4-3 できること
九階層へ一人で行ったあの日から、セレスティーナは少し時間を持て余していた。
最初の数日は、医師に寝ているように言われた。
怪我はミアの奇跡の光でほとんど治してもらったのだから、もう動いてもよいのではないかと思ったが、医師は強かった。「寝ていろ」と言われれば、寝ているほかなかった。
だから、ずいぶん早い時間から寝台へ入った。
眠れるだろうかと思った。
眠れた。
それも、自分でも驚くほど長く眠った。
目を覚まして、窓から差し込む朝の光を見たときには少し驚いた。途中で一度も起きなかったらしい。こんなに長く眠ったことがあっただろうかと考えて、不思議な気持ちになった。
夏季演習の最後の数日は、みんなと一緒に報告書を作った。
迷宮へ入ることはできなかったけれど、楽しかった。
ミアは食事の時間になれば声をかけてくれたし、アレクサンダーも、食べたか、寝たかと時折確認してくれた。ジークバルトやトビアスまで、いつの間にか同じようなことを聞くようになった。
そんなことまで気にかけてもらえるのは嬉しかった。
けれど、少し申し訳なくもあった。
自分のために、みんなの時間を使わせてしまっている。
それなのに、何も返せていない。
九月になった。
平常授業が始まり、毎日の予定も元へ戻った。
教室でミアを見かければ挨拶をする。
「ごきげんよう、ミア様」
そう呼べることは、今でも嬉しかった。
ミアも「セラ様、こんにちは!」と返してくれる。
それだけで十分に幸せだった。
けれど、アレクサンダーは仕事をくれなくなった。
以前なら、授業の合間や放課後に、資料をまとめてほしいだとか、確認してほしいものがあるだとか、何かしら頼んでくれた。
今は、ない。
九階層では、ちゃんとできなかった。
迷惑もかけてしまった。
だから仕方がないのだろうと思う。
仕事がないのは、少し残念だった。
けれど、セレスティーナには王太子妃となるための勉学がある。
学院の課題だけではない。
母から渡されている課題もあった。
王国史、法、外交、領地経営。社交界の家門についても覚えなければならないし、刺繍や魔術の修練もある。
やるべきことなら、いくらでもある。
――はずなのだけれど。
それでも、時間が余った。
夜、自室の机でその日の課題を終え、セレスティーナは時計を見た。
まだ早い。
母からもらった課題も終わっている。
明日の予習も済ませた。
いつもなら、こうした隙間には魔術の修練もできた。魔力の圧縮や制御なら大きく身体を動かす必要もなく、短い時間でもできる。
けれど、それも今は控えていた。
迷宮探索ほどではないにせよ、身体や魔力へ負担をかけることはしばらく減らすように言われている。
それなら、何をすればよいのだろう。
以前、ミアには八時間ほど眠ってもよいのではないかと言われたことがあった。
けれど、もう元気なのに、そんなに長く休んでしまうのはもったいない気がした。
何か、できることはないだろうか。
そう思いながら過ごす日が、数日続いた。
何かを忘れているような。
まだできることがあるのに、見つけられていないような。
なんとなく落ち着かない。
だから。
「あの、セラ様」
放課後、そう呼ばれたとき。
セレスティーナはすぐに振り返った。
「はい、ミア様」
嬉しかった。
ミアが話しかけてくれた。
まだ、セラと呼んでくれた。
その名前を聞くたびに、不思議な気持ちになる。
胸の奥が、ほんのりと温かくなるのだ。
あの日、ミアの奇跡の光を浴びたときのように。
身体の内側まで日向にいるような、あの温かさ。
聖女様のお力とは、本当に素晴らしいものなのですね。
そう思った。
そして、ミアが困っていることを知った。
法学と歴史学の課題。
最初は、少し確認すれば済むのだと思っていた。
けれどノートを見て、話を聞いているうちに分かった。
ミアは、知らないわけではなかった。
一つ一つの出来事は知っている。
法令の名前も、事件も、制度も覚えている。
ただ、その間が繋がっていない。
だから、何を問われているのかが分からなくなっていた。
それは、昔のセレスティーナの記憶の中にもたくさんあった。
初めて歴史を習った頃。
法を習い始めた頃。
覚えることが増えるたび、一つ一つの知識がばらばらに頭の中へ積み重なっていく。
何度も間違えて、覚え直して、別のことを教わって。
そうして、いつの間にか繋がっていった。
ミアには、そのための時間が足りなかっただけなのだ。
一時間ほど一緒に確認すると、ミアの顔が明るくなった。
「分かります」
そう言ってくれた。
「セラ様、分かります!」
嬉しかった。
最後には、少し泣きそうな顔で何度もお礼まで言ってくれた。
自分がしたのは、知っていることを少し整理しただけなのに。
それでも。
「でも、これならできます。ここまでわかってれば、ちゃんと自分で書けます」
そう言って、笑ってくれた。
帰る前には、いつもの焼き菓子までくれた。
久しぶりだった。
二人で一緒に食べた。
甘くて、とても美味しかった。
その夜。
セレスティーナは自室の机へ向かいながら、昼間に見たミアのノートを思い出していた。
一つ一つは知っているのに、その間が繋がっていない。
今日の課題は、もう大丈夫だろう。
けれど、授業はこれからも続く。
明日も、来週も、その先も。
今日と同じように、知識と知識の間が分からなくなってしまうことがあるかもしれない。
何か、できないだろうか。
昔のセレスティーナが、同じところで躓いた記憶がある。
どの順番で習ったのかも。
何と何を一緒に覚えれば理解しやすかったのかも。
あとから分かってみれば簡単だったのに、そのときにはどうしても分からなかったことも。
それを、少しだけまとめておいたらどうだろう。
教科書とは違う。
ミアがすでに知っていることを、まだ知らないところへ繋ぐためのもの。
授業を聞いていて分からなくなったとき、少し見れば、その前に何を確認すればよいのか分かるようなもの。
それなら、ミアが少し楽になるかもしれない。
「…… そうです」
良いことを思いついた。
セレスティーナは紙を一枚取り出した。
まず、法学から。
王国法と領法。
王家と諸侯。
裁判権の変遷。
どこから書けば分かりやすいだろう。
今日、ミアが最初に躓いたところを思い出しながら、順番を組み替える。
一枚書いた。
読み返す。
少し分かりにくいかもしれない。
もう一度書いた。
今度は線を引いた。
出来事と法令の関係が、一目で分かるようにした方がよいかもしれない。
色を分ければ、もっと見やすい。
そうしているうちに、夜が少し短くなった。
けれど、不思議だった。
少しも嫌ではなかった。
ミア様のために、できることがある。
そのために、この丈夫な身体を使うことができる。
とても、幸せだと思った。
ふと、時計を見た。
もう少し続けられる。
手も動くし、頭もちゃんと働いている。
けれど。
――ミア様なら、寝てくださいとおっしゃるでしょうか。
そんな気がした。
セレスティーナは少し考えてから、ペンを置いた。
せっかくミアが気にかけてくれているのだから、その気持ちを無駄にしてはいけない。
きちんと寝台へ入った。
そして翌朝、目を覚ましたとき。
ちゃんと休めたことが、少し嬉しかった。
これなら、ミアにも心配をかけない。
その日も授業を受けた。
学院の課題をした。
母からもらった勉強もした。
そして残った時間で、昨日の続きを作った。
多すぎれば、かえってミアの負担になるだろう。
だから、必要なところだけにしなければならない。
一度書いたものを減らした。
順番を変えた。
図を描き直した。
色をつけた。
もっと分かりやすくできる気がして、また書き直した。
夜は、また少し短くなった。
それでも、ペンはよく動いた。
ミア様は、受け取ってくださるだろうか。
ふと、そんなことを考えた。
そこまで考えてしまってから、セレスティーナは少し恥ずかしくなった。
頼まれてもいないものを作って。
それを受け取っていただけるだろうかなどと期待するなんて。
少し、思い上がっているのかもしれない。
けれど。
最後に一緒に食べた焼き菓子の甘さを思い出した。
また、少しだけ胸が温かくなった。
セレスティーナは新しい紙を取った。
ペン先をインクへ浸す。
ミア様のためにできることがある。
そのために、この丈夫な身体を使うことができる。
それが、とても嬉しい。
今夜も、ミア様なら寝てくださいとおっしゃるだろう。
だから、ちゃんと休もう。
それまでは、もう少しだけ。
そう思うと。
その夜も、ペンはいつまでも軽く走った。




