。セラ様に順番に説明してもらったら、ちゃんと分かりました」
「……そうか」
「アレク様より分かりやすかったですよ」
「余計なこと言わなくていい」
昨日は二人で分からないと言っていたのを思い出したのか、アレクサンダーが少しだけ不満そうな顔をする。
ミアは笑った。
アレクサンダーは何か言い返そうとして、ふとセレスティーナへ目を向けた。
「お前、身体はもういいのか」
「はい、殿下。もうすっかり問題ございません」
「……その自己申告が一番信用ならないんだよな」
「まあ」
セレスティーナは目を丸くした。
それから、嬉しそうに微笑む。
「殿下が気にかけてくださるのでしたら、とても嬉しゅうございます」
「……そうかよ」
アレクサンダーが視線を逸らした。
その横でトビアスが笑いを堪えている。
始業を告げる鐘が鳴り、五人はそれぞれの席へ戻った。
昼休みになって、ミアは少しだけ迷った。
夏季演習の間は、五人で食事をするのが当たり前だった。けれど九月になってからは、それぞれが元の生活に戻っている。
セレスティーナとは昨日久しぶりにゆっくり話したばかりだった。
「アレク様」
「ん?」
「今日のお昼、セラ様も誘っていいですか?」
アレクサンダーが怪訝そうにミアを見る。
「なんで俺に聞くんだ」
「だって……」
そこまで言って、ミアは口を閉じた。
以前の二人を知っているからだ。
それだけで伝わったらしい。
アレクサンダーはセレスティーナの方をちらりと見てから、肩をすくめた。
「好きにしろよ。俺は別に嫌じゃない」
「はい」
その言葉が少し嬉しかった。
ミアはセレスティーナの席へ向かった。
「あの、セラ様」
「ミア様、なんでございましょう?」
「今日のお昼なんですけど、よかったら一緒に食堂へ行きませんか?」
「わたくしも、よろしいのですか?」
「もちろんです」
「ぜひ、ご一緒させてください」
快諾だった。
久しぶりに五人で食堂へ向かった。
セレスティーナが選んだ昼食を見て、ミアは思わず苦笑した。
パン一つと牛乳。
夏の間に何度も見た組み合わせだった。
「……やっぱり、それなんですね」
「はい。とても美味しゅうございますよ」
「それは知ってますけど」
セレスティーナは何が問題なのか分からないらしい。
今は医師から食事について特別な指示も出ていない。ミアは何も言わず、自分も食事を始めた。
食べ終わったところで、午前中の授業を思い出す。
「そうだ、セラ様。今日の政治史なんですけど、一つ聞いてもいいですか?」
「もちろんです」
返事と一緒に、セレスティーナの表情まで明るくなった。
ミアが疑問に思ったところを話すと、セレスティーナは少し考えてから説明を始める。
昨日と同じだった。
ミアが何を知っているのかを確かめて、そこから足りないところだけを繋いでくれる。
「ああ……。だから先生、昨日のところを覚えておくように言ってたんですね」
「はい。おそらく次の授業では、そこから現在の地方統治へ進むのだと思います」
「へえ」
横で聞いていたアレクサンダーが顔を上げた。
「じゃあ、北部だけ制度が違うのは、その前の領主会議が残ってるからか?」
「それも理由の一つでございます。ですが――」
いつの間にかアレクサンダーまで話に加わった。
しばらく黙って聞いていたジークバルトも、食事を終えると教本を取り出した。
「セレスティーナ嬢。ついでに俺も一ついいか」
「はい、ジークバルト様」
「昨日の数学なんだが」
「どちらでしょう?」
また、セレスティーナが嬉しそうにする。
ミアはその顔を見て、昨日から感じていたことが少しだけ分かった気がした。
セレスティーナは、人に何かを教えるのが好きなのかもしれない。
「ジークまで始めたら、昼休みが勉強会になるよ」
トビアスが笑う。
「いっそお前も、分からないところがあるなら聞いておいたらどうだ?」
「僕は今日は大丈夫。それに全員で質問したら、セレスティーナ嬢の休憩がなくなるでしょ」
「あ」
ミアがセレスティーナを見る。
「わたくしは構いませんが」
「構ってください」
ミアがそう言うと、セレスティーナは少し不思議そうな顔をした。
話が一段落したところで、ミアは鞄から小さな包みを取り出した。
「セラ様。これ、どうぞ」
「まあ」
それだけで、セレスティーナの顔が明るくなる。
「ありがとうございます、ミア様」
いつもの焼き菓子だった。
セレスティーナは両手で受け取り、包みを丁寧に開いた。一口かじると、目元が柔らかく緩む。
「美味しゅうございます」
「よかったです」
ミアもつられて笑った。
「あ。アレク様の分はないです。ごめんなさい」
「別にいらない」
答えながら、アレクサンダーはセレスティーナを見ていた。
ミアが焼き菓子を渡していることは、夏の間に聞いていた。
けれど、こうして目の前で見るのは初めてだった。
公爵家の令嬢が、街で普通に買える菓子を大切そうに持っている。一口ずつ食べて、そのたびに本当に嬉しそうな顔をする。
誰かに見せるための顔には見えなかった。
こちらが見ていることにすら、気づいていない。
「……殿下」
隣からトビアスが小さく囁いた。
「これ、本当にもう別人だね」
アレクサンダーはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷く。
「……ああ」
最初は、演技だと思っていた。
急に殊勝になって、何を企んでいるのかと腹を立てた。
だから五人分の課題まで押しつけた。
それを一晩で全部仕上げてきたときでさえ、まだ疑っていた。
今思えば、ずいぶん意地になっていた気がする。
「なんか、こいつ相手にムキになってた俺が、どうかしてたような気がしてきた」
「前が前だからね」
トビアスは苦笑した。
「ただ、知識は本物だし、あの魔力操作一つ取っても参考にはなる。悔しいけどね」
「それは認める」
二人の視線の先で、セレスティーナはまだミアと話していた。
焼き菓子の最後の一口まで、やはり幸せそうに食べていた。
放課後。
帰り支度を始めたミアは、ふと視線を感じた。
顔を上げると、セレスティーナがこちらを見ている。
目が合えば微笑むのに、何か言いたそうにしたまま動かない。
「セラ様? 何かありましたか?」
「あの……」
セレスティーナは少し迷った。
「もし、今日も……わたくしでお役に立てることがございましたら、と思いまして」
「え?」
「昨日のように、分かりにくいところなどございましたら。もちろん、ほかのことでも構いません」
ずいぶん遠慮がちな言い方だった。
けれど、ほんの少し期待しているようにも見えた。
ミアは昼休みのことを思い出す。
質問するたびに、嬉しそうにしていた。けれど、いくら本人が大事だと言っても、そう何度も頼ってしまうのは、なんだか駄目な気がした。
「ありがとうございます、嬉しいです。でも、今日は自分で頑張ってみます」
「まあ…」
セレスティーナの顔がほんの少しだけ曇った。
「昨日教えていただいたところを使って、一度自分でやってみたいんです。それに、病み上がりのセラ様に連日ご迷惑をおかけするのも申し訳ないですし」
「わたくしは、迷惑などでは――」
「セレスティーナ」
アレクサンダーが口を挟んだ。
「医師にも言われただろ。一月は無理するな。今は血を作るのに専念しろって」
「はい、殿下」
「だったら今日は休め」
セレスティーナはかなり残念そうな顔をした。
それでも、素直に頷く。
「殿下がおっしゃるのでしたら、そういたします」
それから、ミアへ向き直った。
「ですが、ミア様。何かお役に立てることがございましたら、いつでもおっしゃってくださいませ。わたくしにできることでしたら、なんでもいたします」
「はい。ありがとうございます」
ミアは苦笑した。
アレクサンダーも似たような顔をしている。
その日は、それで別れた。
翌朝も、セレスティーナはいつも通り教室にいた。
「おはようございます、セラ様」
「おはようございます、ミア様」
昨日と同じ笑顔だった。
授業を受け、昼になった。
「セラ様、お昼に行きましょう」
昨日とは違って、ミアはもうアレクサンダーに確認しなかった。
「はい、ミア様」
セレスティーナも当然のように立ち上がった。
五人で食堂へ向かう。
昨日と同じように食事をして、少し話をした。
ミアは授業で分からなかったことを一つだけ尋ねた。
セレスティーナは嬉しそうに答えてくれた。
けれど、それ以上は聞かなかった。
昨日、自分で頑張ると言ったのだから、まずはやってみようと思っていた。
午後の授業も終わった。
教本を鞄へしまい、今日は図書室へ寄ってから帰ろうかと考えていたときだった。
「ミア様」
呼ばれた。
ミアは少し驚いて振り返った。
セレスティーナの方から呼び止められることは、ほとんどない。
「はい?」
セレスティーナが立っていた。
胸元に、何枚かの紙を抱えている。
「あの……」
昨日と同じように、少し遠慮がちな声だった。
けれど今日は、どこか落ち着かない様子で紙の端を指先で押さえている。
「昨日のお話なのですが」
「昨日?」
「はい。その……授業をお聞きになっていて、また分からなくなったときに、少しでもお役に立てればと思いまして」
セレスティーナは抱えていたものを差し出した。
「こちらを」
「……私にですか?」
「はい」
ミアは両手で受け取った。
思っていたより、厚みがある。
一枚目をめくる。
綺麗に整えられた文字。
その下には、色を分けて引かれた線があった。
出来事と制度が矢印で結ばれ、別の頁を見れば、その前提になる知識が簡潔にまとめられている。
二枚目。
三枚目。
まだある。
「……セラ様」
ミアは顔を上げた。
セレスティーナは、少し不安そうにこちらを見ていた。
「多すぎてもミア様のご負担になるかと思いまして、必要そうなところだけにまとめてみたのです。拙い手製のもので、かえってご迷惑かとも思ったのですが…」
ミアはもう一度、手元の紙束を見た。
必要そうなところだけ。
その言葉と、手の中にある十枚ほどの紙が、どうにも結びつかなかった。




